2013年8月25日日曜日

今日の想い 605-2

人間は明日を待っている。来る日も来る日も明日を待ち続ける。今日という日に為せないことを明日に引き延ばせると思って今日を生きる。そうやって来る日も来る日も明日の日を当てにして生き続ければ、今日という日に為すと決意する私の意志は固まらない。御父様からの指示命令を受けながら明日という日を当てにし続けて為せなかったように、延長7年だと御母様から言われても、同じように明日という日を当てにし続ければ結果は同じことだろう。私達は、少なくとも私自身は、私達自身が変わらなければ結果は明らかなことを薄々感じている。それを信仰とする信仰まがいの蓋で覆ってしまって見ようとせず、恐れも知らず願われる結果を差出しますと口にする。口にしながらできない感情、やらない意志が内蓋に覆われて煮え滾っている。どうすれば結果を残せるか。そう考えるのは明日を期待し、明日を待ち、明日に引き延ばそうとするやらない意志以外の何物でもないだろう。堕落人間にとって明日があるという認識は、神様にとっての希望ではなく神様に取っての怨讐なのかも知れない。堕落した位置から本然の位置に引き上げられた祝福家庭にとっては、明日があるという認識は怨讐に違いない。今日というこの日しか残っていなければ、無我夢中でやるであろう責務を、明日という日が半永久的に続くと期待して薄い一日を送り続ける。けれども事実は、今日と明日とは文明に異なる。明日を期待できない今日だとわかれば無我夢中にならざるを得なくなる。御父様が数理を把握され、それは時間的には年の意味を、月の意味を、日の意味を把握され、多くを宣布されたその日はその日でしか勝利宣布できなかったのであり、宣布によってはその日その時間、一分一秒にまでこだわって宣布されたものもある。「平和の主人、血統の主人」の冒頭に記されているように、私達は習慣性を中心として、今日も昨日の時間が延長したものだと思っている。明日への引き延ばしは今日という一日の霊的意味がわからない、習慣性というサタンに毒されている私達の習性だ。悠長に、どうしたら結果を残せるかと習慣性にはまったまま思うのではなく、明日に引き延ばせない今日やるべきこと、今日できることが確実にあり、それに精誠の限りを尽くすのみだ。今日を生き切ったと言えてこそ、御父様が全て為したと断言された中心に向かっている。

0 件のコメント: