2013年8月14日水曜日

今日の想い 602

死が地上の生の対極にある限り、死は死でしかない。生まれ来る不思議と死に逝く不思議。毎日産まれ来る生命があり、毎日死に逝く生命がある。それは等しく、毎日生まれくる細胞があって、そして毎日死に逝く細胞がある私の身体で起こることと同じだ。古い細胞が新しい細胞に取って代わらない限り、私の身体は生を維持できない。そうなると細胞は使い捨てられて終わりかと問うてしまう。役を終えた細胞の生命は新しい細胞に引き継がれる。私の生命は次の世代へと引き継がれる。引き継がれるのであって生命が途切れる訳ではない。私の心魂という精神的存在も次なる使命者に引き継がれる。御父様は血統の重要性を語られている。血統はその血縁的引き継ぎだけを言われた言葉ではなく、内的霊的血統をも考慮に入れなければ、敢えて言えば内的霊的血統として理解するのでなければ、み言葉の辻褄が合わなくなってくる。親子を考えた場合、親から子へ、体質であるとか身体的特徴であるとか血縁的に引き継いだ部分もあるけれども、しかし子の内的霊的な特徴は親にもなく、時には親と対極的な内的様相を備えている場合もあって、それは不思議と祝福家庭にその要素が強いのだが、その場合、内的霊的な特徴はどこから引き継いだのかという問いが出てくる。この疑問にこそ論理的科学的に取り組むべきであって、血縁血統は重要視しながらその流れからは見出せない内的霊的なものを子や孫が担っている事実があり、その現実をぼんやりと眺めているだけでは血統の本質的意味は理解できない。祝福家庭は御父様の血統圏ではあるけれども、血縁的血統とは異なる。遺伝子という外的素養を受け継いだのではなく、心情という内的素養を受け継いだ内的霊的血統圏だ。御父様の血統圏を血縁だけに拘るのであれば、祝福重生による血統転換は絵に描いた餅になってしまう。イエス様には二つの血統がある。マタイ伝に記されている44代のソロモン系の血統と、ルカ伝に記されている77代のナタン系の血統だ。(二人のイエス様と御父様 2012,12,07参照) ソロモン系の血統は血縁的血統であり、ナタン系の血統は内的霊的血統だ。心情の引継ぎが血縁的血統を越えてどうバトンタッチされるのかは定かではないにしても、それぞれの宗教の時代時代を引き継いできた影響圏も、血縁的血統ではなく内的霊的血統が流れている。ミクロコスモスが人間であるように、マクロコスモスも一人の人間様相で活動している。私は自体自覚の位置では死は死でしかないが、他体自覚に立つ、すなわちマクロコスモス人間意識が持てるなら死は昇華であり、新しい意識を持ったマクロコスモス(包括的)人間の誕生だ。血縁的血統が私という地上存在たらしめ、生きる上で多大な影響をもたらすように、内的霊的血統が霊的存在たらしめ、霊界を生きる多大な影響をもたらす。自体自覚という、意識が個に留まる限り、死は死でしかない。

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