2012年6月14日木曜日

為を想う涙

-- 誰もが泣いて地上に落とされた。--  最近の歌を聞いていて心に残った歌詞の一部だ。確かに人間誰しも泣いて地上生を出発する。笑うことで呼吸を始めるのではなく、泣くことで呼吸を始める。地上生の入り口は涙に濡れている。涙に濡れながら大気の海の底に生み落とされる。海の底の堕落の水に馴染めず、心魂が地上に留まれないのを防ぐ為に、心魂を涙で覆って生まれてくる。泣いて涙を流すことで、自分の心魂は外界に蠢く獲って食(は)むものから守られている。子供の頃私は誰よりも良く泣いていたから良くわかる。泣くことで外界から霊が侵入することを守っている。泣くことで心魂にバリアを覆って霊の侵入を防いでいる。その一方で誰にでも良く笑う子供もいる。良く笑う子供は学ぶのも早いが周りの霊の影響も受けやすい。泣くことと笑うことはその心魂作用を通して霊的なことと直結している。しかし、御父様の流される涙は私達の流す涙とは異なるものだ。御父様は神様の御心情を想われて一晩中泣き続けられた。涙に浸した襦袢が絞れるほどに泣き続けられた。普通人が涙を流す時、涙を流すことで清めを受け取っている。しかし御父様の流される涙は清めを受け取れる涙ではない。神様の心情をどこまで掘り起こしても悲しみは底無しだ。心情の深みに行けば行くほど悲しみは増していく。神様の心情を直接的に受け取られる御父様は、涙の流れるのを止めることができない。人は涙を流す時、自分の心魂を守る為に自分の為に涙を流す。御父様の流される涙は神様を想い神様を解放されようとして流される、神様の為を想われる涙であり犠牲の涙だ。私の流した涙はどうだろうか。神様を想い御父母様を想って、為を想って流した涙が本当にあっただろうか。自分の清めの為に、結局は自分の為の涙ではなかったか。地の為に汗を流したと言えるだろうか。人類の為に涙を流したと言えるだろうか。天の為に血を流せると本当に言えるだろうか。