2012年6月22日金曜日

立ち止まったままの一日

華氏100度を超える日中の暑さを超えてしまうと、赤く染まった西日の柔らかい光が地上を包み込み始める。熱さの感覚だけに没頭して何もせずに一日を終えてしまったことに、気のない反省と投げやりな溜息をつきながら、残り少ない基元節へのカウントダウンが頭の中で乾いた響きをもたらす。この感覚はどこか前に味わっている。そうだ、万物復帰で飛び込めず、日がなぶらついて回収された時の感覚だ。私の中で未だ地上と霊界の間に深い溝があるように、目覚めと眠りの間に深い溝があるように、マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)の間に深い溝があるように、御父様と私の間にも深い溝がある。慕い侍る者として、時として苦悶し、時として痛みを覚えている。時として覚悟し、時として決意もする。時として慕わしく思い、時として涙もする。時として慰められ、時として想いを伝える。しかし今は緊張と緊張の狭間の僅かの弛緩期で、御父様への気持ちのないまま魂の安逸だけに浸っている。罪もなく堕落もなく一切の負債もないような、そんな不快なもの全てから目を逸らした自分に浸っている。そしてこの安堵する自分が私の本来の落ち着きどころだと安易な認識に落ち着こうとしている。そしてその判断に委ねることで、私は私を愛するサタンの想いのままになっていく。私の子ならどこまでもどこまでも己の快、己の楽しみ、己の安逸を求めよとサタンは囁く。厳しいみ旨の道を諦めて、慣れ親しんだ偽りの愛に親しみ、サタンの子として懐かしいエジプトに踵を返すように甘く囁いてくる。後ろを振り返えりさえすれば、後は登って来た斜面を下り帰るだけだ。ノルマへの焦りも、限られた時間に追われることも、肉的なものへの制約も、忍耐も苦労も一切なく、周りの者達が謳歌しているような楽しみと歓びに溢れる人生を送れる。サタンがこんなにも心地よい笑顔を見せるとは今まで思いもしなかったはずだ。誰であっても、信仰の歩みがどれほど長くても、ロトの妻が後ろを振り返って一瞬で塩の柱になったように、昔を懐かしんでしまえばみ旨への熱い想いは一気に冷え切ってしまうだろう。緊張と緊張の間の、刹那の柔らかな光と緩やかな時の流れの中で、それが一瞬であるにも関わらずそこに留まり続けようとしている怠惰な私がいる。怠惰な私は澱んだ臭気を漂わせている。