2012年7月30日月曜日

今日の想い 436

思考を働かす頭の部分が鷲なら、感情を働かす胸の部分は獅子に象徴される。そして思考、感情とくれば今一つは意志の部分だけれども、意志を働かす部分は生殖器を含む丹田にある。人間は意志を丹田で働かせている。そうであれば丹田の部分を象徴するものは何だろうか。やはり、どうしても想起させられるのは蛇だろう。人間は生殖器を天使長に差し出し、即ち意志の部分をサタンに差し出してしまった。堕落人間は意志の部分をサタンに主管されてしまい自由を奪われている。自由意志の首根っこを掴まれている以上、感情に於いて自由であり思考に於いて自由だと言い放っても、所詮自由意志の首根っこを掴まれたままの堕落人間は形だけの偽りの自由であって、本当の自由を取り戻してはいない。そこで御父様が願われる絶対が必ず必要になってくる。絶対なくして意志の自由はあり得ない。意志の自由なくして感情の自由もないし思考の自由もない。私は自分の蛇の部分を邪悪な蛇にするのか、或いは絶対を誓い行動することで、モーセが旗竿に掲げた青銅の蛇、即ちキリストの象徴に見る蛇にするのかが委ねられており、そこが自由か不自由かの接点だ。愛が自由性の上にないのであれば、それは愛とは言えない。ちょうど電気が伝導体を介して行き来できるように、愛は自由性を解して行き来できる。本然の100%の自由性を介してこそ真の愛は行き来できる。しかし自由性には責任が伴うのであり、責任のない自由は自由ではない。勿論アダムとエバは自由性ゆえに堕落もした。しかし堕落させられたのではなく、自由性ゆえに堕落を取った。戒めを与えられてはいたが、守ることもできたし反することもできた。そして自由性ゆえに戒めに反することを撰んで、自由性ゆえに神様は関与されなかった。そして自由性ゆえに堕落の責任を受け取った。そしてその責任はアダムとエバが背負い切れないほど多大なものだった。人類は自由性ゆえに堕落したのであり、堕落した結果、自由性を失ってしまった。私達は失った自由性を、真の父母に繋がる選択を通して勝ち取っている。丹田の部分を象徴する蛇は、自由意志のない邪悪な蛇だったけれども、真の父母に繋がり絶対を備えることで掲げられた青銅の蛇、自由意志を備えた昇龍になる。絶対信仰、絶対服従の歩みは、この世的には不自由に見えるのかも知れないが、絶対を通して本然の自由意志を勝ち取る歩みであることは間違いない。