2012年7月3日火曜日

思考から心情へ

考えても考えても考え足りず、考えれば考えるほど知への渇きを覚えてしまう。一方で私の拙い思考では、私自身が解決され満たされないことは百も承知だと知りながら、頭の論理から心の論理(?)に移行させることができないでいる。人間が太古の昔から、今と同じような心魂能力を得ていたとは思わない方がいい。特に頭の思考論理は、納得するという意味を頭で理解することと捉えていて疑わないが、納得するという意味は感情が受け入れることを意味する感情の論理の時代が先行して長く流れてきた。意志を働かせる為に頭の理解を必要とすることも事実だが、意志に直結するのは快不快の判断によるし、自分でも分からない衝動に突き動かされて意志を働かせることも少なからずある。頭では分かっていても動けないと言うのが事実であり、心魂の思考活動に意識が当てられ感情という実態を把握しきれないままで日常生活を営んでいるが、快不快として現れる感情の背後に意識を向けることを学んでいけば見えない私の正体が見えてくる。感情の深層に深く入っていけば、気にも留めなかった浮いては消える表面的な気分と、原理で学ぶ堕落性本性として血の中に居座る根源存在とが繋がっていることが見えてくる。罪という言葉の響きに対しては差ほどの嫌悪感も抱かないだろうが、私の中に蛆(うじ)が湧いていると言われれば明らかな嫌悪感が走るだろう。実際、私の血の中に蠢(うごめ)くものはそれに等しい。感情人間から思考人間に変わってきたのは神の摂理としてそうなって来たのであり、感情人間に留まり続ける限り感情を支配するサタンからは逃れられないが、思考人間の部分が強化されることで頭の論理で真理を受け入れる可能性を得ることができた。真理を受け入れた人間はその位置から再び感情部分に意識を当てることで血に流れるサタンの正体を見抜くことができる。感情部分を解放することができる。原理坊やは感情部分をサタンから解放してこそ、神様から流れる心情をその心魂の部分に汲み入れ、神霊を宿した私になることができる。原理を含めたみ言葉を論理で理解することは、み言葉とひとつになる為の一里塚でしかない。頭の論理を飛び越して、直接に心情を汲み入れることができれば、それに越したことはないのだろう。