2012年7月7日土曜日

今日の想い 428

献身期間は男女が同じ家の中で暮らしていた。複数の若い男女が同じ家で生活していることで、周り近所から訝った視線が投げかけられたことは言うまでもない。しかし家は同じでも部屋は勿論分けられていたし、端々に至るまで徹底した分別生活が為されていた。食事のテーブルでも席は分けられていたし、カップに至るまでアダム用エバ用とマジックで書かれて使用を分けられていた。同じ家にいる訳だから会話もするけれど、中心者がいて主管された状態で為され、男女一対一の会話となるとさすがに分別生活の雰囲気に合わずに避けていたし、触れるなどもっての外だった。そこまで徹底された内外の規律が必要なら、先ず男女で住む家を分けたらと言うことになるのかも知れないが、わざわざ一緒の家に住むことで分別生活の意味を知り分別の力を養えるのであり、思わしくない状況になり得る環境でありながら、自由性による主管性を自分に備えることができるかどうかが男女共同生活の原理的な意味だ。実際は同じ家に住みながら殆ど中心者に完全主管されていて、主管性を備えるまでの修練にはなってはいなかっただろう。主管性に於いて極論を言うなら、他の誰もいない自分の部屋に見目麗しい女性が裸で入って横になっても、手も延ばさず生殖器の変化も起こさないと言う御父様の言われる基準になるが、その基準をクリアする為に試練を受けるとしても、99%は失敗して甘い罠に墜ちるだろう。アメリカで御子女様主導で行われている社交ダンスに対していろんな意見がある。アメリカではそれほど非難の声が上がることはないのだが、日本ではかなり反発もあるようだ。挨拶に軽い抱擁が為されるのはアメリカでは二世であっても同じで、それについて顔をしかめる親は日本人であっても先ずいないだろう。社交ダンスという決められた枠内でも相対者以外に触れることに対して嫌悪感があると言うのは、先ず生活習慣の違いがあるのかも知れない。或いは触れることで思わしくない感情が起こるはずだと決め付けた上での嫌悪感かも知れない。しかし規律はどこまでも外的規律であり、どれほど事細かく厳しくしようとも見える限りは目で視姦することもできてしまう。規律で雁字搦めにすれば明らかに自由性による自己主管は育たず、「、、してはいけない」戒律の溢れる味気ない理想世界、理想人間になってしまうだろう。確かに日本的な信仰教育で育てば、嫌悪感とまではいかなくても頭を傾げてしまうのかも知れないが、事実として確認できることは、社交ダンスを始められて二世の堕落問題が大きくなったと言うことは今のところ耳にしない。原理で分かるように見たから堕落したのでもないし触れたから堕落したのでもない。創造本然の世界でも見るな触れるなという戒律があるとは思えない。規律で雁字搦めにされない限り自分を主管できない一世の若い頃とは異なる、心魂の次なるステージに二世は立っている。