2012年7月10日火曜日

中心者=アベル

私達の教会のみならず、一般社会に於いても日本は中心性を重要視してきた民族だ。戦時に於いては軍部を中心としてひとつになり、戦争が終結すると国民一丸となって経済大国へとのし上がり、良くも悪くも日本と言う全体心魂の手足となっていたのがそれぞれの日本国民であり、その中心性が日本を支えてきた。思考、感情、意志が独立した個人個人の中にあるという認識は比較的に薄く、全体心魂に思考、感情、意志があって我意識せず自分を委ねている。日本を出て初めて、日本特有の全体心魂に委ねていた自分であったことが分かるが、日本の中に居続けるとなかなかその自覚は認識できなかっただろう。明確なアベルカインは、心がアベルであり体(肉心)がカインだと言うものだが、日本人は心魂を全体に委ねているので、本来の意味するアベルカインを理解できず、中心者=アベルとして取敢えず理解する他なく、その意味で御父様は日本のアベルカインの間違いを指摘されたことがある。だからと言って中心者と私の関係はアベルカインの関係とは全く別物だとも言えない。良心的な心魂であれば、善神の計らいで与えられた中心者に、私の心魂に生心を啓発させる従うべきアベル像を見て当然だ。全てに於いて中心者に絶対服従というのも偏りすぎだし、逆に中心者の一言一言を精査してアベル的なことだけを受け入れるというのも偏りすぎだ。だいたい自分が矛盾した存在で自分の判断に堕落的なものが混入しているのに精査出来る訳がない。日本食口も蕩減期間をある程度こなして、全体心魂に委ねたままの私から、神霊が啓発されて私という心魂を備えて、私が思考し判断する段階に至っている。今にして思うと、軍部規律を宛がえたように中心者=アベルは絶対、カラスが白だと言われれば白という低次の段階も当時の日本食口には必要だったはずだ。少なくともキリスト教の背景が全くない私自身は、内的のみならず外的にも僕の僕という期間が今日までの信仰の素地になっている。正直にいうと、素地になっている部分もあるしトラウマのように縛りになっている部分もある。しかしそれはそれで霊的な意味で御父様の前に出たとき、私の犠牲として報告できる部分でもある。