2012年5月24日木曜日

平和裏に、、、?

誰もが平和を願っている。それは当然のことだ。しかし人類歴史は闘争歴史でもあり、闘争歴史を通して復帰の摂理をされてこられた神様であり、戦いを外から眺めて堕落人間の好戦性にただ溜息をついておられた神様ではない。本当の平和は、サタンに奪われたものを奪い返してこそ迎えることができるのであって、食口の中ですら平和主義者がいて、波風立てるべきではないと教会のグループへのあからさまにみえる対応を憂慮している。軍事アレルギーで、軍隊をもつから平和にならないのだとか自衛隊は憲法違反だとか叫んでいる連中とそう変わりはないと言ったら気分を害するだろうか。平和主義それ自体は尊い。しかしそれが万民を思い遣り、平和の為には犠牲すら厭わない意志を貫いた純粋な平和主義なのかを問うべきだ。犠牲の上にある繁栄社会にあぐらをかき、自分は何の犠牲も払わずに平和を叫ぶのは偽善だ。食口であっても戦いを外から眺めていて批評を口にするのは、御父様の胸のうちを無視している。平和主義者にはロマンチストが多く、自分が夢見てイメージする決して現実的とは言えない平和に酔っているが、平和酔いというか平和ボケで、サタンが自分の中に居座っていて、平和ボケ故に好きなように操られていることを気付いてはいない。えてして平和主義者であると信じながら、実のところ戦いから逃げようとする妥協主義者に過ぎなかったりする。そしてどんな状況でも言い訳だけは饒舌にして、当事者にならないように逃げまくる。食口も自分の心と体の戦いすら認識できずに、自己の矛盾性にすら妥協しているとは言えないか。教会を支持はするが、あからさまなグループへの対応は良くないと言う意見も多いが、起こっている現実を本当に認識しているのだろうか。彼らが我々の資産を名義上だけの法的権限で売り飛ばしている惨状を仕方がないから黙って見ていろとでも言うのだろうか。アメリカでは教会の殆どの資産を売り飛ばし、御父様の息のかかった企業も彼らの手で遣りたい放題だ。み旨の道に、この道にいなくてはならない人間、いてはならない人間、いてもいなくてもいい人間とある。今の状況でどっちつかずはグループと同じで、いてはならない枠組みに入れられるだろう。訓読会での御父様は平静を装われているように見受けられるけれど、私が見た御父様は怒気を露わにされて我々にはっきりと分別を突きつけられた。裂いて分別してこそ生き残り、残った者を御父様は受け入れられるはずだ。