2012年7月20日金曜日

I LOVE YOU

I LOVE YOU. 夫婦の間でも、親子の間でも、いつも伝える言葉だ。何の気負いも、何の恥じらいもなく、ここアメリカではごく自然に口にする言葉だ。韓国ドラマを見ていても、やはりサランへヨは頻繁に出てくる。しかしどういう訳か日本では使わない。愛していると言う言葉があるにも関わらず、日本では使わない。どうしてだろう。私も、妻に対して、子供に対して、冗談交じりにサランへヨとは言えても、愛しているとはどうしても言えない。この気負いは一体何だろう。この気恥ずかしさは何だろう。日本で一番、愛と言う言葉を学んでいるのは食口達だろうし、愛さなければならないとも思っているが、しかし直接愛していますとはどうも言えない。国際カップルと日日カップルの関係性の違いの極みは、I LOVE YOUが言えないことに集約されているのかも知れない。愛なぞという深い言葉は軽々しく口にするものではないと思っている。確かにアメリカに来てまもなく、こと或る毎に I LOVE YOU を連発するのを見て軽薄さを感じた。しかしそれは本当に愛の深みを思ってのことか、いやそれとも、愛という響きに何かエロスを匂わせるものがあることを感じ取って避けているとしたらどうだろうか。兎に角、I LOVE YOU や、サランへヨと同じ感覚、同じ感情で使える純粋な言葉が日本語にはないか或いは使われていない。使える言葉がなくて伝えられないなら、どういう言霊で夫婦関係、親子関係は支えられているのだろうか。負債を覚える相手に、心の中でどれだけ申し訳ないと頭を下げても、最終的に言葉にするかしないかは天と地の違いがあるはずだ。同じように、心の中でどれだけ愛していると叫んでも、言葉にできないことで地上的な愛の実りを受け取れずにいる。そうとも言えるはずだ。もし家族が見守る中で息を引き取るとして、最後にどんな言葉をかけられたいだろうか。或いはどんな言葉を家族にかけたいだろうか。やはり愛していると言葉をかけられたいし、愛していると言葉をかけたい。愛によって地上に落とされたのであれば、愛によって天上に帰りたい。愛に包まれ、愛の言葉に包まれて天上に帰りたい。