2012年7月12日木曜日

同情

ある食口の、悲惨と言っていい大変な生活状況を指し示されると、それと比べれば自分の置かれた状況に不平は言えないし、感謝して当然だという感情は起こるだろう。下には下があるという比較から起こる感情も感謝を引き起こすと捉えてはいるけれど、その同情心から本来の意味での感謝を紡ぎだすことはできない。同情心が良くないと言っているのではなくて、同情心は同じ立場を私が甘受できるだろうかと問うことであり、甘受を問うことで同情する対象と同じ位置に立っている。同じ位置に立って始めて、言葉をかけることも出来るだろうし、援助することもできるだろう。同情心は、私の中に感情の高まりを認めるだけでは神様の願いに沿うてはいない。甘受し共有することで魂をひとつにしようとしなければ、同情する対象に対して非礼を働くことになる。悲惨な生活状況にあるのは、その食口だけの個人的蕩減として背負わされている訳ではない。その食口は代表し、撰ばれて、その状況を実体的に甘受しているはずだ。全てに於いて個の側面と公の側面がある。私が同情心を起こされたのは対象から流れてくる公の側面からであり、公的感情から公的意志を私に発動させることがその食口に働いている神様の切なる願いだ。私達はこのように、周囲のあらゆる事柄に対して、私に働きかける公的側面、神様の切なる願いを見届ける者となることだ。そして公的に感情し、そして公的に意志することが私の生活の公的側面だ。同情心は、本然の人間としてあらゆる存在対象に発動していたであろう共有心情の名残りとして、今の堕落した人間に見ている。本然の人間は全ての存在対象の性相部分に共鳴し、その心情を共有し、内的霊的に語らうことができる。同情心から比較対照による利己的感謝に留めるのではなく、公的感情を起こして公的意志を発動させることだ。同情心を利己的なものに貶めるのか公的なものに高めるのか、意識していようがどうだろうが私が采配して善神或いは悪神を取り込んでいる。ある食口の悲惨な状況を聞いて、ある者は同情心から献金摂理の禍根を内面に呼び起こすかも知れない。ある者は同情心から運不運を宛がい自分に起こらなくてよかったと安堵を覚えるかも知れない。そしてある者は同情心から言葉をかけたり援助したりと行動にでるかも知れない。またある者は同情心からさらにその食口の前に向かう信仰の強さを見て自分を叱咤するかも知れない。