2012年7月19日木曜日

真の愛を考える

堕落人間は真の愛を受けて真の愛だと理解してはいない。私達が愛という言葉を使う時、私なりの愛の概念を備えていて、その概念を通して愛を与え受け取り認識している。真の愛は偽りの愛に対しての言葉だが、偽りの愛は愛を偽っているという意味での偽りの愛ではなくて、私の愛の概念に既に偽りの要素が入り込んでいる。愛それ自体は美しい。偽りの愛であっても堕落人間にとっては美しい。しかし普遍の愛にはなり得ない。不倫の愛も当人同士にすれば美しい。しかし奪われた立場からすれば醜いことこの上ない。不倫の愛はどんなに言葉を尽くされるとしても普遍の愛にはなり得ない。愛そうとする場合、普遍の愛に育てられるかどうか、なり得るかどうかは常に試される。今までこの地上に御父様が使われる意味での真の愛は存在してはいなかった。人類始祖が堕落して以来この方、神様から見れば地上で愛と呼ばれるものは全て偽りの要素が入り込んでいた。普遍の愛として実を実らせたものを、イエス様が示された霊的なものとしては認められるとしても、地上に実ったものはない。それでは御父母様を地上に迎えている今、私達は真の愛を受け取っているのだろうか。御父様が私達に差し出されるものは全て真の愛が流れている。私達は真の愛と認識できずに真の愛を受け取っている。私が認識できないから真の愛は存在しないと言うのは間違いだ。私が真の愛として受け止め、私が真の愛としての実りを実らすのであって、真の愛を見せろと言うのは結果だけを奪って受け取ろうとするのであり、アダムとエバがルーシェルにそそのかされて結果だけを受け取ろうとしたのと同じことだ。真の愛は確かに御父母様から流れて私達は真の愛を受け取っている。アダムとエバが戒めに対する絶対信仰、絶対服従を供えることで真の愛の実を実らせたはずであるように、真の御父母様への絶対信仰、絶対服従を供えることで真の愛の実を実らせることができる。しかし実らせるまでは、あらゆる段階で結果を求める自体自覚の自分と戦わなければならないし、自体自覚を否定しなければならない。