2012年5月26日土曜日
今日の想い 410
子供が生まれて人は次元を上げる(縦的段階を上がる)。人は次元を上げて親になる。自分が親という存在になろうとしたのではなく、子供が私を親にした。親としての自覚を子供に負うている。親としての自覚も、親としての感情も、親としての衝動も、全ては子供に負うている。愛の対象に負うている。人間が創造されて神様は次元を上げた。神様は次元を上げて親なる神様になった。いや、なるはずだった。神様が親になろうとしたのではなく、喜びの対象として創造した人間が神様を親にするはずだった。神様も親としての自覚を人間に負うている。親なる神としての自覚も、親なる神としての心情も、親なる神としての衝動も、全ては人間に負うている。愛の対象に負うている。神様が根源であり主体であるけれども、親なる神様としての自覚は人間に拠っている。しかし、堕落という事実が人間と親なる神様を隔ててしまった。サタンを親とする人間は、神様を真の親として立てることはできなかった。親としての自覚も、親としての心情も、親としての衝動も奪われて、親としての神様にはなりきれない。根源の神、創造の神ではあるけれども、親なる神様にはなれなかった。イエス様が誕生されて、初めて神様は親なる神様になられた。旧約の創造主としての神様から新約の親なる神様となられた。そして十字架の摂理が足早にやってきて、親なる神様は子を奪われた。親なる神様はすぐさま子を失った神様になられた。神様ほど可愛そうな方はおられないだろう。創造した人間を親として愛せない。愛したくても愛せない。逆に人間は神様を恨んできた。堕落の身の自分を呪いながら神様に恨みの槍を突き刺してきた。十字架につけられたイエス様を兵士が槍で突き刺すように、人間を直接愛せない神様を、人間誰もが恨みの槍で突き刺してきた。不憫な子であればあるほど親は子が愛おしい。子が親への恨みを募らせれば募らせるほど親としては居た堪れない。親は子供に全てを負うて、あらゆる情の痛みを通過しながら、神様の心情を理解していく。