2012年6月17日日曜日

今日の想い 420

私の中には私ひとりしかいない。その認識がごく当たり前であり、その認識に慣れ親しんでいる。だから私の思考は私だけが思考していると思っているし、私の感情は私だけが感情していると思っているし、私の行動は私だけが意志して行動していると思っている。しかし一方で私は血統の歴史の結実体であり、未来の後孫のシードでもある。それを思えば、私は私ひとりの存在に限定されないということがわかるし、私という認識も私ひとりという認識に限定されるべきではないことを理解するだろう。私的、公的という概念が私達には備わっているけれども、私自信の認識にまで掘り下げて、私的公的の概念を宛がえているだろうか。食べて寝て、行って来る私は、ただ私だけの事柄として限定されるのだろうか。代表の位置にある私であるとか、公的な私であるとか、先祖が協助している私であるとか、と言う場合、私は私だけの個人という認識とは確実に異なっている。私は私だけの個人ではないという認識を、気分や感情にまで落とし込み、更には衝動や意志にまで落とし込むことで、私は確実に意識のレベルを上げることができるだろう。イエス様は個体的な観念(認識を感情へと落とし込めたもの)、個体的な愛をもって生きてはおられなかった。友を愛するにも世界の代わりに愛するという観念をもち、神様の代わりに愛するという観念をもっておられた。それは個対個の関係ではない。御父様が愛されるとき、そして私がその愛を受けるとき、世界が天宙が神様が愛されるのであり、そして私個人のみならず私という人類、全ての霊、全ての子の位置で愛を受けている。水面にインクを垂らせばどこまでも周囲に広がるように、私の心魂がそれほどに広がりを見せ、世界を覆い宇宙を覆うほどの私を体験をするべきだ。そのような認識、観念、意識をもてば、日常の見て聞いて触れる忘れ去られる些細な事柄の中にも、どれ程深い秘密が事柄に隠されていて、その沈黙は破られ私に訴えてくるだろう。