2012年6月13日水曜日

御父様は恐ろしいという認識

内にいる食口は、祝福を戴いた重責を認識することが必要だろう。御父様に対して恐ろしいという感情も抱いて当然だろう。私達が愛という言葉からイメージするものから、御父様が語られるところの真の愛を紡ぎだすことはできない。真の愛は私達がイメージする愛とは別の次元にある。美しい相対者に出会い、仲睦ましい夫婦関係をなして、絵に描いたような家庭を築く。更に、祝福子女を産み育てて立派に成長させ祝福させる。そんな全うなプロセスをイメージして、それこそが愛溢れる人生だという思い込みがある。現実は大きく異なり、先ず相対者を受け入れる戦いから始まって、夫婦関係に於いてもぶつかり合い、疲れ果てた後にお互いの角が取れてやっと折り合いをつけられるし、家庭のなかもギクシャクしたものは常にあって笑顔が絶えない家庭だとはどうも言えない。恐らく皆がイメージする全うなプロセスを踏んだとしても、それは納得する人生ではあるかも知れないが、真の愛がその過程だけで実るということにはならないだろう。御父様の言葉は時に恐ろしく、合わない水と油を合わせろと言われるのであり、恩讐関係を愛の関係に変えろと言われるのであり、そして霊界で報告するときに、願われるプロセスに沿うた人生を報告しても受け取られず、どういう犠牲を払い、どんな祭物になったかを報告する。私のお父さんはみ旨に全て捧げて餓死して死にましたと言えるのが誇りであり、私のお母さんは伝道に出かけて打たれて死にましたと言える報告が誇りだと話される。御父様の基準はそういう基準だ。それは私達がイメージする愛に溢れた地上生活とは大きく異なっている。批難覚悟で言うなら、犠牲の血を望まれ、引き裂かれる祭物となることを望まれる。そしてそれこそ真の愛がそこに関与すると言えるはずだ。ハトを裂かなかった、それだけのことでアブラハムを非難され、自分の愛する子イサクを代わりに捧げろと、まさしく悪魔の言動と捉えて当然の神様の命令を恐ろしく思い、自分が死ぬことよりも深刻に考えたアブラハムだからこそ、信仰の祖としての素晴らしい柱を立てることができた。御父様の語られる真の愛の基準とは、イメージされた愛という言葉を一度否定して、犠牲の道、祭物の道を意志して望むときに真の愛の基準に足をかけることができる。御父様は恐ろしい方だという感情は当然であり、その感情が私になければ真の愛の本流からは外れている。