2012年6月7日木曜日
今日の想い 414
「どこまでも信じて歩んできた。しかし今の私には何も残っていない。信じた報酬を何も受け取っていないどころか、信じていたものさえも奪われてしまった。」 そう言いながら去って行く。静かに去るならまだしも、禍根をどこまでも引き摺って、今度は受け取れなかった報酬を御父母様の価値、祝福の価値を貶めることで埋めようとしている。それまで以上に教会の動きに注目し、あらゆる獲物を見つけ出してはあげつらう。もはや彼らにはそうすることでしか御父様と因縁を持つことはできないのだろうか。彼らも無意識の領域に於いては、御父様に繋がらなければ己の存在すら否定されることを知っている。だから表層の部分で反対の声を上げ続けることで、たとえ悪因縁であっても関係を持ち続けようとする。そこまでして関わらなければならない理由や衝動を、無意識の領域を見れない本人達は理解していない。御父様を否と判断したのなら、自分が信じる幸福の追求に忙しいだろうに、残り少ない人生の貴重な時間を否定的感情で費やすことがどれほど無駄なことだろうか。物好きな私は、ブログで想いを綴る以上彼らのブログにも寄っては見るが、殆どの食口は見向きさえしないだろう。自分がアップした記事を自分で見ながら自分だけが悦に入る。私も含めて多くのブログ主は自己陶酔型の要素を持っている。私はそれを自覚しているつもりで、未熟な内面をいつまでも晒し続けるのは恥ずかしい限りだが、恨みや憤りで燃えている彼らのサイトにはその自覚は伺えない。己をネットに晒して、こんな基準で、こんな想いで歩む者もいることを知ってもらい兄弟の役に立つように、否定する者の思考や感情を直接参考に出来て、彼らは反面教師としての役割を結果的に演じている。地上では御父様を受け入れる者も避ける者も、同じ地上生活をなし、同じように食べて寝て行って来て、笑って泣いて暮らす。しかし決定的な欠陥が彼らにはある。御父様を受け入れない者は、どんなに裕福な暮らしであっても、どれほど笑って人生を送っても、どれほど刹那で自分を理解し納得しても、全ては空しい。彼らには受け入れてくれる存在がいないからだ。帰って行く故郷が無い。御父様を否定して、別の受け入れてくれる存在を探し続け、帰って行く故郷を探し続けなければならない。地上での放浪は足場がある以上それも自由でいいと思えるかも知れないが、霊界での放浪の意味は、足場はなくて存在自体を否定されてしまう。最大最高の恐怖は、神様や御父様から精神的に否定されることでも、ましてや死に至る苦痛でもなく、私が私自身の存在を疑い否定することだ。