2012年7月14日土曜日

今日の想い 432

み言葉は生命(いのち)であると言うのは、その言葉通りに受け取らなければならない。み言葉そのものに生命が息衝いているのであり、み言葉を通して生きた自分になれる。み言葉と、通常の概念や理念と言うみ言葉以外の言葉とを振り分けるとするなら、み言葉が生命であるならみ言葉以外の言葉は死んでいる。死んだ概念、死んだ理念、死んだ思考で自己認識し、世界認識をしているけれども、その認識も死んだ認識だ。それが人間は霊的に死亡圏にいると言う意味でもある。ではみ言葉の生命をどうやって受け取ればいいのか。私達はみ言葉から生命を得ると信じ、み言葉訓読を毎日しているが、本の文字を声に出して追っていくだけで訓読したと本当に言えるのだろうか。100回訓読して奇跡が起きたという証しも聞こえてくるが、私自身が死亡圏から生命圏に産まれることができたと言えるみ言葉の生命そのものを実感した証しは耳に入ってこない。私が生命圏に産まれ出たと言う奇跡的体験が起こらない限り、み言葉の中に入れずに、周りから触れようとするだけに留まり、中に入れば霊的生命に与(あずか)れるらしいと、中の様子を時折伺い見ることしかできない。そして死亡圏に留まったまま死んでいく。霊的な死が分かっていないから生命への渇望も湧かないのだろう。地上的感覚で言うところの、眠った状態にいて目覚めていないと説明すれば分かりやすいかも知れない。み言葉訓読していても、死んだ概念、死んだ思考を用いて相変わらず同じ世界(死亡圏)に留まり続けていれば、み言葉の世界を別の世界像として眺めていることにしかならない。しかしみ言葉をしてみ言葉の世界(生命圏)に産まれるなら、み言葉の只中で目覚めたと言える私を体験するだろう。生命圏に産まれ出て目が覚めるなら、み言葉の背後にあって夜の領域のなかに閉じ込められている本来の私の意志の力を、昼の領域に注ぎ込むと言う意味が理解できるはずだ。そして恐らく、夜の神様を捉えることができるはずだ。