2012年6月11日月曜日

今日の想い 416

内的霊的に見えて聞こえて感知できる私を取り戻せれば、外的地上的に感知するような魂を伴わない、即ち感情や思考を伴わない認識ではなく、死んだ感性と比べて生きた感性の中に住むことができる。訓読を何度も何度も為しながら、更に覚えてしまったみ言葉を、本を手にしていなくても何度も何度も諳(そら)んじ尋ねながら、私の失った本性を魂の向こうから手繰り寄せ復帰していく。それは自ずと内的霊的感性を取り戻すことでもある。み言葉の価値を未だ知らず、訓読がもたらす内的霊的力を知らずに、言われたままを表面的になぞるような訓読の仕方しかできないとしても、それでもみ言葉を手にしないよりか余程ましだ。しかし何頁読んだ、何時間読んだと満足するのではなく、このみ言葉の価値が分からず内的霊的力を受け取れない自分への悔しさと憤りで内的霊的圏への岩の壁を掻き崩していかなければ、み言葉の棒読みはいつまで立っても棒読みでしかない。訓読は戦いでもある。み言葉を手にして文字を追い始めるとき、霊と肉の間の厚い壁を見上げながら絶望感を覚えてしまう。この壁を突き崩す戦いがそこから始まるのであって、何頁読んだからと言って、何時間読んでからと言って、それでもまだ訓読の入り口にすら立ってはいない。御父様の顔を覚えているからと言って天国に行ける訳ではない。み言葉を何頁何時間読んだからと言って御父様の心情圏の中心に突き進んでいる訳ではない。雨だれが一滴一滴と岩を穿つような頼りないものであったとしても、精神存在でありながら肉に留まり続けなければならない悔しさをばねに、御父様の心情圏を慕う想いを込め続ければ、必ず私の霊肉の壁が崩れる時が訪れるはずだ。