2013年8月13日火曜日

祈りという姿勢、態度

祈りとは、人間の最も能動的な姿勢だ。最も創造的な姿勢だ。祈りと思考、祈りと行動、祈りと感情、そして祈りと生活。それぞれの関係性は時間を隔てた原因と結果の関係ではなくて、祈りの姿勢で思考し、祈りの姿勢で行動し、祈りの姿勢で感情し、そして祈りの姿勢で生活する。そうすると思考が祈りであり、行動や感情が祈りであり、生活自体も祈りだ。祈りの姿勢で生に臨むのであり、祈りの姿勢で死に臨む。そうすると地上の生を越えた真の生命として生きるのであり、地上の死を越えた昇華を担うようになる。受動的な姿勢でいる限りは、新たな創造も再創造も為されない。心魂の活動や生活そのものを創造的にする為には祈りの姿勢を備える必要がある。しかし人は、祈りがわからない。祈りの概念が備わっていない。信仰者を自任する者は祈りの形だけは取り入れているけれども、それは本当の祈りではない。人が霊的無知に陥っているように、祈りという神霊との対話に関しても霊的無知だ。祈る境地で対話に至ってもいないし、神霊への呼びかけに至ってもいないし、祈りのステージにすら立ってもいない。祈るステージに立つ内的態度さえわからない。原理への論理的理解から信仰に入った食口の課題は、唯物的思考や唯物的姿勢や態度に留まったまま信仰生活(もどき)をしているものだから、内的霊的な成長体験にかける。本来は生活自体が内的霊的成長体験そのものだ。要するに祈りがわかっていない。祈りの力が備わっていない。どれだけ信仰生活を長く続けていても、未だに神様や霊界を実感的に体得できずに、抽象的であり非現実的な観念と妄想生活から離れられない。集められた私達が御父様に対して申し訳ないのは、実績云々以前に、堕落的であり唯物的であってみ言葉に噛み合わず、祈りの姿勢でみ言葉の本質を受け取るに至っていないことが申し訳ない。

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