2012年6月19日火曜日

絶対信仰について

絶対信仰を備えることがどれほど難しいだろうか。それは中心的位置に立てば立つほどに、身につまされる程に思い知らされるだろう。取って食べるなという戒めを与えられたアダムとエバ。神様はその戒めを事ある毎に彼らに念を押されただろうか。おそらく一度申し伝えられただけで後は彼らの責任分担として任されたはずだ。エバの堕落の過程、そしてアダムを引き込んだ過程でその都度、神様が傍に居て戒めの念を押されるのであれば、堕落は起こり得なかっただろう。或いはマリヤは、ヨセフの場合はどうだろう。みごもる御方が誰であるかはマリヤもヨセフも啓示を受けて告げられていた。しかし神様は一度教えられればそれでおしまいだ。御父様が、男子の一言は千金の如しと言うのであれば神様の一言であれば数億千金になる、と話されるように、一度啓示を受け申し伝えられた後は彼らの責任分担として一切合財を任される。啓示が過去の夢だったようにマリヤとヨセフだけになった時、ヨセフはマリヤに本当に聖霊の子なのか、誰の子なのか言い寄らなかっただろうか。そうこうするうちに言い争いが絶えない状態にもなっただろうし、最初は優しかったヨセフも関係が疎遠になり愛が冷め、マリヤを殴ったことも一度ならずもあっただろう。その状態で、啓示を受けたその一点を死ぬまで失わず、絶対信仰を立てることは容易な事ではないと誰でも思える。私達は、み言葉を最初に受け取ったその信仰の原点に立ち返る必要があるとよく言われる。神霊に満たされたその一点があったから、身も心も全てを捧げて御父様に委ねた。その原点の一点が数十年を経て今の今再現されれば、自分のみ旨への意志が欠如してしまった愚かさに身の削れる思いがするだろう。年月を経ながらサタンに浸食されてしまった心魂を、それが当たり前のように自分の中に見ている。原点のそのみ旨に向かう感情を再度呼び起こす為には、私の責任に於いて、絶対信仰の私を創造していかなければならない。絶対信仰は神様によって、ましてや誰かによって喚起されるものではなく、私が私の中で創造していくものだ。