2012年6月26日火曜日
境界が取り払われる
霊界がどれほど恐ろしいかと言うことを殆どの者は知らずにいる。私の意識は目覚めている時にしか働いていないが、その意識はあくまで外界に向いており、私と言う認識も外界に向いた意識で照らして認識しており、霊的意識が開かれて霊的意識で照らされた認識とは全く異なる。しかし霊界が主体であり地上界が対象であるように、霊的意識を主体に備えて概念、認識を組み立ててこそ対象である地上意識も正しいものとなる。霊界、地上界の境界が取り払われると御父様は語られたが、それが単に霊界が見えるようになるくらいの軽い感覚で捉えているようだけれども、その意味がどれほど恐ろしいかを、せめて原理を知る私達は理解しておかなければならない。私達は霊界地上界に足をかける存在ではあるが、或る種のフィルターを霊的本質に何重にもかけられて直接的霊的なものから保護されている。それは内界でも保護されており外界でも保護されている。通常の意識はその保護フィルターを超えて届くほどではないから守られており、意識圏内に保護されている以上、意識圏外があることなど思いもよらず、霊界の実在に対して信じる者も信じない者もその実感は殆どない。しかし霊界、地上界の境界が取り払われるとどうなるか。それは保護フィルターが取り払われ霊的なことがダイレクトに押し寄せてくる。保護は人間の内外両面にあって、内面の魂の境域の深みに霊的世界はあり、外界地上界の存在の背後に霊的世界がある。天宙の霊の働きは地上人間の想像を絶する壮大かつ圧倒的で、保護なし準備なしで投げ込まれるなら恐るべき混乱を体験することになる。内面を保護している境界が取り払われると、先ず己の不完全さに羞恥心の火で焼かれるだろう。外界を保護している境界が取り払われると、麻薬で幻想世界に入って行くように霊の迷宮に迷い込む。幻想世界はまだ迷宮の入り口近くで高揚や恍惚を覚えるくらいでも、霊の迷宮に迷い込めば私と言う統一的霊は拡散し霊の餌食になる。私達は保護を取り払われた時の準備として、御父様に帰依し、み言葉とひとつになり、絶対信仰絶対服従を備えている。
2012年6月25日月曜日
謙虚、そして感謝
感謝の生活をすべきだと言うことは良く話しに上る。生活の中で特別な嬉しいことが起こると感謝の感情も満ちるけれども、普段の生活の中でそれほど特別なことが毎日起こるわけでもない。しかし変わりのない毎日だという気分は、本来私という存在を生かす為に、どれほどの犠牲が供えられているかが分かっていないからそういう惰性的な低い感情に留まったままになる。感謝の想いは、私は今の与えられた位置に立つには余りにも相応しくないという謙虚さが前提にある。誰も、謙虚であるべきだとは思っているが、思っているだけで実際謙虚であるのとは異なっている。謙虚さを自分の在り様として備えている人は稀で、結構、卑下すると言うことと混同してしまっている人が多い。謙虚さが備わると感謝の本当の意味がわかる。私が戴いているこの肉体と生命体、またこの肉体を育み維持させている自然や環境。思考し感情し意志行動する心魂活動を寸分の狂いもなく表現する生命体や肉体はどれほど緻密な創造実体だろうか。それに比べて、緻密な創造実体を戴いて主管する私の魂はどれほどいい加減な存在だろうか。心と体が戦うというけれども、正確には生心と肉心が戦っている。肉心を外した肉体は創造の神様の創造の極致にある。この創造の極致である宇宙船を、私と言う魂が乗り込み、その活動の為に無理をさせ壊し続けている。思考し感情し意志することはこの肉体を破壊し続けていると言うことだ。肉体に取ってはストレス以外の何物でもない心魂活動を受け止め、主人としての心魂に絶対服従している。こんな堕落した私の為に絶対服従する肉体に対して、申し訳なく思って当然であり、愛おしく思わなければならない。眠りについて霊界に広がって霊的活力を得た心魂が、朝目覚めてこの肉体に入る時、無意識なので何も覚えてはいないが、もし肉体に入る過程が意識的であるなら、あまりの肉体の神々しさに不完全な心魂がそこに入っていくのに、恥ずかしくて恥ずかしくて、あまりの恥ずかしさの為に焼かれて消え入りそうになる。無意識がその霊的感覚を鈍くして助かっており、意識のある間は外界に集中しているので、ずうずうしくも生活に支障はない。死んで霊に目覚めれば、己の魂の未熟さに恥ずかしさで焼かれてしまうだろう。私の魂の実態を知れば知るほど恥ずかしさを覚えるし、それ故に謙虚にならざるを得ない。謙虚さが服を着て生活していると言うほどに謙虚な自分が備わると、あまりにも些細な日常のことが、涙が止まらないほどありがたくなるし、申し訳ない想いが溢れてくる。
今日の想い 426
心の弛緩期を終えれば再び緊張の時を迎える。私の戦う相手は私の胸に広がる感情の背後にいる。問題の外的姿はその都度趣向を凝らしながら迫って来るけれども、外的なことは最悪の場合の覚悟さえ備えればそれでいいのであって、引き起こされる胸に広がる感情を操っている霊的存在が私の戦う相手だ。それは私自身でもあると言える。私自身と戦うという認識は心と体が戦っていることを踏まえての認識だ。心が折れるという言い方をするけれども、内面に立てていた柱が幾つも倒されていって、謂わば内面地震を受けて連鎖的に内的柱が折れて倒れていく。しかし御父様に対する絶対信仰という屋台骨だけは、どんなことが起ころうとも倒してはならず、生活や生きて行く上でのいろんな柱は折れるときには折れるもので、それを折るまいとして屋台骨を疎かにして補強に当たると、私の存在そのものが怪しくなってくる。逆に、付随的な柱が折れてしまうことで、絶対信仰という屋台骨を中心としたより強固な生活(意志)柱、思考柱、感情柱を新しく立て揃えることができるだろう。打たれれば打たれるほど強くなり、考えれば考えるほど形を整え、悩めば悩むほど柔軟性を帯びた心魂柱が立つ。生活を脅かされるような問題が生じると、絶対信仰そっちのけで生活を守ることに転じてしまいがちだが、拙い経験からいって、生活が否定されても、新たな、より土台のしっかりした生活ステージが必ずと言っていいほど現れて来るものだ。もちろん、新たな希望的チャンスが形になり始めるまで、信仰を屈してはならないのは言うまでもない。日本は大震災から一年を超えた。相当なダメージを受けるには受けたが日本の屋台骨は辛うじて残っている。しかし政治、経済、社会的公徳心のどの局面を見ても、屋台骨が崩れかけているのがわかり、日本という傾いている精神柱の芯として、天への垂直的芯棒を埋め込む必要がある。日本食口の使命の一つは、その芯棒を用意することでもあったはずだが、ここまで来てしまった以上最後の望みは、日韓トンネル以外ないだろう。
2012年6月23日土曜日
今日の想い 425
マリヤがイエス様に対する使命を果たせずにヨセフ家庭の失敗が確実なものになると、イエス様はついにヨセフ家庭を捨てて飛び出し、放浪されながらそこら辺から弟子を募り始められた。ヨセフ家庭の失敗を、何とかして弟子達を集めた中で蕩減復帰すべきだった。そうしてヨセフに代わる者として立てた存在が、誰あろうイスカリオテのユダだった。ユダはイエス様の元を尋ねた最初から、裏切りの要素があるかように思えるけれども、実は彼ほどイエス様に取って信頼に足る存在はいなかった。ヨセフを天使長の位置に立ててエバを奪った逆の路程を摂理されようとしたように、ユダに絶対的信頼を置いて彼を天使長の位置に立て、エバを奪った天使長が逆にエバを奪われ、更にそれをよしとする使命が彼にあった。イエス様は意図的にユダの妻に対して、夫を愛して仕える以上にイエス様を愛して仕えるように仕向けられたはずだ。それが一度ならず事ある毎に為されただろうし、その関係は敢えて深くもなっていったはずだ。イエス様のこれ見よがしの態度にユダの心中は荒れ始める。ユダはイエス様に対して心も体も捧げることを誓ったそのイエス様との出会いは本物のはずだった。しかしイエス様に妻を取られたような目の前の現実が、天使長から血統を通して譲り受けた堕落の性品を荒れ狂わせ、どうすることもできなくなっていた。ヨセフが勝利できなかったことは更なる輪をかけた困難を伴ってユダに降りかかる。蕩減原則から判断してそうなる。聖書には、ユダとイエス様の関係は事細かに記されてはいないけれども、人情的な見地に立てばユダに同情せざるを得ない関係性があったはずだ。イエス様が最後の晩餐の場で裏切りを予知され、生まれないほうがよかったとまで言及されたユダだが、栄光の王の御傍に立つべき洗礼ヨハネが不信して天国で最も低い位置にあるように、結果的に裏切ったユダも乗り越えることが出来ていれば栄光のユダと言われていただろう。使命が大きいということ、神様の期待が大きいということ、天を突き抜けるほどの高みに座を備える存在は、一つ間違うと高みへの距離と同じ距離で地の底の底まで落とされる。それなりの使命を受け取っている私達の立場もどれほど恐ろしいことか。
今日の想い 424
大宇宙に比べれば小さな一点の地球であり、その小さな一点の地球の更にミクロ単位でしかない私と言う存在がいる。そんなミクロの人間存在の中に大宇宙を実感でき、大宇宙を巡ってもいることをどれだけの者達が知っているだろうか。人間をミクロコスモスと呼ぶ理由を器官系という外的肉体に知識として見るだけでなく、内的霊的な見地に立てば、様々な心魂様相を味わいながら実は大宇宙そのものを把握主管しようとしている。太陽を中心として、地球を含む惑星がそれぞれの円軌道を走っているわけだが、唯物的物理学的にイメージしている宇宙様相は、実は心魂世界の象徴として存在していて、時間を時計で把握するように心魂世界を宇宙で把握する。太陽やそれぞれの惑星間の距離や位置関係が心魂世界の状態を表している。地球が、他の霊的存在の形成ではなく人間形成のステージであるように、それぞれの惑星は天使や霊的存在のそれぞれの形成のステージだ。人間は神の形象的実体だという意味を問うてみると、神が創造を意志されてから、霊的存在の創造はその都度段階的に為され、創造された霊的存在は新たな創造に関与し、そうやって神の創造を共にした霊的存在達すべての心魂ステージを併せ持った存在として人間は作り上げられ、すべての階級の霊的存在と相和同できる存在になり得ると言える。惑星には最もシンプルな熱様相としてだけの土星が存在しているが、土星は心魂の基礎の基礎を形成する魂の第一ステージとして存在している。土星から始まる惑星での魂のステージを積み上げていって、心魂が複雑化していきながら、最終局面の霊的存在である天使長として、彼らの天使長形成ステージを月で終えた。そして天使長は次なる最終ステージの地球創造、人間創造の最終段階に関与した。この関与に於いて堕落という事件が起こってしまった。堕落しなければ、内的霊的知を供えて愛の完成存在となって、大宇宙とリンクしている自らの心魂世界を飛び回り、愛で把握主管しただろうに、堕落人間の心魂は肉体のジェイルに捕らえられて本来の心魂が開かれてはいない。私の心魂が開かれるときが本当の開闢だ。それは基元節のことかも知れないし、何代か後の後孫のことかも知れない。しかし、必ず心魂が開かれて、私自身が宇宙であると実感できる時代が来るはずだ。
2012年6月22日金曜日
カナの婚礼
イエス様は何度も何度も結婚の必要性を母マリヤに訴えた。マリヤは誰よりもイエス様を母以上の立場で愛し保護しなければならなかったし、夫ヨセフを説得しなければならなかった。ヨセフは天使長の位置であって、エバを奪った天使長の逆の立場で、聖霊で身ごもった妻を訝(いぶか)る周りの目から保護し、さらに妻として関係を持つべきではない使命があったにも関わらず、関係を持って自分の子を為してしまったのであり、聖霊で身ごもったという誰の子とも知らない、自分の子でないことは明らかなイエス様を、人情を超えて保護しなければならない使命も投げ出した形になってしまった。ヨハネ伝にガリラヤの町であったカナの婚礼の話が、イエス様が奇跡を起こしたことだけにスポットを当てて記されているが、しかし御父様の説明から受け取る情景はと言うと、こんな感じになる。親戚であるカナの婚礼の場にマリヤが手伝いに来ていて、イエス様と弟子達がその場に顔を出した。マリヤはボロ布をまとったイエス様と弟子達を怪訝な顔で眺めた。家を飛び出したイエス様は貧乏人達を従えてあちこち顔を出していると噂に聞いていた。それがあろうことに婚礼に顔を出してマリヤの家の恥を晒している。マリヤは投げ捨てるように「お前たちの飲む酒はないからとっとと失せておしまい、、。」と告げると、イエス様は言葉を返した。「人の婚礼の準備をするより、私の婚礼の準備をすべきなのに、私のことは投げ出して置いてそのままでいいのか。もはや母でもないし何の関係もない。」と吐き捨てた。イエス様は何度も異母兄弟であるザカリヤの娘、洗礼ヨハネの妹と結婚すべきであることをマリヤに告げていた。マリヤは世間の常識から判断してイエス様の要求にはとても応えられなかったし、マリヤ自身がイエス様をまともではないと思ってしまっていた。人間的な見地で測るべきではないイエス様を、もっとも守るべきマリヤであったが、生命をかけて律法に反しイエス様をみごもり育てたマリヤでさえも、尋常を逸した天の要求には応えられなかった。イエス路程を頭だけで理解していると、マリヤの失敗を何の配慮もなく断罪しているけれど、マリヤでさえイエス様を守り切れなかったのであり、ましてや私がどうなるものだろうと、謙虚の上に更に謙虚を満たして御父様に接しなければならないだろう。
今日の想い 423
イエス様の路程は、誕生から十字架に架かられるまで、更に復活されたイエス様の歩みに至るまで、人間的な視点からは決して納得できないことの連続だ。人間的視点は堕落的視点でもあって、イエス様は聖別された胎内を通して堕落と関係の無い存在であり人類のメシヤであられるので、堕落的視点でイエス様の心情的歩みとイエス様の行動の摂理的意味を測れるものではない。そのように、再臨のメシヤである御父様の心情的歩みと御父様の行動の摂理的意味もやはりイエス様と同じように測れるものではない。測れないものを測ろうとするのであれば、救いを必要とするのではなく、知への興味を満たしたいだけなのかも知れない。そんな輩が食口の周りに犇めき合っており、様々な論理の遊びを試みてくる。原理講論は神霊の働きを受け取らなければ新しい真理として理解することはない。のっけから批判意志満々で、聖霊体験もないましてやクリスチャンでもない者が理解することはないだろうし、実は食口の多くも部分的に理解しただけでみ旨への意志を差し出している。再度伝えておくが、どれ程論理を尽くしても納得できない者は納得できないし、納得したからといって救いの必要性を覚え、頭を垂れて再臨のメシヤに従う訳ではない。残念だけれども彼らには終末が訪れてはいない。終末という摂理の絶頂期に終末観を受け取れない者は別の役目が既に決まっている。敢えて言うなら、悪霊が悪霊の業をもって逆説的に神霊を証しするのと同じ役目だ。どれほど自分の子供を持つことの素晴らしさと意味を言葉を尽くして説明したとしても、実際自分が子供を持ってみて初めてその素晴らしさと意味を知るのであって、説明や論理はきっかけでしかない。言葉に尽くせないものがあると信じて行動にでるのであって、即ち信仰が先で納得が先ではない。メシヤの真偽を問う場合、本人に取ってメシヤとは何かを先ずはっきりさせるべきで、私という存在の根源に関する救いの必要性からのメシヤを求めるのでなければ、真偽の問いは何の意味もない。
立ち止まったままの一日
華氏100度を超える日中の暑さを超えてしまうと、赤く染まった西日の柔らかい光が地上を包み込み始める。熱さの感覚だけに没頭して何もせずに一日を終えてしまったことに、気のない反省と投げやりな溜息をつきながら、残り少ない基元節へのカウントダウンが頭の中で乾いた響きをもたらす。この感覚はどこか前に味わっている。そうだ、万物復帰で飛び込めず、日がなぶらついて回収された時の感覚だ。私の中で未だ地上と霊界の間に深い溝があるように、目覚めと眠りの間に深い溝があるように、マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)の間に深い溝があるように、御父様と私の間にも深い溝がある。慕い侍る者として、時として苦悶し、時として痛みを覚えている。時として覚悟し、時として決意もする。時として慕わしく思い、時として涙もする。時として慰められ、時として想いを伝える。しかし今は緊張と緊張の狭間の僅かの弛緩期で、御父様への気持ちのないまま魂の安逸だけに浸っている。罪もなく堕落もなく一切の負債もないような、そんな不快なもの全てから目を逸らした自分に浸っている。そしてこの安堵する自分が私の本来の落ち着きどころだと安易な認識に落ち着こうとしている。そしてその判断に委ねることで、私は私を愛するサタンの想いのままになっていく。私の子ならどこまでもどこまでも己の快、己の楽しみ、己の安逸を求めよとサタンは囁く。厳しいみ旨の道を諦めて、慣れ親しんだ偽りの愛に親しみ、サタンの子として懐かしいエジプトに踵を返すように甘く囁いてくる。後ろを振り返えりさえすれば、後は登って来た斜面を下り帰るだけだ。ノルマへの焦りも、限られた時間に追われることも、肉的なものへの制約も、忍耐も苦労も一切なく、周りの者達が謳歌しているような楽しみと歓びに溢れる人生を送れる。サタンがこんなにも心地よい笑顔を見せるとは今まで思いもしなかったはずだ。誰であっても、信仰の歩みがどれほど長くても、ロトの妻が後ろを振り返って一瞬で塩の柱になったように、昔を懐かしんでしまえばみ旨への熱い想いは一気に冷え切ってしまうだろう。緊張と緊張の間の、刹那の柔らかな光と緩やかな時の流れの中で、それが一瞬であるにも関わらずそこに留まり続けようとしている怠惰な私がいる。怠惰な私は澱んだ臭気を漂わせている。
2012年6月21日木曜日
今日の想い 422
血統の話を持ち出すのであれば、御父様が後継として決められたのが御子女様であっても、血を繋いだ存在であるならわざわざ決められた御方に付かなくとも血統圏の誰を支持しても構わないと言うことだろうか。後継を血統圏外から立てられたと言うのであれば、血統の話を持ち出すのも頷けるが、後継である御子女様の意にも反し、御父様の意にも反している別の御子女様を立てるのはどうも納得がいかない。御父様の真意は指示し表明されることとは裏腹であり、それは周囲の牛耳っている者が言わせているのであって、そこまでも慮(おもんばか)って判断すべきだと言っているように思えるが、それこそが詭弁でありそのこじつけの論理で納得する者がいるとするなら、教会に恨みを抱えていてその感情が目を曇らせているとしか思えない。正当性を突き付けられれば血統を葵の御紋のように打ち出し、逆に血統の話になると正当性の話に挿げ替えようとする。終いには御父様が霊界に行かれた後の心配までも持ち出して、暗に力のある御子女様に今のうちに従うことが得策のような言い振りも匂わせている。彼らが持ち合わせる内外の材料を、自分の思い込みの秤にかけて善悪の決め付けを為していく、それはかつての共産主義者が踏んだ轍(わだち)を、原理らしさ或いは信仰らしさを装ってはいるが同じ轍を踏んでいて、御父様が共産主義からタイムズを奪還したと話されたことと一致している。彼らから絶対信仰、絶対服従という言葉が見出せないのは私が注視せずに見過ごしたからだろうか。
2012年6月20日水曜日
今日の想い 421
言葉は霊的なものだけれども、言葉を表現する為には、即ち聞けてそして見れる地上的媒介の話とし記述にしようとすれば、地上的制約がどうしてもかかり、その言葉の本質を曲折されて受け取ってしまいやすい。先ず受け取り手特有の言葉に対する概念が邪魔をし、次に我知らず受け取り手の思い込みに都合のいいように理解を組み立てる。言葉の本質をダイレクトに受け取れない堕落人間であれば、堕落的思考が描く偽りの輪郭、堕落的感情が付着させる偽りの色付けは、それぞれに微妙に異なっていて、概念観念を自分で決定して固定させてしまうとそれ以降言葉の本質に近付く道は塞がれてしまう。反対する者やグループは、決定して固定された思い込みの結論に雁字搦めにされていて、彼らこそ本質的な意味で自由を奪われてしまっている。み言葉は正しいけれども受け取ったものは正しく受け取れてはいない。だからみ言葉に対しては今の自分の理解を決定し固定させるのではなく、常に尋ねて私の理解が真理と神霊が介入するものとなるよう内的配慮がなされる必要がある。その意味でも絶対信仰が必要であり、絶対服従が必要だ。自分は正しく理解していると決め付けた時点で、サタン介入の条件が立つ。彼らの主張には思い込み、決め付け、固定化、が見届けられ、より頑なにさせることはあっても論理で彼らの間違いを気付かせることは無理だろう。たとえ教会方針を受け入れ賛成派を自認していても、やはりみ言葉の本質を正しく受け取っていないことは同じであり、御父様の判断に絶対信仰、絶対服従で対処せず自分の判断に委ねる時点でサタン介入の条件が立ってしまう。彼らに意見するにしても、私が正しい位置にあるから意見するのではなく、絶対服従の観点から意見せざるを得ないと言う位置で意見している。
2012年6月19日火曜日
絶対信仰について
絶対信仰を備えることがどれほど難しいだろうか。それは中心的位置に立てば立つほどに、身につまされる程に思い知らされるだろう。取って食べるなという戒めを与えられたアダムとエバ。神様はその戒めを事ある毎に彼らに念を押されただろうか。おそらく一度申し伝えられただけで後は彼らの責任分担として任されたはずだ。エバの堕落の過程、そしてアダムを引き込んだ過程でその都度、神様が傍に居て戒めの念を押されるのであれば、堕落は起こり得なかっただろう。或いはマリヤは、ヨセフの場合はどうだろう。みごもる御方が誰であるかはマリヤもヨセフも啓示を受けて告げられていた。しかし神様は一度教えられればそれでおしまいだ。御父様が、男子の一言は千金の如しと言うのであれば神様の一言であれば数億千金になる、と話されるように、一度啓示を受け申し伝えられた後は彼らの責任分担として一切合財を任される。啓示が過去の夢だったようにマリヤとヨセフだけになった時、ヨセフはマリヤに本当に聖霊の子なのか、誰の子なのか言い寄らなかっただろうか。そうこうするうちに言い争いが絶えない状態にもなっただろうし、最初は優しかったヨセフも関係が疎遠になり愛が冷め、マリヤを殴ったことも一度ならずもあっただろう。その状態で、啓示を受けたその一点を死ぬまで失わず、絶対信仰を立てることは容易な事ではないと誰でも思える。私達は、み言葉を最初に受け取ったその信仰の原点に立ち返る必要があるとよく言われる。神霊に満たされたその一点があったから、身も心も全てを捧げて御父様に委ねた。その原点の一点が数十年を経て今の今再現されれば、自分のみ旨への意志が欠如してしまった愚かさに身の削れる思いがするだろう。年月を経ながらサタンに浸食されてしまった心魂を、それが当たり前のように自分の中に見ている。原点のそのみ旨に向かう感情を再度呼び起こす為には、私の責任に於いて、絶対信仰の私を創造していかなければならない。絶対信仰は神様によって、ましてや誰かによって喚起されるものではなく、私が私の中で創造していくものだ。
2012年6月17日日曜日
今日の想い 420
私の中には私ひとりしかいない。その認識がごく当たり前であり、その認識に慣れ親しんでいる。だから私の思考は私だけが思考していると思っているし、私の感情は私だけが感情していると思っているし、私の行動は私だけが意志して行動していると思っている。しかし一方で私は血統の歴史の結実体であり、未来の後孫のシードでもある。それを思えば、私は私ひとりの存在に限定されないということがわかるし、私という認識も私ひとりという認識に限定されるべきではないことを理解するだろう。私的、公的という概念が私達には備わっているけれども、私自信の認識にまで掘り下げて、私的公的の概念を宛がえているだろうか。食べて寝て、行って来る私は、ただ私だけの事柄として限定されるのだろうか。代表の位置にある私であるとか、公的な私であるとか、先祖が協助している私であるとか、と言う場合、私は私だけの個人という認識とは確実に異なっている。私は私だけの個人ではないという認識を、気分や感情にまで落とし込み、更には衝動や意志にまで落とし込むことで、私は確実に意識のレベルを上げることができるだろう。イエス様は個体的な観念(認識を感情へと落とし込めたもの)、個体的な愛をもって生きてはおられなかった。友を愛するにも世界の代わりに愛するという観念をもち、神様の代わりに愛するという観念をもっておられた。それは個対個の関係ではない。御父様が愛されるとき、そして私がその愛を受けるとき、世界が天宙が神様が愛されるのであり、そして私個人のみならず私という人類、全ての霊、全ての子の位置で愛を受けている。水面にインクを垂らせばどこまでも周囲に広がるように、私の心魂がそれほどに広がりを見せ、世界を覆い宇宙を覆うほどの私を体験をするべきだ。そのような認識、観念、意識をもてば、日常の見て聞いて触れる忘れ去られる些細な事柄の中にも、どれ程深い秘密が事柄に隠されていて、その沈黙は破られ私に訴えてくるだろう。
2012年6月16日土曜日
今日の想い 419
イエス様が十字架の摂理を呑まざるを得なかったのは、先ずヨセフ家庭がイエス様を守れなかったからであり、次に洗礼ヨハネが不信したからであり、ユダヤ教がイエス様を排斥してしまったからだが、十字架に架かってしまったイエス様が唯一この地上摂理に足掛かりを持つことができたのは、右の強盗がイエス様の味方になって擁護したからだ。親が捨て、洗礼ヨハネが捨て、弟子達が捨てたイエス様をただ一人捨てなかったのは、殺人強盗の罪でイエス様の右に磔(はりつけ)にされた名もない一人の男だった。これこそが後の者が先になり、先の者が後になるというみ言葉そのままの事件だ。殺人強盗という最も重い罪人で、地獄の底に送られて当然の男が、人類で最初にイエス様と共に楽園に行く。イエス様と生活を共にした弟子達は直接語られる多くのみ言葉を知っていた。そして直接指導され愛されてもいた。しかし審判のその場で何の役にも立たなかった。そして結果的に不信し裏切った。それはもっとみ言葉が必要だったからだろうか。もっと愛される必要があったからだろうか。弟子達と同じ立場に立つ私達は、この教訓を痛いほどに叩きこむ必要がある。毎日何時間も訓読しているだろう。直接に指導され愛されても来ただろう。それで満足し心安らかであるだけなら、裏切った弟子達の残した轍をそのまま踏んでしまうことになる。知ることが、知を重ねることが恐ろしいという感覚があるだろうか。み言葉に触れて復活する私を積み重ねると同時に、犠牲と祭物になる決意と覚悟を積み重ねる私になっているだろうか。私は、この私自身が最も恐ろしい。新たな生命を得る復活の高みは、堕落に繋がる古い生命を惜しげもなく捨て去る決意と覚悟で担保される。
2012年6月15日金曜日
今日の想い 418
私が歴史の結実体であるという意味は、私の血の在り様に人類始祖以来の血統の歴史の全ての事実が刻印されていると言える。私が歴史の結実体であるように、私の周囲で起こるあらゆる出来事も、過去の歴史の結実であり対処清算すべきものとして起こるべくして起こっている。私の現在の意識が周囲の空間と結びついているように、意識を過去に向ける記憶は時間と結びついている。記憶を働かす時、私は時間の流れを遡る。それが現代の通常の意識の働きであるけれども、霊的認識が深まるにつれて通常の意識は超常意識へと変革し、過去の体験が記憶としてでなく空間上に現れてくるようになる。要するに霊界に意識の重心を置くことを学んでいけば、時間が一種の空間に変わる瞬間があり、過去の体験は記憶としてではなく今体験してるように現れてくる。それが霊界体験だ。今起こっていることは霊界地上界の境が取り払われ、個人としての記憶も、宇宙としての記憶である歴史事実も、時間軸を空間軸に移して空間上に現れざるを得ないようになる。歴史的縦的な事柄が地上空間的横的に展開されるのを目の当たりにするようになるだろう。それをどこか別の惑星で見学するのではなく、実際に地上空間的人間も組み込まれてカルマの清算を果たすべく動員されざるを得ない。それで初めて地上に平準化がなされ、平和の礎が築かれるはずだ。内部に起こっている複雑な問題の浮き上がる様子や周囲の状況、今の今起こっていることの意味を探れば探るほど、起こるべくして起こっているのであり、一過性の事ではなくあらゆる歴史事実が煮え滾るマグマが噴き出すように後に続いて突発して出てくる。御父様が密かに、グループ問題で翻弄される或る責任者に対して語られた一言が私の中で警鐘として鳴り響く。これからもっと大変な事が起こってくる。これを乗り越えられずにどうするのか、、、。
今日の想い 417
全ての存在は或る主体と対象の授受作用の関係性で存在している。三位一体論の三位神それぞれの存在の関係性をどう捉えるかという神学上の大きな問題がある。この難問に対して、神様を中心として霊的イエスと聖霊の授受作用の関係性で明快に説明できる原理を、世界会長は誇らしく説明しておられる。この授受作用という概念を正しく受け取っているだろうか。夫婦であったり親子であったり、教会で言えばアベルカインであったりと言う、そう言った関係も他体自覚を持てない個人と個人との関係性のみで理解するから、どんなにひとつになって一体化しても、所詮個と個は別々でひとつになるとは気分上のことだという無意識の思い込みがある。どんな仲睦まじい夫婦であっても二人はやはり二人であって、合体してひとつに溶け合うことはあり得ないという決め付けだ。しかし私と言う固体を見るときに、心と体がひとつになっていない、戦っていると言われながら、本人には自分の心と体はひとつだという別の思い込みもある。個体が別であればひとつにはなれないと言う観念、ひとつの個体であればひとつだと言う観念、その観念が私は私という個体、私という牢屋の囲いのことが全てであり、私という枷(かせ)を外して自由な世界に飛び立てないでいる。家庭を築いてもやはり個人であり、国の中でも個人、世界の中でも個人と言う四方の壁を崩すことはない。そしてそんなに執着を持っている個人でありながら、その個人の中がどうなっているかもわからず、ましてや心と体が分かれて分裂しているという感覚もない。要するに外界とも関係を持てず内界の状態も分からず、ただこの皮膚で隔てられている個という覆いが全てだ。個という覆いが自体自覚に留まらせ、その意識状態では授受作用の概念を正しく受け取ることはできない。
2012年6月14日木曜日
為を想う涙
-- 誰もが泣いて地上に落とされた。-- 最近の歌を聞いていて心に残った歌詞の一部だ。確かに人間誰しも泣いて地上生を出発する。笑うことで呼吸を始めるのではなく、泣くことで呼吸を始める。地上生の入り口は涙に濡れている。涙に濡れながら大気の海の底に生み落とされる。海の底の堕落の水に馴染めず、心魂が地上に留まれないのを防ぐ為に、心魂を涙で覆って生まれてくる。泣いて涙を流すことで、自分の心魂は外界に蠢く獲って食(は)むものから守られている。子供の頃私は誰よりも良く泣いていたから良くわかる。泣くことで外界から霊が侵入することを守っている。泣くことで心魂にバリアを覆って霊の侵入を防いでいる。その一方で誰にでも良く笑う子供もいる。良く笑う子供は学ぶのも早いが周りの霊の影響も受けやすい。泣くことと笑うことはその心魂作用を通して霊的なことと直結している。しかし、御父様の流される涙は私達の流す涙とは異なるものだ。御父様は神様の御心情を想われて一晩中泣き続けられた。涙に浸した襦袢が絞れるほどに泣き続けられた。普通人が涙を流す時、涙を流すことで清めを受け取っている。しかし御父様の流される涙は清めを受け取れる涙ではない。神様の心情をどこまで掘り起こしても悲しみは底無しだ。心情の深みに行けば行くほど悲しみは増していく。神様の心情を直接的に受け取られる御父様は、涙の流れるのを止めることができない。人は涙を流す時、自分の心魂を守る為に自分の為に涙を流す。御父様の流される涙は神様を想い神様を解放されようとして流される、神様の為を想われる涙であり犠牲の涙だ。私の流した涙はどうだろうか。神様を想い御父母様を想って、為を想って流した涙が本当にあっただろうか。自分の清めの為に、結局は自分の為の涙ではなかったか。地の為に汗を流したと言えるだろうか。人類の為に涙を流したと言えるだろうか。天の為に血を流せると本当に言えるだろうか。
2012年6月13日水曜日
御父様は恐ろしいという認識
内にいる食口は、祝福を戴いた重責を認識することが必要だろう。御父様に対して恐ろしいという感情も抱いて当然だろう。私達が愛という言葉からイメージするものから、御父様が語られるところの真の愛を紡ぎだすことはできない。真の愛は私達がイメージする愛とは別の次元にある。美しい相対者に出会い、仲睦ましい夫婦関係をなして、絵に描いたような家庭を築く。更に、祝福子女を産み育てて立派に成長させ祝福させる。そんな全うなプロセスをイメージして、それこそが愛溢れる人生だという思い込みがある。現実は大きく異なり、先ず相対者を受け入れる戦いから始まって、夫婦関係に於いてもぶつかり合い、疲れ果てた後にお互いの角が取れてやっと折り合いをつけられるし、家庭のなかもギクシャクしたものは常にあって笑顔が絶えない家庭だとはどうも言えない。恐らく皆がイメージする全うなプロセスを踏んだとしても、それは納得する人生ではあるかも知れないが、真の愛がその過程だけで実るということにはならないだろう。御父様の言葉は時に恐ろしく、合わない水と油を合わせろと言われるのであり、恩讐関係を愛の関係に変えろと言われるのであり、そして霊界で報告するときに、願われるプロセスに沿うた人生を報告しても受け取られず、どういう犠牲を払い、どんな祭物になったかを報告する。私のお父さんはみ旨に全て捧げて餓死して死にましたと言えるのが誇りであり、私のお母さんは伝道に出かけて打たれて死にましたと言える報告が誇りだと話される。御父様の基準はそういう基準だ。それは私達がイメージする愛に溢れた地上生活とは大きく異なっている。批難覚悟で言うなら、犠牲の血を望まれ、引き裂かれる祭物となることを望まれる。そしてそれこそ真の愛がそこに関与すると言えるはずだ。ハトを裂かなかった、それだけのことでアブラハムを非難され、自分の愛する子イサクを代わりに捧げろと、まさしく悪魔の言動と捉えて当然の神様の命令を恐ろしく思い、自分が死ぬことよりも深刻に考えたアブラハムだからこそ、信仰の祖としての素晴らしい柱を立てることができた。御父様の語られる真の愛の基準とは、イメージされた愛という言葉を一度否定して、犠牲の道、祭物の道を意志して望むときに真の愛の基準に足をかけることができる。御父様は恐ろしい方だという感情は当然であり、その感情が私になければ真の愛の本流からは外れている。
2012年6月11日月曜日
花と蝶
ニューヨーク郊外の、とあるインターチェンジのカーブに差し掛かる時、目の中に飛び込んできた光景。無造作に広げた枝に緑をいっぱい装い、幹にも絡まる蔦の緑で覆われ、盛り上がった太い木の根の辺りも草木が伸び放題で、何かそこだけが別の空間のように映った。目視出来た木は一本だけだったと思うけれども定かではないが、それでも深い森のような佇まいだった。生い茂った葉に囲まれて守られるように黄色い花が咲き乱れていた。そして黄色い花は空間にも舞っていた。運転中のことで振り返って確認できる訳でもなく、脳裏に映った映像だけを思い起こすと、黄色い花々の上に黄色い蝶が舞っていることに気付いた。蝶は動く花、舞い上がる花として花の期待を担っているようだった。精一杯の美を装い、花として天に向かって咲くけれども、天を恋焦がれるだけで天に向かって飛んでいくことはできない。やるせない想いを一身に担って天に羽ばたくのが、花の救い主としての蝶だろう。花々は、蝶が舞うのを見て想いを託す。僅かの短い花の命を、精一杯の美を装うことに費やして、想いを蝶に託しながら枯れていく。その切なくも可憐な姿勢を、食口たちにも見ることができる。精一杯御父様を慕い、何とかしてお役に立ちたいと、寝食を忘れ装うことも忘れて精誠を注ぎ込んできた。御父様が前に立たれて、所狭しと押し込められた姉妹たちを眺められる。御父様の細い眼は更に細くなっていく。姉妹たちを切なくも可憐な野花のような存在として御覧になっている。花は花としての命を燃やし燃え尽きる。精一杯咲き誇れば想いは蝶に託される。花の想いは蝶のなかで生き続ける。私達は御父様の息子娘として、命を燃やし燃え尽きる。精一杯生き切れば想いは御父様に託される。私の想いは御父様のなかで生き続ける。そして、、、御父様の想いは私の中でも生き続ける。私の中で生き続けて私という花は蝶に変化する。黄色い花が黄色い蝶に変化したように、、、。
今日の想い 416
内的霊的に見えて聞こえて感知できる私を取り戻せれば、外的地上的に感知するような魂を伴わない、即ち感情や思考を伴わない認識ではなく、死んだ感性と比べて生きた感性の中に住むことができる。訓読を何度も何度も為しながら、更に覚えてしまったみ言葉を、本を手にしていなくても何度も何度も諳(そら)んじ尋ねながら、私の失った本性を魂の向こうから手繰り寄せ復帰していく。それは自ずと内的霊的感性を取り戻すことでもある。み言葉の価値を未だ知らず、訓読がもたらす内的霊的力を知らずに、言われたままを表面的になぞるような訓読の仕方しかできないとしても、それでもみ言葉を手にしないよりか余程ましだ。しかし何頁読んだ、何時間読んだと満足するのではなく、このみ言葉の価値が分からず内的霊的力を受け取れない自分への悔しさと憤りで内的霊的圏への岩の壁を掻き崩していかなければ、み言葉の棒読みはいつまで立っても棒読みでしかない。訓読は戦いでもある。み言葉を手にして文字を追い始めるとき、霊と肉の間の厚い壁を見上げながら絶望感を覚えてしまう。この壁を突き崩す戦いがそこから始まるのであって、何頁読んだからと言って、何時間読んでからと言って、それでもまだ訓読の入り口にすら立ってはいない。御父様の顔を覚えているからと言って天国に行ける訳ではない。み言葉を何頁何時間読んだからと言って御父様の心情圏の中心に突き進んでいる訳ではない。雨だれが一滴一滴と岩を穿つような頼りないものであったとしても、精神存在でありながら肉に留まり続けなければならない悔しさをばねに、御父様の心情圏を慕う想いを込め続ければ、必ず私の霊肉の壁が崩れる時が訪れるはずだ。
2012年6月10日日曜日
今日の想い 415
アラ?アラヨ? 御父様が話されれば必ず口をついて出てくる言葉。しかし聞かれて視線を投げかけられても返答に困ってしまう。先ず、聞かれておられる意味が分からない。その場にいて目を伏せるのは私だけではない。御父様には申し訳ないけれど、話されることの殆どを理解してはいない。最前列の中心者や先輩家庭も恐らく理解してはいないはずだ。けれども、話の腰を折ることもできず、流れを止めることもできず、話全体の脈絡も掴めないのに、そこの質問の意味だけわかっても仕方が無い。下手に流れを遮って無知を晒けて怒られるのも願いではないだろうと、ひたすら穏便に、機嫌を損ねることのないようにその場が終わることが最優先される。それは日本人特有の配慮なのかも知れないが、しかし何の事件もなく穏便に終わったとしても、御父様との距離は遠ざかったままだ。私のようなものは分からなくて当然だという決め付けがある。その態度を言葉で表すなら卑下すると言う言葉が当て嵌まる。謙虚と卑下の違いをはっきりと分けるべきだろう。謙虚な姿勢は重要な信仰要素だけれども、卑下することはどうだろうか。信仰的と言えるだろうか。御父様に対して、御父様私はわかりませんと、はっきり伝えられることこそ謙虚な姿勢とは言えないだろうか。卑下し、自らを貶めることで本来の私の位置であれば期待されることを受け取らないで済む。下手にしゃしゃり出て薮蛇にでもなれば元も子もない。しかしそれは精神的怠慢だろう。卑下し自らを貶めることで私の中に働かれる神様をも貶めている。私の中にある堕落性もはっきりと見通せないように、私の中に働かれる神様も見通せてはいない。御父様にどこまでも付いて行くことはその通りだけれど、見通せずに見えない状態で付いて行くことをいつまでも良しとするなら、御父様が去られたとき何を、誰を頼りに私の完成への道を歩めるのだろうか。内的霊的に暗いままで、御父様を外的地上的にしか受け取れないから、ありとあらゆる誘いの手に自分を委ねてしまう。御父様は分かるか分からないかを聞いておられるというより、内的霊的に見えるか見えないかを尋ねておられる。
2012年6月7日木曜日
今日の想い 414
「どこまでも信じて歩んできた。しかし今の私には何も残っていない。信じた報酬を何も受け取っていないどころか、信じていたものさえも奪われてしまった。」 そう言いながら去って行く。静かに去るならまだしも、禍根をどこまでも引き摺って、今度は受け取れなかった報酬を御父母様の価値、祝福の価値を貶めることで埋めようとしている。それまで以上に教会の動きに注目し、あらゆる獲物を見つけ出してはあげつらう。もはや彼らにはそうすることでしか御父様と因縁を持つことはできないのだろうか。彼らも無意識の領域に於いては、御父様に繋がらなければ己の存在すら否定されることを知っている。だから表層の部分で反対の声を上げ続けることで、たとえ悪因縁であっても関係を持ち続けようとする。そこまでして関わらなければならない理由や衝動を、無意識の領域を見れない本人達は理解していない。御父様を否と判断したのなら、自分が信じる幸福の追求に忙しいだろうに、残り少ない人生の貴重な時間を否定的感情で費やすことがどれほど無駄なことだろうか。物好きな私は、ブログで想いを綴る以上彼らのブログにも寄っては見るが、殆どの食口は見向きさえしないだろう。自分がアップした記事を自分で見ながら自分だけが悦に入る。私も含めて多くのブログ主は自己陶酔型の要素を持っている。私はそれを自覚しているつもりで、未熟な内面をいつまでも晒し続けるのは恥ずかしい限りだが、恨みや憤りで燃えている彼らのサイトにはその自覚は伺えない。己をネットに晒して、こんな基準で、こんな想いで歩む者もいることを知ってもらい兄弟の役に立つように、否定する者の思考や感情を直接参考に出来て、彼らは反面教師としての役割を結果的に演じている。地上では御父様を受け入れる者も避ける者も、同じ地上生活をなし、同じように食べて寝て行って来て、笑って泣いて暮らす。しかし決定的な欠陥が彼らにはある。御父様を受け入れない者は、どんなに裕福な暮らしであっても、どれほど笑って人生を送っても、どれほど刹那で自分を理解し納得しても、全ては空しい。彼らには受け入れてくれる存在がいないからだ。帰って行く故郷が無い。御父様を否定して、別の受け入れてくれる存在を探し続け、帰って行く故郷を探し続けなければならない。地上での放浪は足場がある以上それも自由でいいと思えるかも知れないが、霊界での放浪の意味は、足場はなくて存在自体を否定されてしまう。最大最高の恐怖は、神様や御父様から精神的に否定されることでも、ましてや死に至る苦痛でもなく、私が私自身の存在を疑い否定することだ。
2012年6月6日水曜日
今日の想い 413
絶対に勝つ。勝利して基元節のその日を迎える。今の状況がどうであれ、どんな感情が沸き起ころうが、どちらに判断が傾きかけるとしても、御父様に繋がりひとつになれば必ず勝利する。絶対信仰のその柱だけはどんなことがあっても揺らしてはならない。様々な悲観や否定的な思いが内面にもたげても、その度に返って柱を太く強くするべきであって、それでこそ御父様に訓練されてきた統一食口だと言えるだろう。いろんな戦いを乗り越えてきて、戦いの最中にはアップアップで隙間ほどの余裕もないものだが、それなりの決着がついて振り返れば、決着までのプロセスだけがいとも簡単に並べられていて、戦いで対峙していた怪物はどこにも見当たらない。立ち向かうときに相手した目前のゴリアテは、乗り越えて振り返るときには証しや生きた教訓という忠実な僕に変わっている。腰の骨を折られるほどに戦っていた相手は幻想に過ぎなかったのかとさえ思えるほどだが、霊的戦いに於いて霊的存在が屈服すると言うことはそういうことだ。屈服した忠実な僕としての霊的存在は、勝利パターン、勝利公式として私の内面に組み込まれて私の一つになる。勝利したという勝利的実感を得た者は、内的霊的に自分の中に組み込まれた復活した霊を見届ける。外的な実績のことばかりが気になり、憂いとして内面を満たしがちだけれども、勝利パターンを心得た者は、実績の門番である戦う霊的存在を常に意識している。霊的存在が屈服することで門は開き、外的実績は自ずともたらされるからだ。絶対に勝利すると公言する場合は外的な実績を指してはいるけれども、霊的勝利が外的実績をもたらすことを知っているからこそ公言できるのであり、実績の門番でありゴリアテ的存在としての霊的存在にしっかりと対峙して、屈服させるまで後に引かないことだ。実は本戦に至るまでの調整的試練の場で逃げてしまう場合が多く、戦いにすら望めない霊的に幼い多くの者達を御父様は見てこられた。御父様が悲しみ落胆されるのは当たり前だ。しかしそれでも私達を信じてみ旨を任せられ、何度も何度も落胆させられながらもその都度逆に戦いに望む私達を励ましてこられた。ダビデはゴリアテに対峙する前に、飼っていた羊を奪うししやクマに対峙して勝利を重ねてきている。小さなことであっても、今日勝利した内容を報告しながら、記帳しながら、勝利的運勢圏を拡大していけば、やがてはゴリアテも恐れるに足らずとなるだろう。
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