2012年9月29日土曜日

今日の想い 463

御父様が聖和された今、私は御父様をどれだけ必要としているだろうか。言葉を話され見て聞いて喜怒哀楽を表現される実体の御父様を失った悲しさ、寂しさはあるとしても、それが時間を経て癒されてしまうなら、御父様の必要性をもなくなってしまうと言えるのだろうか。私達は実体の御父様を慕い侍ってきた。実体の御父様の感情の部分を推し量り、受け入れながら接してきたが、それは多分に人間的な接し方に終始してきたのかも知れない。再臨の救世主だと認識するとしても、自分の救いの必要性をどれだけ認識するかに応じて、救って下さる御父様を求めてきたはずだ。救いの必要がないか今までの歩みで消えてしまったなら、実体の御父様を失った悲しさ寂しさが癒えてしまえば、救いの御父様は私と共におられない。私が意志して能動的に求めない限り、御父様は私に訪ねて来られることはない。それが聖和され地上を離れて霊界に行かれた状況であり、地上に残された私達の立場だろう。私の中で生きて働かれる御父様を実感しようと思えば、やがて霊界から声をかけて下さるだろう、何かのしるしを示して下さるだろうと待っていても、2000年を待ったクリスチャンと何ら変わりなく、自己満足的な自分なりの御父様像を抱いていては難しい。待つことに安住する私ではなく、求めざるを得ない私であり、能動的に求めてこそ御父様は求めたものを携えて訪ねて下さるはずだ。聖和式も済ませて、それぞれがもといた場所に帰っていって、聖和される以前と何ら変わりない生活に没してしまう。そういう中で誰が御父様を求める衝動を自分の中に感じているだろうか。御生存の間は、或る意味打ち出される摂理に外的には翻弄され、それを形にする為に無理にでも内的に引き上げざるを得ないし御父様を求めざるを得なかった部分があるが、聖和された今、引き上げる力、求める力を私達は私の中に能動的に働かす必要がある。

2012年9月28日金曜日

今日の想い 462

昨晩は尾を引くような雷鳴が夜遅くまで鳴り止まなかった。今朝方訓読会を済ませて明るくなりかけた外に足を踏み出すと、湿りを帯びた草木が朝焼けの柔らかな光を受けて、微かなピンクを滲ませている。聖和式を終えて帰ってみると、ほんの数日を隔てただけなのに、雨模様の大気はすっかり秋の様相に代わっていて私を拒んでいるようで戸惑ったが、今朝の柔らかな大気に包まれてみるとやっと納得したようで、私も人心地がついたように思えた。自然は自然で御父様が聖和された事実を受け入れ、その為の期間をそれなりに要しているのかも知れない。力のないむせび泣くような昨夜の雷鳴も、ひとしきり泣き明かした後の放心したような今朝の静けさも、未だに霊性の乏しい私でさえも自然の中に感情をみるようで感じるものがある。彼らの主人を地上から霊界に移した今、これからの秋の深まりをどう自然は表現するのだろうか。全てを機械的に捉える科学万能の世の中で、物事も自然も人間の意識に沿うて機械的であらざるを得ない。自然に感情があると真顔で言えば笑われるけれども、機械的唯物的であらざるを得ない自然の、押し込まれて固く蓋をされた感情の部分を、み言葉を知った私達が解放せずに誰が解放するのだろうか。御父様が聖和された今こそ、自然も万物も堕落的封印を解かれて解放されるべきだ。堕落は人類の問題だけれども、人類に主管される万物存在も否応なしに影響を受け嘆息してきた。御父様の存在は彼らの解放をも握っておられたはずだが、御父様の聖和の事実が彼らの解放の願いにどう影響を与えどう応えるのか、それは御父様に繋がりみ言葉を知る私達の認識と意識にも依っているはずだ。私という存在は、私の救いだけでも家庭の救いだけでもなく、勿論氏族の救い世界の救いを背負った存在でもあり、天使世界の解放、鉱物植物動物という万物の解放さえも背負った存在でもある。御父様が常に公的位置に立たれて責任を持たれたように、私達はその責任を相続している。自由と責任がその両面で分かれることができないように、祝福を与った者はその責任をも与っている。私達は事情に揺れ動く者達であってはならず、揺らぐことのない神霊の柱を立てて御父様の精神を貫き通す。

2012年9月27日木曜日

基元節に向かって

私達は、御父様が聖和されてすぐにも、それぞれが信じるところの統一信仰の根源にメスを入れなければならなくなった。皆が同じ信仰のように思っているが、それぞれの信仰観は異なる。御父様は絶対信仰を強調されたが、それぞれはそれぞれの異なる信仰観の完成を絶対信仰と捉えていて、そうであればそれぞれはますます相容れなくなる。信じて義とされる時代を経て侍って義とされる時代を生きているのであり、信仰と言う以上信じるという悟性に立っている訳だが、侍る為には悟性を超えた意識、侍ることを第一義として、侍るに合わせて悟性段階での信仰を修正しなければならないだろう。絶対愛、絶対信仰、絶対服従だが、未だ真の愛の感性を備えていないならば、絶対愛は絶対信仰の土台に立つべきであり、その絶対信仰は絶対服従の土台に築くべきだろう。御父様が絶対服従が何よりも重要だと言われたように、今私達が試されているのは、自分が思うところの愛を超え、自分が信じた信仰を超え、御父母様に対する絶対服従だ。絶対服従をもって信仰は立て直せばいい。それが反社会的な危険な臭いを醸し出すもののように感じるかも知れないが、堕落的なものを根底に置いている社会は崩れ国も崩れ世界も崩れるし、具体的な足場である陸地も崩れるかも知れない。結局残るのは真の父母とその血統圏と祝福圏だけだ。社会も国も世界も、未だに形を為しているのが不思議なほどに矛盾を抱えており、蝶の羽ばたきで一瞬に崩れ去るだろう。基元節までに我々統一家はあらゆる角度から熱い鉄を打つように打ち直され、打ち直されてその準備を備えた者だけが残って基元節を超えて前進することができる。御父様が基元節をD-DAY(戦闘開始)と言われた恐ろしいほどの意味を、知って胸に刻んで立ち向かわなければならない。

2012年9月25日火曜日

今こそ責任分担に立つ

私は後ろばかりを見ているだろうか、或いは前だろうか。状況の説明を受け、納得できなければ立ち止まったままで前に進めないと言うのであれば、それは後ろ向きに後ろを見ながら、前進する摂理とは逆向きに存在しているということだ。私達は過去に対する蕩減法を宛がわれて現在の私の位置や環境、状況が与えられているのであり、未来に向いては責任分担を願われてやはり現在の私の位置や環境、状況に立っている。食べて寝て行って来る人類共通の生活形態でありながら、この世の生活と我々の生活の何処が異なるのかと言えば、私達は蕩減法と責任分担を知っていて、5%が何かを思考し意志しながら生活しているという、外的には同じ生活形態でありながら天地の違いがその責任分担の認識にある。摂理が立ち止まることなく前進し続けるように、私達は責任分担を意志しながら前進し続ける。私の位置や環境、状況に対して不満を募らせ、納得できないまま責任分担への意志を差し出せないなら、摂理の願い、御父様の願いからずれていく。今は、中心者がどうだ御子女様がどうだと、自分の意識の矛先をばら撒いている場合じゃない。状況はその通りに受け入れながら、しかし自分なりの判断や感情は持ち込まず、状況に対して私は何をすべきか、何が願いかという責任分担の視点で意志を働かせてこそ私は前進できる。責任分担という言葉は、歴史的に誰も紐解けなかった不可解な人生に答えを指し示す、御父様の歴史的天宙的一大発見だ。私たちはみ言葉の重要性を何となくは理解しているけれど、生活に根差した、生活に刻み込むものとしてのみ言葉の価値をわかってはいない。責任分担あってこその自由であり、希望であり、創造であり、神の祝福であることを、生きる上でひと時も忘れるべきではない。私の前には責任分担がある。責任分担を通して私は前進できる。

2012年9月23日日曜日

今日の想い 461

表面的にあらわれた事柄を見ながら、私たちの中に巣食うサタンの砦を見るのでなければ、私は霊的見地に立っているのではなく地上的であり外的であり表面的であり、それは信仰を重ねて来ながら未だに内的霊的な無知のままでいるということだ。あなた方の中で罪のない者が言葉すればいいと御父様に言われるとして、誰が言葉することができるだろうか。しかし自分にも勿論罪はあるが、位置と立場での影響は大きく、教会のことを思えばこその言葉は中心に対して口にすべきだと言い張るなら、それは例えばどんな言葉だろう。責任の所在をはっきりさせろと詰め寄ることに言葉を尽くすべきだろうか。混乱をもたらしたことに対する謝罪要求に言葉を尽くすべきだろうか。それで希望への道が指し示されるならそれもありかも知れないが、それは一時の鎮静剤で何にもならない。私達は今の現状をどのような内的霊的見地に立てば超えていくことができるだろうか。提示された現実がショッキングなために、その波風に翻弄されて自分の内的霊的な状況(位置)が把握できないでいる。先ず私達は心魂の異常な高まりを鎮めるために祈りの期間が必要だろう。そして私の内的霊的な状況、内的にどう捉えているのかの知の状況、どういう衝動にかられるのかの意の状況、そしてどんな感情が沸き起こるかの情の状況を瞑想祈祷しながら把握しなければならない。私達に働く神霊は、必ず私達の目指すべき内的霊的位置を指し示してくださる。指し示してくれるけれども先ず私の位置が把握できなければ、その願う位置への道のりは見えてはこないし、心魂の興奮からとても祈る状況にないと思うかも知れないが、こういうときこそ祈り尋ねるべきだ。私達は前線訓練を受けながら、事が差し迫り、覚悟し決意を迫られるその時の祈祷こそ祈りの力を実感してきた者達だ。私達の5%は祈り求めることだ。求めなければ神霊は訪ねてはこない。表面的には教会全体の問題であるけれども、私達ひとりひとりがサタンからその試験を受けるべく剣先を向けられている。前にも触れたように、全てはリンクしていて全体の問題も私の問題であることは間違いない。中心の責任だ、子女様の責任だと言い続ければ堕落的私は自分の責任に蓋を被せて気分がいいだろう。しかし内的霊的自分の本質が見えたときに、或いは死んで霊的本質になったときに、あの時にサタンに鷲掴みにされている部分を清算すべきだったと、地を叩いて後悔するときが必ずくる。超えられない試練を神様は与えられないし、超えられないサタンの試験を神様は許可しない。

今日の想い 460

世界会長がアメリカの兼任もされると決められて、早速訪米された。昨晩は三時間以上にわたって兄弟からの質問に答えておられたが、直接的な質問に対して説明に十分気を使っておられるようだった。中には責めるような言葉で心無いものもあってこの場でどうなのかと思ったが、それより私が気になったのは質問者が会長と皆の前で話したいだけというものが大方だったということだ。集まった兄弟達は本人の感想や説教じみた話を聞かされるより、もっと世界会長の言葉を聞きたかっただろう。こんな事件が、更にこんな時に、わざわざ今のこの時と状況を選んで合わせたように表面化したということに注目せざるを得ない。状況はそうならざるを得なかったどんな説明を聞いたとしてもそれでどうなるものでもない。我々の一体化への影響、二世への影響、対社会的な影響は心配せざるを得ないけれど、周りが状況を詮索し過ぎて野次馬的になったり自分なりの判断を宛がえたりすべきではなく、全ては本人と御母様との間でなされるのを見守るのみだ。公的位置にあった立場であれば、御本人から皆に話したいことがあるのではないかと私は思っているが、触れたくないのであればそれはそれで受け入れるべきだ。状況自体はあり得ることだからと自分を無理やり納得させるとしても、しかしどうしてこの時にと言うことに関しては私達はよくよく祈らなければならないと思う。霊界を知った立場で、たまたま偶発的にという言葉は私の辞書にはないし、すべてに時があり、すべての時と時が合わせられる。何が飛び出してもおかしくないここ一年前後だが、誰もが、起こる事柄と私とは因果関係はなく今回も自分に降って湧いたものを被らざるを得ない被害者として認識しているようだが、世界で起こる事柄も私の内面世界と繋がっており、更にコアな部分である教会や真の御家庭に起こる事柄も、私の内面世界の中心的課題とリンクしている。決して他人事の話しではない。敢えて言えば私の罪がそうさせていると言える。分立問題も、御父様がこの時期聖和されたことも、そして今回の問題も、更に表面化するであろう事柄も、全ては私の内面的在り様が表面化して、それをどう次元を上げて解決していくかをもって内的霊的なものが整理され恨みが晴らされていく。

2012年9月21日金曜日

今日の想い 459

教会という組織に対して疑問を抱き疑惑が生まれ、御父様なき今は彼らを直接的に正せる言葉と口を失ってしまい、共産主義者がそうであったように、己の見解や判断を盲信したまま行き着くところまで行き着かなければ己の非を認めることはない。分かれた今、向こうが間違っておりこちらが正しいと反論するだけでは向こうと同じであり同じ土俵でいがみ合うしかないが、教会側は教会側として、御父様は私達の側についておられると言える為には、御父様と一体となっておられる御母様と如何にひとつになっていくかが重要な鍵になる。我々が御父様の願いをしっかり受け止めることができなかった結果が分離を産み出したように、御母様と如何にひとつになるかをこれから試されるのであり、それ次第では更なる分離が待っているかも知れない。共産主義者が現実性のないユートピアを描いてそれに酔い、それを追求するあまり愛や心情を蔑ろにしたように、彼らにもそれが認められるし、私達の中にも地上天国と現実性のないユートピアとを混同しがちな面を持ち合わせていて、御母様と一つになる為には常に私達自身の分別が必要になるだろう。御父様なき今、幼いまま甘えたままではいられない。曖昧で妥協した自分を赦して放任すれば放任する程、それに見合った霊を吸い寄せていく。知らないうちに集まった霊は堕落的己の保護圏となってますます自己中心的存在に墜ちて行くだろう。私達は御父様と共に歩む過程でそれなりの霊的感性を育まれてきた。霊的臭いを嗅ぎ分け霊的予知を感知する。私達は無の位置、祈りの境地で「御父様!」と呼びかけるに呼応する内的霊的知らせを御父様の願いとして受け取れる。より御父様とひとつになった者は御父様の衝動として内から突き上げるものさえも感じるだろう。その傾向はこれから益々強くなっていくはずだ。御母様と一つになれば御父様の存在感を御存命の時以上に実感する我々になるだろう。

今日の想い 458

私と妻は13日の夕方向うの空港に着いたし、あくる日延長して頂いた参観の列には加わったものの、3時間待って打ち止めされた。今回御父様にお会いした食口もいるだろうし、天正宮まで辿り着きはしても既に御写真だけだったという食口もいるだろう。そして私達のようにお会いすることも、御側に近付くこともできなかった食口もいる。お会いしたいと思って皆集まり、列に並ぶ訳だけれども、与えられた結果は結果としてそれぞれに良しとすべきだろう。私自身は、その場では会えないことが残念であったけれども、最後にお会いした時の御父様が元気でもあり叱り飛ばされる御父様で良かった。最後の御父様の映像が息もされず横になって動かれない御父様では、私の心魂の影はどこまでも尾を引いただろう。息を引取られた御父様の印象は、私にはきっと強すぎて、事ある毎にその印象が息を吹き返し、内面を一層暗いものにするだろう。だからお会いできなくて良かった。駆け付けて事実を確認しただけで十分だった。でも妻はどうしてもお会いしたかったようで幾分塞いでいた。同じ部屋に居合わせた先輩食口の、天正宮の近くでバスを降りてからの方が更に大変だったと言う話を一生懸命に伝えて、何とか納得させた。事実妻には体力的に無理だったろう。もし無理を強いてお会いできたとしても、後はダウンして身動きも取れず、聖和式も出発式も参加できなかっただろう。参加するものは一通り参加して、生きて帰ることができて良かったと思わなければならない。こうした私の人生の中で一番長い一週間は、帰ってみると半年過ごしたようでもあり、或いは一年近くも天正宮の麓を行ったり来たりしていたようでもある。浦島太郎のように、私だけが急いで年月を費やしていて、こちらに帰って一週間前の居場所に身を置いても、地上の現実のサイクルと噛み合わず、どうも足が地に着かない。やはり私には何かが抜けてしまっているようで、どう焦っても漲るものが湧いてこない。内的霊的な御父様を、未だ私の中には迎えられずにいる。

2012年9月20日木曜日

これからの信仰姿勢

御父様はもう地上の御父様ではなくなられた。御父様の存在を知らないときも知ってからも、私の人生で御父様が地上におられない世界を生きることはかつて経験がない。初めて御父様のおられない外的世界を歩むのであり、歩むその新しい世界、新しい天地は今始まったばかりだ。私達は御父様が地上におられる間にもっとしっかりと準備すべきだった。地上感覚で捉えた御父様だけを御父様として認識していたが、これからは霊的な御父様であられ、霊的感性で捉える御父様を生き生きと感じるほどにならなければならない。聖和されて間もない今は、記憶に残っている御父様を慕い侍っていて、地上におられるときと何ら変わらないように思っているが、外的な記憶は残像に過ぎない。残像はやがて時間の流れと共に色褪せていく。我々が準備不足であったことは否めないが、私の霊的感性を掘り起こし、即ちみ言葉に宿る御父様の心情を掴み取り、心情として活きて踊るものをありありと内包するようになることだ。掴み取った心情こそ御父様の残像ではない本質的な霊的御父様だ。これからは訓読生活がどれほど重要な意味を持つか。訓読も他の本を読み進めると同じようなものではなくて、み言葉に宿っている御父様の心情をみ言葉から染み出させて取り入れる、その霊的役事、霊的秘儀としての訓読を行えてこそ霊的御父様は私の中に住まわれる。私の中に住まわれる御父様こそがこれからの私を導いていくのであって、そして私の存在の在り様、私の意識の在り様がかつてとは180度異なっていると実感できる者とならなければ偽りであって、今までどれほど信仰を備えている人物であったと評価されていたとしても、この新しい180度異なる意識を備えなければ、今までの意識基準で残る者は先ずいないだろう。残ったとしても御父様の本質的願いから外れていくようになる。願いに合わせて進化していくべきなのが我々の宿命であり、認識も感情も意志も、意識も信仰もみ言葉認識さへも、何一つ留まるものはない。御父様がこう言われたからこうだと言うなら、み言葉を塩漬けにしているのであり、訓読を供えて活きた心情として受け取る衝動や願いがこうだからと言えるのが、我々の進むべき在り様だろう。

2012年9月19日水曜日

今日の想い 457

やはり聖和式前後のこの時も、日本食口の状況は想像を超えていた。清平まで行って見た訳ではないが耳にした情報は、横たわる場所もなく寒空の下で横になっているとか、トイレでさえも横になる場所にしているだとか、若くない食口達ばかりだろうに兎に角すさまじい。徹夜祈祷の精誠に参加する食口も多いらしく、日本食口の基準に比べればアメリカやヨーロッパから参加した者は物見遊山に近い。そこまで言うと気分を害する者もいるだろうが事実そうだろう。私は御父様が聖和されて、そのまま天国に向かわれたとは思えない。イエス様が十字架につけられて、霊界に足を踏み入れられる前に先ず地獄の底の底に降りられて、そこで霊的戦いを勝利して超えられ、その条件で復活の摂理をされた。御父様も地上で、底辺の底辺の位置まで下っていかれ、監獄生活も何度も味わわれた。そして霊界に入られる前に先ず霊界とも言えない地獄の底を尋ねられるだろうし、そこで血を流すように心情を流され、地獄を整理されておられるように感じる。もしそうであるなら、霊界に送るのは乙女を結婚に送り出す以上の歓びをもって送るとは言うけれども、地上での様子を見聞きして知っている御父様の聖和に関する限り、自らを犠牲にされながら先ず地獄の救いを意志されて地獄の苦しみに身を置かれて、戦いの中にある御父様ではないかと思う。そんな御父様の事情を共にしたい子供であるなら、聖和されて間もないこの時、誰よりも苦労してこそ御父様に同参していることになる。13日に到着した私と妻は、明くる14日、御聖体にまみえる為に天正宮行きのバスの列に並んで3時間待ったが、やっとと言う時にカットされてしまい、待てども待てども流れない列に立ち続ける地獄から開放されて、天正宮を涙目で仰ぎ見ながら敬拝した。15日の聖和式に、寝る場所さへもない日本食口達が日が昇らないうちから表広場を埋め尽くして並んでいたが、緑の紋章を付けた私達は、そこに隙間道を開けてもらって1分の待ち時間もなく会場に入って席を貰った。中には待ち時間が長すぎて気分が悪そうな日本の食口もたくさん見受けられた。一体私の何が誇らしくて、暗い内から待ち続けている日本食口の間を葵の御紋よろしく紋章を付けてどうどうと入れるのだろうか。私はその会場への道はただ苦しいだけの道だった。またしても私は日本食口に対して大きな負債を抱えてしまった。そうなると、ただ私の体の不調と痛みだけが御父様と同参できる条件であり、この痛み、この苦痛、この不快さだけが私の誇りだと思えて痛みゆえにありがたかった。御父様が日本食口を愛される意味を、無言の視線を受け取る肌で感じていた。

今日の想い 456

宿泊所でも何か浮いた気分が漂っていて、弔いに駆け付けた者達だとはとても思えなかった。懐かしく出会った食口もいるのだろう、あちこちで談笑の花が咲いていて、何の遠慮もなく高笑いがこだましていた。久しぶりに会えばお互いの状況も知りたいだろうが、感情に流されるまま行動して何の負債も覚えないのだろうか。まだ何もわからない赤子が、母親が死んだことも分からずに弔問客に愛想を振りまいていると言えば涙を誘うシーンだが、それ相応の年恰好で未だに赤子かと言う事になると、溜息しか漏れない。御父様が聖和されたことの現実もその意味も、誰も噛み締めてはいないようだし祈り求めて探っているようでもない。お互いの様子を語らう合間に少しだけ話に上ると、口ではこれから大変だ、これから困難な状況が待っていると言いながら、皆の内なる気分は、これからも私と私の周りは何も変わらず、変わらない毎日の生活の繰り返しが待っているだけだという気分で落ち着き払っている。勿論私もその要素を持っていて、ついつい声をかけるし話せば笑顔だって見せてしまう。しかし私のアボニムが亡くなられて駆け付けてきたのに、浮いた感情に任せてしまうのは、御父様との因縁を考えたとき一番危険な状態だと思っている。自分の中の何が罪であり、何を失い、どう復帰したらいいのか、皆それぞれが真剣に求めてきたはずだろうに、自分の内面のことを何ひとつ分かってはいないようだ。私の内面の魂は、御父様に繋がっているその接点では嘆き悲しんでいる。その接点の魂の叫びは、表面的な私に薄められ、埋められ、見えないようにされている。その見えないようにしているのが私に働くサタンだけれども、それも思ってはいない。少しでも霊に目覚めて感情がその接点に近い者であれば、御父様を失った魂の慟哭の想いを感情が受け取って、自分でも訳も分からず涙するだろう。

今日の想い 455

手術は腹腔鏡手術だったので、体への負担は少なかったけれども、それでも腹の中をいじられ、切り取られたのであればそれなりのストレスは溜まっていたのだろう。訪韓の数日前から赤い発疹が足首や手首に現れ始めてたいそう痛痒く、その部位に留まらずに次第に全身に広がっていった。痒みと痛み、そして熱を伴った発疹が、まるで生きているかのように全身を移動していく。気色悪い言い方だが、皮膚の下に小さな蛆虫が湧いて蠢(うごめ)き、群れをなして移動していると言った表現が当たっている。発疹は耳や首の後ろの方にまで広がって赤く腫れていたが、幸いにも顔だけは護られていて、赤ら顔程度で済んでいたので聖和式に臨むことはできた。まだ少し傷口も痛いし体もだるい。更に移動のバスが私には随分寒くて風邪を引いてしまい、熱っぽい状態のままだったがスケジュールだけは何とかこなした。私は何を悟るべきで何をすべきか。体調がこんな状態だと思いは嫌でもそこに向かう。他でもない御父様の最後の時に合わせる様に手術を受け、副作用的に合併症状を負わされるのも、何かの意味があってのことだろうがそれを悟れないのであればただの苦痛以外のなにものでもない。しかし私に気付きを与えたのも、また悔い改めの深みに導いたのも、やはり日本の食口の状況を目にし、耳にしたからだった。妻は私以上に行ける状態だとは思えなかった。強度の貧血で人には分からないようななだらかなスロープでさえも、足を進めるのは大変だし、普通に歩いても赤子が歩くよりのろい。腎臓で作られる疲労物質を除去するホルモンが不足していて少しの動きで寝込んでしまう。移動も大変だろうし、行って人でゴッタ返すウネリに呑まれて死を見るかも知れないとも思ったが、本人が行きたいというのに駄目だとはどうしても言えなかった。今回行かなかったら後悔すると思ったのだろう。いろんな状況だけは説明して、それでも行くというので私も腹を決めた。疫病神に憑かれた夫婦の聖和行脚が、本当に精誠に数えられるのかどうかも、出発の折には分からなかった。

2012年9月9日日曜日

今日の想い 454

今は、みんな聖和式を迎えることに意識を使っていて、それでいっぱいだろう。ひとしきり悲しみもして、ひとしきり回想もして、そして御父様に感謝も捧げただろう。しかし、、、聖和式を超えても、これからも明日という未来へ向かう挑戦への扉は嫌でも開き続ける。聖和式を終えてみ旨が為される訳でもないし、ひと区切りつく訳でもない。御父様は基元節を目の前にされて、基元節を見ずに霊界の御父様となられた。これから、地上の御父様という実体からの直接指示を仰ぐことなく、私達はどう基元節を迎え、どうみ旨という責任分担を抱えて行ったらいいのか。折りしも、内紛を抱えた状態で、御父母様を中心として全食口がひとつになっていたとはとても言えないだろう。実体の御父様不在であれば、彼らが帰って来て許される道も閉ざされ、普通に考えれば益々その両袂は分かれていかざるを得ない。しかし、それでもみ旨を進める為にはひとつにならざるを得ないとなると、霊的な御父様はどう戦略を立てていかれるだろうか。最後の大戦に巻き込まれ、北朝イスラエルをアッシリアの手に渡してあっさり滅ぼされ、南朝ユダを立てられるだろうか。それとも、地球の大変動に合わせて、御母様を中心とした青銅の蛇を掲げる群れをバックアップされる形で、み旨は大前進するだろうか。或いは様々な状況が入り混じってその混乱の中に一旦は投げ入れられるのかもわからない。火種は世界のあちこちに燻っていて、いつ何処で炎が燃え上がるかわからない。特に中東情勢は戦争突入も時間の問題で日中情勢の比ではない。そして図らずもこの9月に入って、大地は地球規模的大変革の予兆を感じさせている。かつてノアの時代に大陸が消え去って大移動が起こったように、太平洋のプレートが隆起して北米のプレートが逆に沈下するかも知れない。アメリカも含めて国の規模で地盤沈下が起こってくる。平和の主人、血統の主人のみ言葉にあるように、太平洋プレートが隆起すれば、北からハワイ諸島に連なる海底山脈は隆起して、その龍の背を見せるだろう。地球がどう生まれ変わるとしても、私達は肉体として生き延びることが問題ではない。何処にいてどうなろうがそれが問題でもない。御父様が全てを犠牲にされてみ旨に献身されたように、私達はこれからも死生決断で御母様を立て、御母様に従い、残された御父様の宿願を全うするのみだ。聖和式が名前を変えた葬式にならないように、御父様の意志を如何に受け継ぐのかを真剣に模索するときに、聖和式で内的霊的な御父様との出会いがあるだろうし、聖和式が私自身の新たな正しい出発となる。

2012年9月8日土曜日

さくらの花よ泣きなさい

日本人として御父様を送るとすれば、やはり桜にちなんだ歌だろう。
どの桜を歌った歌も、日本の優しさがあり、従順さがあり、素直さがあり、そして潔さが表現されていて、御父様が愛した、この日本の精神を失うまいと思う。

数ある桜の歌の中で、私が選ぶとすればこの歌です。
御父様に御捧げします。




今日の想い 453

地上という感覚世界の状況は、私という主体がいて対象物、対象の事柄を把握するようになっている。私という唯一の視点から眺めて把握している。しかし霊界という心情世界の状況は感覚世界とは反転しており、私は主体ではなくて対象存在であり、地上では私の内面世界であったものが霊界という外界に広がり、神様の様々な視点や観点から眺めている。そしてその視点は、大きく組み分けすると12の視点から眺めている。だから内的霊的な事柄に関しては、同じ事柄でも別の視点から見れば別の姿を現す。12の視点から眺めたものを総合的に判断して、その霊的事柄を把握するのが真実に近い。み言葉が以前語られたものと、そして後に語られたものが異なっていて矛盾を覚えるとしても、それはおそらく別の側面から語られているのではないかと考える方が正しい。私という一つの視点から理解して把握したものと異なると否定するのは、霊的に見れば大きな判断ミスに繋がる。実際、神様も宇宙も人の視点観点を基準にして動いているのではない。誰かが一定の視点観点に固執してしまうと、宇宙の摂理がこの間に先に進展してしまい、進化から取り残されることになる。御父様は聖和されても、御父様が偏在される宇宙は止まらず、御父様のみ旨への意志に貫かれてますますその進化を増していくだろう。み言葉を私という唯一の視点からだけ理解していると言ってそこに留まったままでいると、宇宙(御父様)に取り残されていき、宇宙(御父様)と共に進化し続ける真の食口達と相反するようになるだろう。進化する宇宙は明らかに進化する者達の側に立っている。グループの者達の、その頭脳明晰さ故の落とし穴に嵌ってしまったのを見ると、御父様もみ言葉も霊的な位置であり内容であるのに、私の判断という一つの視点観点からのみを宛がえていて、12の視点を完全に無視してしまっている。彼らには、御父様の全体像も、霊界状況も正しく把握できず、ますます宇宙の進化からは取り残されていく運命にある。

2012年9月7日金曜日

今日の想い 452

霊界は地上的な時間感覚を超えている。WTのネットで御父様の生涯の御様子をフォトで綴っていたが、敢えて御写真を手繰らなくても、若かりし頃の御父様も、御歳を召されてからの御父様も、いろんな時のいろんな御父様が御名前の如く鮮明に蘇ってくる。御父様の表情もさることながら、それ以上に御父様の声が、耳に残っていると言うより腹の底から湧き出してくる。御世辞にも耳に優しい御声とは言えないが、ささくれ立って血の滲んだ、しゃがれてかすんだその御声は独特で、誰に似てるとも言えないし何にも譬えることはできない。しかしこの響きにこそ、御父様が御自身も御家庭も犠牲にされて公的生涯に殉ぜられた、その血と汗と涙の全てが刻まれている。痛々しい御心情が刻まれている。刻まれたものが余りに多く余りに重くて、御声の響きを受け止めるにも人を選ぶし、責任と覚悟を迫られる。私達は御父様の息子娘でありたいと思うなら、この響きの重たい波長に同調しなければ、その資格はないだろう。御父様は聖和されて、地上的な存在の形を持たない御父様になられた。それは地上的な時間と空間を超越された存在になられたと言うことだ。そしてその意味は、全ての時間と全ての空間、全ての存在に偏在される御父様だ。吹く風にも、流れる水にも、そして小さい石ころから岩という岩にも、御父様は偏在される。大気にも、浮かぶ雲や轟く雷や落ちる雨にも、そして大きくは地球にも太陽にも、勿論天宙に亘って御父様は偏在される。そのように外界に偏在される御父様がおられ、そして私の魂の中心の奥に、内在される御父様がおられる。内在される御父様は、やはりしゃがれてかすんだその御声で、私の魂を突き破るほどに叫び続けられる。御父様が聖和された今、私は私に内在される御父様から距離を置くことなど到底出来なくなってしまった。サタンに首根っこを捕まえられていた私は、今御父様に捕まえらるという一大変革が起こっている。

2012年9月6日木曜日

今日の想い 451

あまりにも突然だった。TIMESのネットニュースの情報を妻から知らされたとき、まさか、と言う言葉しか浮かんでこなかった。シカゴでライブ説教をされる御子女様の、私達への祈りと精誠のお願いを聞いたばかりだった。手術で入院していたので店の買い物やら準備やら掃除やら忙しく、一通り仕事を終えて、手伝ってくれた娘や妻に店に残った材料で昼飯を作って食べさせていた、時間的には丁度その頃だったはずだ。御父様は随分と寿司がお好きで、下手な料理の腕を緊張で震わせながら握ったことが何度もあって、娘と妻が美味しそうに食べているのを見ながらそんなことを思い出していた。トロにサーモン、エビにヒラマサ、そしてウニやイクラも、、。御歳を召されてから脂濃いトロは避けられ始めたが、上品な御母様の食べ方と比べて、いつもお寿司だけは豪快に口に運ばれていた。次々と御付の方達の要求に応えるために、なかなか御食事されておられるところをじっくりと拝見するわけにはいかなかったが、食器の下がり方を見るとそんな御父様の様子が窺えた。御要請がある毎に、何をお出ししようか死ぬほど悩んだが、やはりいつもお寿司だけは抜くことはできなかった。娘と妻に握って出しながら、先ず御父様に作って差し上げるべきだろうと思ったが、思ったのではなく思わされたに違いない。私と御父様の地上の接点は、私に声をかけられたことでも御小遣いを戴いたことでもなく、やはりお寿司だ。お寿司を介して地上での御父様と地上での私は繋がれていた。だから今御父様のことを回想するとき、その思い出は赤や黄色や橙の寿司の色鮮やかさに染まっている。私の中ではその色鮮やかさがいつまでも褪(あ)せずにいて、とても御父様が召されたとは思えないでいる。その色鮮やかさが活きていて、暖かい色は優しく声をかけて頂いた御父様の笑顔を呼び起こし、赤い色はドジをして気分を害され、視線を私から逸らせた横顔を呼び起こし、そして黄色い色は、御父様の後ろからメニューの説明をしたとき、座って背を丸めて拙い私の説明を聞かれる御父様の後姿を呼び起こす。そのとき、御父様は御歳を召されて随分小さくなられたという印象が拭えなかった。いろんな情景が今そこにあるかのように寿司の色合いと共に思い出される。店舗で実績が出ずに魚の部署に飛ばされたけれども、アメリカに来たものの上司と折り合いが悪くて寿司を握る羽目になったけれども、どう言う訳か御父様との地上的縁は流れて行き着いたお寿司だった。私が地上にいて、この店にいる限りは、祭壇の御父様に御寿司を握って差し上げる。

2012年9月4日火曜日

今日の想い 450

お祈りしないとと思い、夜中十二時を超えて、DCの教会へ向かった。家の外に出ると、生温かい大気が包み、気まぐれの雨が時折顔に落ちてくる。高速から下りてDCの街中に入っても、一向に生気を帯びた景色には出会えない。対向車のヘッドライトも、真っ直ぐに列を作る信号の明かりも、ショップから漏れる光も、光でありながら暗い印象を与えるものでしかない。街ゆく人は皆うつむいて歩いている。教会に着いたが裏の駐車場へは門が閉ざされていて入れそうもない。周辺を二、三度回りながら、やっと停められるスペースを見つけて入り込んだ。暗い裏道を回り込んで、教会の裏門に着く。鍵がかかっているようなので電話した。暫く待つと鍵を持った姉妹が現れた。軽く挨拶して礼拝堂に向かった。誰もいなかった。御父様の大きな御写真と御父母様御二人の御写真が前方に配置されていて、数列の椅子が並べられていた。いつも所狭しと身を寄せている兄弟達の肩越しに見ていた御父様なのに、固まった笑顔で動かない御父様を前にした今、周りには誰もいない。方々で音がするので誰かが作業でもしているのかと思ったが、あちこちにいろんな容器が置かれていて、礼拝堂の高い天上から落ちる雨漏りが打つ音だとわかったのは暫くしてからだった。それでも誰も居ず物音ひとつしない空間よりはましだった。靴を脱ぎ、御父母様に啓拝を捧げて頭を垂れた。祈ろうとしても何の言葉もでない。寂しいからでもない、申し訳のなさからでもない、何なのかわからない涙が嗚咽と共に流れるだけだった。正直、途方にくれていた。

2012年9月3日月曜日

、、、

肉体を持たれた御父様、ありがとうございました。
そして、、、本当に申し訳ありませんでした。

2012年9月2日日曜日

今日の想い 449

太陽があり、水星があって、金星があって、そして月があって地球がある。地球は母なる地球であり宇宙体の胎だ。宇宙広しと言えども、人間はこの地球でこそ産まれ、存在し、そして繁殖する。よって霊界に存在する全ての霊人の繁殖も、霊界ではなく地上でこそ為される。地球が母であれば父は太陽神としての太陽だ。人類が堕落したという意味は宇宙の胎の中で正しく成長できないということ。本来なら地球の胎を抜け出れば、すなわち死を持って霊界への産道を潜り抜ければ新たな生命宇宙体として天空に輝く煌く恒星として、それは生命宇宙体の象徴的なものとして地上の目に写るものだが、別様の時間と空間を創造して別様の宇宙として存在する。しかし堕落の血統のままで死の門を潜るなら、恒星になれないまま死産とならざるを得ない。宇宙の胎の中で正しく成長できる為に、先ず胎を穢れのないものとし、太陽神の正しい精子を戴いて、太陽神と新生地球との結婚が執り行われてこそ、私達は本来の祝福に預かることができる。その宇宙秘儀、天宙儀式が御父母様の体をして執り行われる。御父様はメルキゼデクという人物の話を重要人物として訓読会の中で触れられたことがある。サレムの王(祭司王)メルキゼデクは、アブラハムをパンとぶどう酒とを持って祝福した。実はこの瞬間こそがアブラハムが太陽神の秘儀を受け取り、外へのみ向けられていた神を霊視しようとする能力を、己の内に向け内なる神意識を出発させた最初の人物となった。アブラハムを出発点とするユダヤ民族の道は、アブラハムが内なる神として宿した太陽神が、自分の失ったものを取り戻す為に、もと来た道を取って返す道だ。もと来た道は月に帰り、地球の後に太陽から地球に向けて渡し橋として出された金星をへて、そして水星をへて、そして太陽に帰る道。月に帰る道はモーセと引き継がれたヨシュアの道であったし、金星への道はダビデ王の道であったし、そして水星をへて太陽に帰り太陽神としての精子を受け取る道。御父様が口にされた、古い民話の月よ、月よ、と言うのは、御父様御自信の懐かしさと同時に、太陽神の失ったもののひとつを月に帰ることで受け取る歌でもある。御父様は月に帰られ、金星に拠られて王冠を受け取り、いまバビロン捕囚をもって水星に拠られて神の秘儀を受け取られ、そして基元節で神様の精子を受け取られる。

今日の想い 448

愛する妻や夫、愛する子供のひとりでも、病や事故で生死に関わる状態になった経験でもあれば、胸をえぐられるいろんな想いが押し寄せて、混乱して、まともに呼吸できる自分を取り戻すのさえも困難を来たすのを体験する。その体験もない不信仰な者達が暇に任せて御付への疑惑を詮索し、ああだこうだと言い募る。それは明らかに御父様や御家庭の気持ちの一欠けらも察することができず、自分なりの判断をする何の条件も基台もない傲慢な位置で、十字架上のイエス様に降りて来いと、周りの女達に降ろしてみろと、口々に言い合っているのに等しい。妻が手術を受けるとき、私はドクターに全てを託し、ドクターの判断を信じ、信じた自分を信じ、成功することをひたすら信じて見守っていた。その都度起こるいろんな事態に一瞬は混乱するとしても、私が信じることを止めたらその時点で妻の未来はないと言うことになる。御母様や御子女様、まわりの世話されておられる方々も同じはずだ。信じることを止めたら御父様の御復帰はないと思っておられるはずだ。その状態で、誰彼の申し出に不信を抱くとか判断がおかしいとかの余念を抱く余地などさらさらない。その切迫した状況も知らずに、裾野の遠い位置から見えもしない頂上をああだこうだというその気が知れない。狂っているとさえ思う。御父様を御父様と思うなら、先ず飛んで行きたい気持ちが自分の中にあるかどうかだ。それもないのに、御父様と口にはしながら、なんとその心情の距離がかけ離れていることか。幾星相の心情の距離を置きながら、その方を御父様と口にするのさえおこがましい。御父様を知らないほうがその人のためには良かったと、私はそう忠告したい。息さえもままならない御母様であり、御子女さまであり、そして勿論御近くで侍られる先生方もそうだ。食口達に変な動揺を覚えさせず、御父様と慕う祝福家庭の教会としての柱が揺らがぬようにとの判断が最初にはあったはずだが、食口達を信じて現状をはっきりと伝えられ、その上で、確信を備えた精誠を望まれたはずだ。御回復される為の祈りも、楽観的なものと確信的なものとは全く異なる。楽観的なものは何の心情の配慮もないが、確信的なものは、心配もし最悪も見せられ、心も削り胸さえもえぐって、それを乗り越えて敢えて御復帰の確信を抱いてこそ祈りであり精誠となる。私達は祈りも精誠も確信的なものとならなければならない。

2012年9月1日土曜日

今日の想い 447

御父様は寝ても意識を持たれて活動されることを、私は信じている。外界を対象とする地上的意識とは別物であるとしても、明らかな霊的意識を備えて、御体を休めておられる時も活動しておられる。だからたとえ麻酔で御体は眠っておられるとしても、やはり霊的意識は更に冴えて、この期間を活動しておられるはずだ。御父様がいつどのような状況、状態であられても、人間的な知情意では計り知れない、そのような見地では意表を突かれるような活動をされておられる。霊的意識を持たれているという意味は、霊的意志を働かせておられるという意味でもある。その御父様の霊的意志は天宙を動かそうとされる意志であり、世界動向に働きかけられる意志であり、勿論私達食口全体に働きかけられる意志でもある。ユダヤ民族が辿った道のりは目隠しされた神様が地上に運び込まれて、自分の失ったものを再び取り戻すために来た道を取って返す道でもあった。御父様はマタイ伝を新約の創世記と話されたことがあった。第一章の長々としたキリスト誕生までの系譜は地球が誕生して人類始祖が現れるまでの逆の経路を辿る逆創世記だとも言える。だからわざわざ系図を、アブラハムの子はイサク、その子はヤコブ、とはせずに、アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、と言うふうに逆向きに捉えられるように記されている。アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン捕囚までが14代、バビロン捕囚からキリストまでが14代、計42代を通過してメシヤを迎えたわけだけれども、御父様が言われるように、奇数が主体で次の偶数が対象であれば14代は七数であり、七数七数七数の蘇生長成完成を経てメシヤを迎えたことになる。そしてイエス様御自信もユダヤ民族がダビデ王を通過したように王を経て、弟子達の信仰が足りなければバビロン捕囚を通過したように何らかの捕囚状態を経て、それから神様と完全一体される位置に上り詰められるはずであった。、、と言うのが私の一つの独断的見解だ。御父様が万王の王という言葉を使われるとき、私はどうしてもサウル、ダビデ、ソロモンの王国時代を意識されて使われているといつも思わされた。そうなると帰結の前に我々の精誠が足りなければ捕囚を通過しなければならないことになるが、そこまで私が勘ぐることは罪を犯す領域に入ることになるだろう。しかし私は、他がどう判断しようとも、御父様は意志して今の状態を通過されておられると確信している。そして必ず御健康を取り戻され、基元節をその御実体をもって迎えられると確信している。

今日の想い 446

昼過ぎから腹の苦りが少し気になっていたが、差ほど気にはしなかった。しかし夕方家に帰って腰を下ろすと、急激な腹痛が襲ってきて、時間を経るごとに痛みは増してくる。激しい痛みに呼吸も儘ならず、全身から汗が吹き出る。ただ事ではない体の異変に、娘に至急911に連絡させた。その間痛みが治まってきたらどう返答しようかとも思ったが、そんな心配はどうでもいいほど痛みは更に激しさを増していった。程なくけたたましいサイレンが近付いてきて、音が止んでドアのチャイムが鳴った。娘が駆け寄ってドアを開けると、5,6人の男が作業靴を履いたまま押し入ってきた。痛みに蹲っている私に対して、こんな時でさえもHow are you?と笑顔で声をかけるところがアメリカらしい。声も出ない私に代わって娘が返答をし、担架に乗せられてエマージェンシーに運び込まれた。英語の達者な娘が手続きを済ませてくれ体の状態を説明すると間もなく、点滴に痛み止めの薬だと思うが流し込められ、目が途端に回り始め、そしてそのまま目の回る渦に巻き込まれて眠りの深みに落ちていった。御父様が大変なこの時に、その大変さの程度は天と地との違いはあるものの、同じように病室に臥せっていることが不思議だった。一日置いて手術することになったのだが、私はこの流れで何処までも御父様と同じ状況にあることを願うのかどうかを尋ねられた。ひょっとしたら麻酔をかけられて、そのまま目覚めることはないのかも知れないと思った。はっきり言って、最悪の場合までも請い願う私ではなかった。しかし御意であればどうなってもかまわないとは思えた。麻酔をかけられる前、準備はどうかと聞かれたドクターに対して、好きなようにして下さいと伝えておそらくドクターは冗談と受け取っただろうが、私は天に対して申し沿えた言葉だった。それが御父様を慕い侍る圏内にあるのかどうか、今の自分にはわからない。今の自分にはわからないが、それはどうでもいいことだ。何よりも御父様の御復帰を願うことの方が大切だ。手術を終えて麻酔から覚めたとき、何故か私は御父様が奇跡的に復帰されることを確信していた。そして皆の確信的信仰こそが現実化することをどうしても伝えたいと思った。ひょっとしたらという一ミリの疑念も抱くことなく、御復帰を確信することだ。