2012年6月16日土曜日
今日の想い 419
イエス様が十字架の摂理を呑まざるを得なかったのは、先ずヨセフ家庭がイエス様を守れなかったからであり、次に洗礼ヨハネが不信したからであり、ユダヤ教がイエス様を排斥してしまったからだが、十字架に架かってしまったイエス様が唯一この地上摂理に足掛かりを持つことができたのは、右の強盗がイエス様の味方になって擁護したからだ。親が捨て、洗礼ヨハネが捨て、弟子達が捨てたイエス様をただ一人捨てなかったのは、殺人強盗の罪でイエス様の右に磔(はりつけ)にされた名もない一人の男だった。これこそが後の者が先になり、先の者が後になるというみ言葉そのままの事件だ。殺人強盗という最も重い罪人で、地獄の底に送られて当然の男が、人類で最初にイエス様と共に楽園に行く。イエス様と生活を共にした弟子達は直接語られる多くのみ言葉を知っていた。そして直接指導され愛されてもいた。しかし審判のその場で何の役にも立たなかった。そして結果的に不信し裏切った。それはもっとみ言葉が必要だったからだろうか。もっと愛される必要があったからだろうか。弟子達と同じ立場に立つ私達は、この教訓を痛いほどに叩きこむ必要がある。毎日何時間も訓読しているだろう。直接に指導され愛されても来ただろう。それで満足し心安らかであるだけなら、裏切った弟子達の残した轍をそのまま踏んでしまうことになる。知ることが、知を重ねることが恐ろしいという感覚があるだろうか。み言葉に触れて復活する私を積み重ねると同時に、犠牲と祭物になる決意と覚悟を積み重ねる私になっているだろうか。私は、この私自身が最も恐ろしい。新たな生命を得る復活の高みは、堕落に繋がる古い生命を惜しげもなく捨て去る決意と覚悟で担保される。