2012年6月22日金曜日
今日の想い 423
イエス様の路程は、誕生から十字架に架かられるまで、更に復活されたイエス様の歩みに至るまで、人間的な視点からは決して納得できないことの連続だ。人間的視点は堕落的視点でもあって、イエス様は聖別された胎内を通して堕落と関係の無い存在であり人類のメシヤであられるので、堕落的視点でイエス様の心情的歩みとイエス様の行動の摂理的意味を測れるものではない。そのように、再臨のメシヤである御父様の心情的歩みと御父様の行動の摂理的意味もやはりイエス様と同じように測れるものではない。測れないものを測ろうとするのであれば、救いを必要とするのではなく、知への興味を満たしたいだけなのかも知れない。そんな輩が食口の周りに犇めき合っており、様々な論理の遊びを試みてくる。原理講論は神霊の働きを受け取らなければ新しい真理として理解することはない。のっけから批判意志満々で、聖霊体験もないましてやクリスチャンでもない者が理解することはないだろうし、実は食口の多くも部分的に理解しただけでみ旨への意志を差し出している。再度伝えておくが、どれ程論理を尽くしても納得できない者は納得できないし、納得したからといって救いの必要性を覚え、頭を垂れて再臨のメシヤに従う訳ではない。残念だけれども彼らには終末が訪れてはいない。終末という摂理の絶頂期に終末観を受け取れない者は別の役目が既に決まっている。敢えて言うなら、悪霊が悪霊の業をもって逆説的に神霊を証しするのと同じ役目だ。どれほど自分の子供を持つことの素晴らしさと意味を言葉を尽くして説明したとしても、実際自分が子供を持ってみて初めてその素晴らしさと意味を知るのであって、説明や論理はきっかけでしかない。言葉に尽くせないものがあると信じて行動にでるのであって、即ち信仰が先で納得が先ではない。メシヤの真偽を問う場合、本人に取ってメシヤとは何かを先ずはっきりさせるべきで、私という存在の根源に関する救いの必要性からのメシヤを求めるのでなければ、真偽の問いは何の意味もない。