2012年7月26日木曜日
歴史をどう受け取るか
歴史をどう受け取るかと言うのは、地上に重心を置いて歴史を見るのと、霊界に重心を置いて歴史を見るのとでは大きく異なり、後天時代に於いては霊界に重心を置いた生活が大切であるように、歴史の認識も霊界に重心を置いて受け取るべきだ。今までの通常の歴史認識では、揺るぎなく動かし難い史実が存在し、その史実を文献などの情報と遺跡や遺物を自然科学的、さらに論理的に調査解明して差し出している。しかしそれは一面的であって、と言うのはあくまで人間の意識が今も昔も変わってはいないという暗黙の了解を基礎に置いているからだ。人間の意識は変化している。さらに現代の意識の光で照らし出そうとしても、立体存在を面に投影したものを正しく再現しているのだと言い張るように、一面的で限界がある。後天時代に於いて歴史から受け取るべきものは、はっきり言って感情だ。史実として差し出されているものは私に取って象徴以外の意味はなく、歴史から受け取る感情こそが歴史と私の間の現実だ。差し出された歴史の史実が間違っていると言うのではなく、それは象徴として捉えることで意味がある。講論に現わされた復帰摂理歴史を学べばわかるように、自然科学的観点から捉えれば頭を傾げることしきりで、史実として受け取れるものでもないし意味もないだろう。私達は自然科学的史実として摂理歴史を理解しているのではなく、感情に訴えてくるものを受け取っている。それは史実では受け取れなかった歴史の現実であり、歴史に流れてきた感情を具体的生活の中に再現されて、私達は今まさに歴史と共に生きている。地上人間は感覚で受け取る体験には意識の殆どを宛がっているけれども、感情で受け取る体験そのものは委ねるだけで意識的ではない。感情を感覚体験ほどに意識化できれば感情に生きるもの、蠢くものを実感できるだろう。事実、霊人達は感情の中に生きていて働いている。霊人と地上人間の接点は感情にある。霊界協助も、私達の意識に直接働くのでも奇跡的出来事として現れるのでもなく、私達の感情への影響をして協助する。私達は祈る時、頭を働かせようとするだろうか、それとも心を働かせようとするだろうか。心を働かせ感情として呼び起こそうとする。さらに肉的欲望への衝動は頭に働きかけるだろうか、それとも感情に働きかけるだろうか。如何ともし難い衝動が感情に押し寄せて理性を超えてしまう。祈る時には神霊を感情に呼び起こそうとし、肉的衝動は死人(悪なる霊人)が死人を呼び寄せ感情に押し寄せる。