2012年6月10日日曜日

今日の想い 415

アラ?アラヨ? 御父様が話されれば必ず口をついて出てくる言葉。しかし聞かれて視線を投げかけられても返答に困ってしまう。先ず、聞かれておられる意味が分からない。その場にいて目を伏せるのは私だけではない。御父様には申し訳ないけれど、話されることの殆どを理解してはいない。最前列の中心者や先輩家庭も恐らく理解してはいないはずだ。けれども、話の腰を折ることもできず、流れを止めることもできず、話全体の脈絡も掴めないのに、そこの質問の意味だけわかっても仕方が無い。下手に流れを遮って無知を晒けて怒られるのも願いではないだろうと、ひたすら穏便に、機嫌を損ねることのないようにその場が終わることが最優先される。それは日本人特有の配慮なのかも知れないが、しかし何の事件もなく穏便に終わったとしても、御父様との距離は遠ざかったままだ。私のようなものは分からなくて当然だという決め付けがある。その態度を言葉で表すなら卑下すると言う言葉が当て嵌まる。謙虚と卑下の違いをはっきりと分けるべきだろう。謙虚な姿勢は重要な信仰要素だけれども、卑下することはどうだろうか。信仰的と言えるだろうか。御父様に対して、御父様私はわかりませんと、はっきり伝えられることこそ謙虚な姿勢とは言えないだろうか。卑下し、自らを貶めることで本来の私の位置であれば期待されることを受け取らないで済む。下手にしゃしゃり出て薮蛇にでもなれば元も子もない。しかしそれは精神的怠慢だろう。卑下し自らを貶めることで私の中に働かれる神様をも貶めている。私の中にある堕落性もはっきりと見通せないように、私の中に働かれる神様も見通せてはいない。御父様にどこまでも付いて行くことはその通りだけれど、見通せずに見えない状態で付いて行くことをいつまでも良しとするなら、御父様が去られたとき何を、誰を頼りに私の完成への道を歩めるのだろうか。内的霊的に暗いままで、御父様を外的地上的にしか受け取れないから、ありとあらゆる誘いの手に自分を委ねてしまう。御父様は分かるか分からないかを聞いておられるというより、内的霊的に見えるか見えないかを尋ねておられる。