2012年7月23日月曜日
今日の想い 433
人間は言葉をして思考する。しかし言葉をして為すのは思考だけではない。言葉をして感情もし、言葉をして意志もする。ここでは言葉を、生きた言葉、死んだ言葉とは敢えて分けない。思考表現として使う言葉は言葉の外的な表れであり、感情表現として表す言葉もまた言葉の外的な表れであり、意志表現として表す言葉もそうだ。よく観察すればわかるように、思考するとき言葉の内的な深みから来るもので思考し、言葉としてそのまま外的に取り出せるもので思考を立てている訳ではないし、感情するときも意志するときもやはりそうだ。言葉が思考のみに使われているかのように受け取っている現代人という思考人間には、思考を立てるという言葉の一面のみを捉えてしまい、言葉で感情し言葉で意志していると言うことが理解できない。感情は思考の源泉である言葉とは別のところにあると思っているし、さらに唯物的な思考に傾くと、感情は本能的動物的なところに端を発していると見るようになる。感情の源泉も言葉にある。意志の源泉も勿論言葉にある。唯物的な意味での言葉を超えて、さらに外的な意味での言葉も超えて、言葉の内的な意味を掘り下げてどこまでも下って行くと、言葉が心情で心情が言葉だと言える源泉がおぼろげに見えてくる。もしその源泉を明確に捉えることができるなら、私はその源泉こそが神様だと断言できるだろう。そして神様は言葉である以前に心情であり、言葉は心情に含まれると言うこともわかるだろう。私が思考する言葉から心情が汲み取れれば、それは正しく思考していると言うことができる。人間的な感情そのものに、ダイレクトに神様の心情が現れていると思うべきではない。堕落人間の通常の感情の部分は天使長ルーシェルに端を発している。堕落を、心魂活動である知情意の知から言うなら、内的霊的無知に陥ったと言えるのであり、情で言うなら、心情から感情に陥った言える。私達は御父母様とひとつになりながら、み言葉とひとつになりながら、無知を克服し心情を復帰している。