2012年6月25日月曜日

謙虚、そして感謝

感謝の生活をすべきだと言うことは良く話しに上る。生活の中で特別な嬉しいことが起こると感謝の感情も満ちるけれども、普段の生活の中でそれほど特別なことが毎日起こるわけでもない。しかし変わりのない毎日だという気分は、本来私という存在を生かす為に、どれほどの犠牲が供えられているかが分かっていないからそういう惰性的な低い感情に留まったままになる。感謝の想いは、私は今の与えられた位置に立つには余りにも相応しくないという謙虚さが前提にある。誰も、謙虚であるべきだとは思っているが、思っているだけで実際謙虚であるのとは異なっている。謙虚さを自分の在り様として備えている人は稀で、結構、卑下すると言うことと混同してしまっている人が多い。謙虚さが備わると感謝の本当の意味がわかる。私が戴いているこの肉体と生命体、またこの肉体を育み維持させている自然や環境。思考し感情し意志行動する心魂活動を寸分の狂いもなく表現する生命体や肉体はどれほど緻密な創造実体だろうか。それに比べて、緻密な創造実体を戴いて主管する私の魂はどれほどいい加減な存在だろうか。心と体が戦うというけれども、正確には生心と肉心が戦っている。肉心を外した肉体は創造の神様の創造の極致にある。この創造の極致である宇宙船を、私と言う魂が乗り込み、その活動の為に無理をさせ壊し続けている。思考し感情し意志することはこの肉体を破壊し続けていると言うことだ。肉体に取ってはストレス以外の何物でもない心魂活動を受け止め、主人としての心魂に絶対服従している。こんな堕落した私の為に絶対服従する肉体に対して、申し訳なく思って当然であり、愛おしく思わなければならない。眠りについて霊界に広がって霊的活力を得た心魂が、朝目覚めてこの肉体に入る時、無意識なので何も覚えてはいないが、もし肉体に入る過程が意識的であるなら、あまりの肉体の神々しさに不完全な心魂がそこに入っていくのに、恥ずかしくて恥ずかしくて、あまりの恥ずかしさの為に焼かれて消え入りそうになる。無意識がその霊的感覚を鈍くして助かっており、意識のある間は外界に集中しているので、ずうずうしくも生活に支障はない。死んで霊に目覚めれば、己の魂の未熟さに恥ずかしさで焼かれてしまうだろう。私の魂の実態を知れば知るほど恥ずかしさを覚えるし、それ故に謙虚にならざるを得ない。謙虚さが服を着て生活していると言うほどに謙虚な自分が備わると、あまりにも些細な日常のことが、涙が止まらないほどありがたくなるし、申し訳ない想いが溢れてくる。