2013年8月4日日曜日

今日の想い 601

書き続けるという意志を繋いでいるが、私に取って書き続けることは御父様への不断なる問いかけであり、理解したものを書くのではなく、ましてや私の中に備わったものとして書くのでもない。しかし書き続けるという不断なる問いかけを継続しながら、み言葉理解という思考に働きかけるものを受け取り、心情という情に働きかけるものを受け取り、更に生きることの熱、生活意志として意志衝動に働きかけるものをも受け取る。み言葉ではないから、書いたことが結論ではなくて、全ては仮定と言っていいかも知れない。仮定が立証されるまでは神様がとる言葉なのかサタンがとる言葉なのかはわからない。すべての言葉の背後に霊が存在する。言霊と言ってもいい。善は善をよび悪は悪をよぶ。真実は真実をよび偽りは偽りをよぶ。言葉も同じで、善なる言葉は更なる善なる言葉をよび、悪なる言葉は悪なる言葉をよぶ。仮定の言葉が真実として立証されるのは、その言葉がどんな言葉を呼び起こし引き付けるか、或いはその言葉が先々にどう影響を及ぼすかという、仮定は過程の流れの中で立証される。み言葉に絶対信仰で対してはいるが、み言葉がどういう実をもたらすかは時間的流れの中で立証されることになる。しかし今の教会の発展や私達の歩みがこの世の規範に照らしてどうなのか、周囲の目がどうなのかという、社会貢献、生活貢献の度合いで量っても、そこは多分にみ言葉を地上のみ旨に降ろす私達の理解度と私達の人格に拠っている。それを棚に上げたままでみ言葉の是非や御父様云々をあげつらうことはできない。私達はみ言葉という創造理想を形にする天使長であり天使の立場だ。だから私達は私達の後孫、地球の未来に実を見るのであって、私達自身が実を直接享受するのではなく、後孫を通し、地球の未来を通して享受するようになっている。私達が物心両面の直接の恵みを求めるとするなら、他体自覚に目覚めようとし、犠牲となり為に生きる真理に沿うて生きたということに果たしてなるだろうか。絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、創造理想への見返りなき投入だ。見返りなき投入でもってしか御父様についていくことはできない。

0 件のコメント: