2012年5月25日金曜日
今日の想い 408
その先生のお話は、常に穏やかで気を許せば眠くもあったけれど、実に理路整然と話されて分かりやすかった。あれほどのみ言葉の人が、どうしてこんな態度を取られこんな状態になるのかと、合点がいかないのが大方の食口だろう。私も腑に落ちるまである程度の時間を要した。どれほど原理的な解釈であったとしても、人を指してサタンの位置だと言うのは極端すぎると思ったし、ましてや側近中の側近として御父母様に仕えてこられた先生だ。闘争の真っ最中にあって、これを教訓として受け取るには早合点に過ぎるけれども、高い位置に有ればあるほど狙われ易いということだけは誰もが頷くだろう。予断の寸分も許されないヒマラヤ登頂の最後の絶壁で、数ミリの足の運びを間違え、大きく割れたクレパスの奥深く、地獄の底にまで一瞬で転げ落ちてしまったと言ったところだろうか、、。中心位置と言うある最重要ポイントに於ける、ほんの数ミリの不信や驕りが、集積マイクで採取されて天宙スピーカーの大音響として鳴り響くように、或いは微細な中性子をぶつけることで一瞬の連鎖拡大反応をなして巨大な核爆発を起こすように、御家庭から教会全体まで全ての不信という不信を集結させ、悪という悪を集結させている。中心の更に中心に位置する立場がどれほど恐ろしいかと言うことだ。神様と神霊存在達が一方にいるように、サタンとサタン的存在達が確実にいる。サタンは神様の前に悔い改めても、多くのサタン的存在達が確実にいて、自分達の居場所も存在自体も否定される最後の絶壁に立っているために、その足掻きは死に物狂いだ。サタンが取る条件の僅かでもあれば、執拗に攻め込んでくる。グループは、霊的なサタン的存在に操られているとは露ほども思っていないだろう。グループに組するものは今までの信仰路程で、霊的知に於いても、霊的感情や気分に於いても、サタンの認識が極めて甘すぎたと言える。たとえ原理的解釈はされても、エデンの園の物語としてだけ認識し、自分の内面の現実として受け取れなかったと言うことだ。サタンに対する実感がないから正体が見破れないのだ。摂理は堕落人間の理解を踏んで進められる訳ではない。どうして、、と考えること自体、摂理の願いに一致しない場合が往々にしてある。起こっていることを同時的に原理的に理解して歩むのではなく、理解は後付けでなされて頷くのであり、その場はただただ絶対信仰、絶対服従あるのみだ。