2013年8月26日月曜日

今日の想い 606

絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、生殖器に対するものだというのが1999年の絶対信仰絶対愛絶対服従の核、そして二十節のみ言葉だ。この地上には男がいて女がいる。男は女を求め、女は男を求める。そうして男と女、求めるお互いを組み合わせようと思えばどのようにも組み合わせられる。一夫多妻でも多夫一妻でも好きなように組み合わせられる。一つの凸にただ一つの凹しか合うことは無いとするなら堕落は無かったのだろうが、一つの鍵で開けようと思えばどんな鍵でも開くというところに問題がある。一つの凸に一つの凹という天法を生涯守り続けることは、誘惑の多いこの地上では、時に至難の業だろう。それでも生殖器にどう対するかが中心の中心、核に違いない。わざわざ堕落できる環境に置かれたのがアダムとエバであり、人間の位置だ。生殖器の使用を誤れば霊的生命を失うとしても、一方で生命を凌駕する愛という課題があり、堕落できる環境があり、そして選択の自由がある。愛がどう実を結ぶかで偽りの愛と真実の愛に分けられ、それは環境要件と選択の自由に依る。この愛と環境と自由の関係性で人間は自分の存在領域、存在の在り様を決めている。愛を感覚的なもの、それを地上的なものと言い換えてもいいが、愛を感覚的なものだけに向かわせたのがサタンの業だ。よって堕落人間は愛の本質がわからない。愛という言葉はみ言葉の中で最も多く見出せる言葉の一つだろう。しかし愛という言葉をどれほど繰り返しても、感覚的愛という視点の周りをうろつくことしかできない。私達には不倫の関係を良しとしない感情が働いており、フリーセックスを良しとしない感情も働いている。しかしその感情は偽りの愛によるものではないにしても、やはり感覚的愛を足場にはしている。だから御父様の不倫ともフリーセックスとも思える行動が感情として理解できないでいる。真の愛の本質には未だ近付けないでいる。真の愛と偽りの愛の本質的な違いを受け取るには至っていない。神様御自身が絶対信仰、絶対愛、絶対服従を立てられた。その言葉の背後には絶対信仰に至る戦いと過程があり、絶対愛に至る戦いと過程があり、絶対服従に至る戦いと過程があって、勝利されたからこそその言葉の核となられたはずだ。勝利された夜の神様だからこそ昼の神様に創造の御業を預けられた。何でもありの様々な神話をどう読み解くかだが、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の核となるまでの神界の戦いだと私は読み解く。

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