2013年8月23日金曜日

今日の想い 604

パソコンのスクリーンから一周年追慕式の様子が伝えられ、それに対していた。その向こう側のソファーに横になった妻は、顔をしかめて痛みに耐えていた。追慕式で見受ける御母様の表情と、向かいの妻の表情とは対照的だった。本当は妻の病状が心配で、落ち着いて追慕式に同参できるような私の状態ではなかったが、それでも体はスクリーンに向いていた。スクリーンに向いて固く腕を組んでいた。どうしていいかわからないとき、自分がいつも取る態度だ。固く腕を組んだまま動かず、口は堅く結ばれたままだ。病との闘い、痛みとの戦いに明け暮れる妻に対して、私は為すすべがない。その戦いの相手は私の手に負えない。病や痛みとの戦いに何の意味があるのかもわからなくなってきて、妻に対して声もかけられない。かといって先祖や神様に対して駆け寄り言い募れるわけでもない。それは彼女自身が意志することだ。体はパソコンに向いたまま、悶々としたものを抱えながら今日を終える。一部も二部も終ったスクリーンを、見るともなしに見続けながら今日を終える。このまま心配で寝付けない夜を、寝るともなしに横になって過ごす。塀のない監獄、鉄柵のない監獄に二人とも身を置いている。一年前、聖和式に二人で参加した。まだ妻はそれなりの動きは取れたが、80や90の老人にも覚束ないほど足腰も心臓も弱っていた。流れる人の波から彼女を庇いながら、何とか無事に帰ってこれて安堵した。一年が経った今、また透析が始まった。一年が経った今、それでも妻は生き続ける。鉄柵のない監獄生活を生き続ける。基本的に彼女は強い。頑なでもある。どんな状況でも押し黙って耐え、憂いて涙を流すこともない。私なら泣き喚きもし、どうしてこんな目にあわされるのか、納得するまで神様に談判する。問い続けて神様を離さない。しかし彼女にそれはない。どうしてこうなったかの外的要因を問うだけであり、どうしたら良くなるのか機械的な判断に任せるのみで内的に深く問うことはしない。機械的唯物観に留まったままで、霊への不通(プトン)を見抜けないでいる。先ほどまでスクリーンを通して見えていた、御母様の表情に見るみ旨に対する願いがある。その一方で痛みに歪む妻の表情があって、私は現実の奈落の底に対している。天国と地獄の両方が私の手の届くところにある。

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