2012年7月13日金曜日

今日の想い 431

自分が思考する為の概念を押し付けられるままに受け取ってきたのが現代人だ。教育は本を通して為されてきたが、不自然に聞こえるかも知れないが、自分の意志ではなく或る意味強制的に概念という思考の源泉を押し付けられている。そのひとつの分かりやすい例として機械的自然、機械的宇宙がある。現代人の殆どは自然科学を信仰し、唯物的機械的に自然を捉え、宇宙を捉えている。私という存在さえも自然科学的に捉えて、霊的存在であるという認識はない。全てが押し付けられた概念でありながら、押し付けられた概念に対して生活上疑問を挟むことはない。概念はあってあるものであるとして何の疑問も挟まず、押し付けられた概念で思考したり、他の誰かが思考したものである本を見て思考を受け取ったりしている。概念を受動的なものから能動的に自らの意志で創り直すのでなければ、組み立てられる思考が押し付けられた概念を超えることはない。み言葉を訓読するには、この概念の縛りを超えなければ他の宗教書、道徳書と何ら変わりはないだろう。地上の人間は共通的な概念を共有しており、昼の覚醒時はその概念で感覚を受け取り、訓読するにしても概念が邪魔をして堕落的思考の域を超えることはない。しかし夜の睡眠時は地上感覚に対して無意識であり思考も働いてはいない。謂わば押し付けられた概念から自我は自由な状態にある。妙な言い方をすると、私は夜の自由な状態でみ言葉訓読の意志を働かせる必要がある。御父様が夜の神様、昼の神様を認識されたように、私は睡眠と覚醒をはっきりと区別してはいるが、夜の私の状態と昼の私の状態が存在することに何の疑問も挟まないし、その関係性も判らないままで夜の睡眠時から昼の覚醒時に何も持ち込めないでいる。自由な夜の私から捕らえられた昼の私を開放し、さらに持ちこめるものがあるなら、夜の私の意志を働かせ、その意志で御父様の概念を受け取りみ言葉訓読を為していると言えるようになる。それには、回数や時間の数理的条件も必要とされると言うのであればそれも頷けるが、一昨日ある個所を読み、中断して昨日続きを読み、今日もその続きを読むと言うだけでは、そこに地上的堕落的概念を超えようとする意志は見えない。