2013年8月27日火曜日

今日の想い 607

体は痩せ細っていながら、顔と足だけは膨れていた妻だったが、それが浮腫(むく)みの為だったことを再度確認させられた。最近また透析が始まり、浮腫みが引いた足は以前の半分になった。半分になった彼女の骨々しい足を揉みながら、元気で若々しかった頃の彼女の姿を思いだそうとしても、どうしても思い出せなくてうろたえた。ノースカロライナの小さな町で家庭を出発した頃の妻、食口達が日本に引き揚げて店を営業する為に二人で走り回っていた頃の妻、子供が生まれて育児に忙しかった頃の妻。思い出せない。映像としては脳裏に浮かぶものはあるけれども、その時の実感情をありありと再現できない。肉体は生きていても、感情の深み、心情として植え付けるほどの深みに刻む心情生活を送っていなかった。どうしても離れず、胸の内に焼き付いている感情は、妻が病気になった頃からのものだ。人間は痛み苦しみについてはその感情をしっかりと心魂に刻んでいる。しかし歓び楽しみについてはなおざりで、心魂に刻むほどの特別の感情として味わってはいないらしい。だからどうしても人生を振り返った時に、辛く苦しい人生だという印象の方が強い。日々の些細な出来事や出会いは、自分が気付かないだけで、実は心魂に刻みつけるべきほどの歓び楽しみに満ちているのだろう。確かに子供が生死を彷徨うほどの熱を出した時、いくらか回復して一匙流入食を口にしてくれた、あの些細な出来事に思いだせる喜びの感情は強烈だ。私の人生が光輝き、恍惚とも言えるほどの歓びの感情の数々、受け取る心情の数々を霊人体の霊的感性、霊的骨肉にして霊界生活を送るのだろう。妻の痛みが、骨肉を削る犠牲が、夫としての深い気付きを、さらに家庭としての気付きを与えてくれたのであり、些細な出来事から奇跡と思えるほどの歓びや楽しみの感情を引き出してくれる。妻も元気で不自由のなかった頃が、実は心魂生活としては最も不自由だったのかもしれない。霊的心情的感性の不自由な存在だったから、思いだそうとしても見当たらないのだろう。それでも霊界に旅立つときには、全ての出来事を振り返る。今は見当たらずとも、心魂に刻まれた全ての出来事を振り返りながら、霊界に持ち込める心情を確認する。

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