2013年8月4日日曜日
モーセの死体をめぐる戦いがあり、イエスの死体をめぐる戦いがあるなら、御父様をめぐる戦いも当然ある。
創世の当時、天界の戦いが起こったように、アダムエバの所有、人類の所有に於いても神様につく群れと天使長ルーシェルにつく群れとの戦いが起こったのであり、それは今の今まで戦い続けている。そうして御父様の聖和を前後して、神様と一体となられた御父様に従う群れと、一人の子女様を担ぎあげ従う群れとが戦っている。内輪事情の内紛劇と捉え、創造理想を形にするのとは全く関係が無いとして早々に引いて解決すべきだと思っているなら、それは摂理がわかってはいない。これは内輪もめではなくて、御父様の聖和を、宗教家文鮮明の死と捉えるのか、或いは神様と一体となられた御父様の聖和と認めるのかの御父様の死体をめぐる戦いだ。死体を見るのか、聖和され霊的に生きて働きかける御父様を見るのかの分かれ目だ。彼らは先ず御父様の願いに従わなかったのであり、御父様とひとつになられた御母様との関係も断ち、さらにアベルとして立てられた子女様にも楯ついて、側近や責任者達の横領や悪行をあげつらい教会財産を取り上げるのは正当性があると言い事実そう行動しているが、それを御父様が認めない以上泥棒と何ら変わりない。御父様も知らない事情があって、それを踏まえて一歩を踏み出すべきだと彼らは言うが、御父様は神様と一体となられた位置であって知らない事実もあっただろうとは言えない。問題があるとしても全てをご存知の上でそのままにして置かれたと言える。側近の横領であれ暴かれるべき私達の罪であれ、全てを知っておられたのであり、知った上でその位置を与えられ、その位置を任されておられたと言う事だ。それを否定するなら神様との一体圏とは何を指すのだろうか。神様の属性である唯一、絶対、永遠、不変の相続であり、全知全能の相続でもある。見えないこと、知り得ないこともあって、それ故に振り回される人間的部分が本当になかったのかと問われても、神様一体圏の位置ではそう思えるように振舞われたとしか言いようが無い。もし聖和された御父様が、生きている間知り得ない人間的な部分もあったと告白されるのであれば、人事措置や指示号令にも間違いが為された部分もあるということを認められることになる。そうなるともはや手を付けられないほど混乱するだろうし、今までの摂理も否定されてしまう。しかしグループ派は明らかにその否定する立場であり、それは神様と一体となられた御父様を否定する立場でもある。ようするに彼らは御父様を宗教家文鮮明という人間と見ており、御父様の死体を見て聖和されたと口にはしても、聖和され人間の位相を超えられた御父様という認識に立っていない。御父様の死体認識をめぐる攻防戦をそこに見るべきだ。天正宮に横たわる御尊体を拝見させなかったのはそれ故であり、内輪もめで片付けられる問題であるなら実の息子に最後に会わせるくらいのことは当然だろう。しかしメディアに暴露され非難を浴びるとしても、そこはどうしても譲れなかったはずだ。
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