2012年6月23日土曜日

今日の想い 425

マリヤがイエス様に対する使命を果たせずにヨセフ家庭の失敗が確実なものになると、イエス様はついにヨセフ家庭を捨てて飛び出し、放浪されながらそこら辺から弟子を募り始められた。ヨセフ家庭の失敗を、何とかして弟子達を集めた中で蕩減復帰すべきだった。そうしてヨセフに代わる者として立てた存在が、誰あろうイスカリオテのユダだった。ユダはイエス様の元を尋ねた最初から、裏切りの要素があるかように思えるけれども、実は彼ほどイエス様に取って信頼に足る存在はいなかった。ヨセフを天使長の位置に立ててエバを奪った逆の路程を摂理されようとしたように、ユダに絶対的信頼を置いて彼を天使長の位置に立て、エバを奪った天使長が逆にエバを奪われ、更にそれをよしとする使命が彼にあった。イエス様は意図的にユダの妻に対して、夫を愛して仕える以上にイエス様を愛して仕えるように仕向けられたはずだ。それが一度ならず事ある毎に為されただろうし、その関係は敢えて深くもなっていったはずだ。イエス様のこれ見よがしの態度にユダの心中は荒れ始める。ユダはイエス様に対して心も体も捧げることを誓ったそのイエス様との出会いは本物のはずだった。しかしイエス様に妻を取られたような目の前の現実が、天使長から血統を通して譲り受けた堕落の性品を荒れ狂わせ、どうすることもできなくなっていた。ヨセフが勝利できなかったことは更なる輪をかけた困難を伴ってユダに降りかかる。蕩減原則から判断してそうなる。聖書には、ユダとイエス様の関係は事細かに記されてはいないけれども、人情的な見地に立てばユダに同情せざるを得ない関係性があったはずだ。イエス様が最後の晩餐の場で裏切りを予知され、生まれないほうがよかったとまで言及されたユダだが、栄光の王の御傍に立つべき洗礼ヨハネが不信して天国で最も低い位置にあるように、結果的に裏切ったユダも乗り越えることが出来ていれば栄光のユダと言われていただろう。使命が大きいということ、神様の期待が大きいということ、天を突き抜けるほどの高みに座を備える存在は、一つ間違うと高みへの距離と同じ距離で地の底の底まで落とされる。それなりの使命を受け取っている私達の立場もどれほど恐ろしいことか。