2012年7月21日土曜日

教条主義

教条主義という言葉がある。原理原則に固執して融通が利かないことをいう。原理主義という言葉もある。私の捉え方が行き過ぎていなければ、原理原則だけが本人が生きる世界であり、原理原則を重要視するあまり周囲が見えないか周囲の状況を結果的に無視していることを指す。どちらの言葉も周囲の視点から見て言う言葉であり、そう見られていることは認識しているかも知れないが、当の本人が私は教条主義だとか原理主義だと言い建てることは普通ない。統一食口も原理原則を大切にする。当たり前のことだ。しかし原理原則を大切にし、摂理の願いに忠実であろうとすればするほど、周囲は変わった目で見始める。変人扱いされるようになる。特に親にすれば子供が何かに取り付かれたように思えて、親心から子供を取り返そうとする。私達が教条主義的で原理主義的になりやすいという視点もしっかり持ち合わせているとしても、それ以上に神かサタンかという二極判断でどちら側に付くかを迫られ分別を要求されてきたために、どうしても周囲の目は二の次だった。子供が正しい判断力がつくまで、親は子供を分別する。決まった時間に就寝させるとか、お菓子はこれだけだとか、いくら使ってもかまわないと小遣いを好きなだけ与える親は普通いないだろう。そのように成長過程で分別が必要な期間があるように、信仰の成長に於いても分別強化の期間が必要なことも確かだ。それは個人に於いてもそうであるように、教会全体に於いてもそれは言える。宗教としては新興宗教であり、百年を単位に流れてきた宗教の信仰基準を短時間に凌駕しようとするなら、極力集中させ圧縮させて、百年の期間が必要なところを一年で基準を立てなければならない。それが副作用的に歪みを生じさせているとも言える。離れて行った多くの兄弟達がいる。辛うじて信仰を繋いでいてもみ旨へ向かう意志を差出せない兄弟達がいる。彼らは公的位置から見るならば心魂を曇らされた犠牲である。もし私が、み旨に向かう熱い意志を今も絶やさずに持ち続けていると自負するなら、彼らの犠牲を対価として、神様に買い取られている私であるという自覚が必要だ。私は彼らの分まで精誠を尽くし、さらに彼らを買い戻してこそ御父様に顔向けができる。残った一握りの群れは何としてでもこの世が、この世界が屈服する証しを立てなければならない。融通が聞かない者達、やたらに信仰臭く本人の顔が見えない者達、去勢された牛のように単純で言われるままに動き続ける者達、貧しい者達、カルト的で酔ったような者達、そんなあらゆるマイナスイメージを払拭し、実力を供え、実績を見せて、証しを立てる私にならなければならない。