2013年8月17日土曜日
第四次アダム心情圏時代 (1)
今に至って、食口たちはこの何の地上的見返りのない道をよくも選んだものだと思うかもしれない。そういう自分もその一人なのだが、、。無知は死の領域だけれども、無知なればこそこの道を選ぶことが出来た。そして歩む過程でその都度その都度摂理とみ旨への理解を少しづつ修正しながら今まで歩んできた。もし騙されるのなら死ぬまで騙され続けられる方が幸せだと思うかも知れないが、無知は何処までも死の領域なのであって、その価値がわからず悶々としたものを抱えたまま歩める時代は既に過ぎ去った。御父様が聖和され、基元節を超えて、基元節は摂理の完了とまで言われていたのだから、そこまでは信じて歩んでいこうと決意した者も多くいたはずで、そうなると基元節を超えてしまって、外的には何も変わり映えの無い今、さすがに今までのように盲目的ではいられなくなる。自分の内外の実情を秤にかけて比較もし、計算もして、これからの進路を考えようとするだろう。それは致し方の無いことだとは思うけれども、天の意志と、そういった私の生活意志という二つの柱があって、天の意志を主体に立て私の生活意志が天の意志に侍ってこそ生活意志はみ旨となり得る。そうあれば天の心情圏内だけれども、二つの柱が乖離して行き、終いには天の意志という柱を私の中から捨ててしまえば、それは離れて落ちていく70%の食口のひとりに数えられることになる。摂理を担うという誇り、み旨を成し遂げるという責任感が薄れて行くということは、私の生活意志がいつのまにか主体になり、天の意志が二の次になった、さらには、天の意志が薄らいで私から消えて行くことだ。御父様が私の中で生きて働いておられるか、或いは心情が心魂に根付かず成長を見ずに枯れたのか、そのどちらかを見極められる期間に私達は置かれている。御父様の子女なのかサタンの子女なのか、羊なのか山羊なのか、甘柿なのか渋柿なのか、第4次アダムとして立つのかどうなのか、それを今だからこそ見極められている。
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