2012年6月20日水曜日
今日の想い 421
言葉は霊的なものだけれども、言葉を表現する為には、即ち聞けてそして見れる地上的媒介の話とし記述にしようとすれば、地上的制約がどうしてもかかり、その言葉の本質を曲折されて受け取ってしまいやすい。先ず受け取り手特有の言葉に対する概念が邪魔をし、次に我知らず受け取り手の思い込みに都合のいいように理解を組み立てる。言葉の本質をダイレクトに受け取れない堕落人間であれば、堕落的思考が描く偽りの輪郭、堕落的感情が付着させる偽りの色付けは、それぞれに微妙に異なっていて、概念観念を自分で決定して固定させてしまうとそれ以降言葉の本質に近付く道は塞がれてしまう。反対する者やグループは、決定して固定された思い込みの結論に雁字搦めにされていて、彼らこそ本質的な意味で自由を奪われてしまっている。み言葉は正しいけれども受け取ったものは正しく受け取れてはいない。だからみ言葉に対しては今の自分の理解を決定し固定させるのではなく、常に尋ねて私の理解が真理と神霊が介入するものとなるよう内的配慮がなされる必要がある。その意味でも絶対信仰が必要であり、絶対服従が必要だ。自分は正しく理解していると決め付けた時点で、サタン介入の条件が立つ。彼らの主張には思い込み、決め付け、固定化、が見届けられ、より頑なにさせることはあっても論理で彼らの間違いを気付かせることは無理だろう。たとえ教会方針を受け入れ賛成派を自認していても、やはりみ言葉の本質を正しく受け取っていないことは同じであり、御父様の判断に絶対信仰、絶対服従で対処せず自分の判断に委ねる時点でサタン介入の条件が立ってしまう。彼らに意見するにしても、私が正しい位置にあるから意見するのではなく、絶対服従の観点から意見せざるを得ないと言う位置で意見している。