2013年8月27日火曜日

今日の想い 608

時として、祈祷した後の自分に嫌悪感を覚える。心がすさんで不純な憤りや不満がくすぶり続けているのに、心にも無い乾いた言葉を繋ぐことで自分を誤魔化している。そのことに嫌悪感を覚える。胸糞が悪くなる。形だけはこうべを垂れて謙虚な言葉を口にする、数え切れない祈りの中で、どれだけ神様に通じるものがあっただろうか。いや、本当は己を偽る醜い言葉の羅列など、神様に届いて欲しくないし聞いて欲しくも無い。皆の前で公に祈祷する場合はどうしようもないけれども、嫌悪感を残す祈祷など祈ったことにはならず、それどころか現実の自分に対して更なる呪いを事実上かけている。或る日の日記では祈祷の重要性を訴え、そして今日はというと、どうせ祈祷にならない祈祷しか出来ないなら辞めてしまえと真逆なことを訴える。神様に向かい、神様とひとつになる対象の位置に立ちたい心情動機が祈祷に向かわせるなら、私は先ず偽りのない自分を用意しなければならない。私の中に燻ぶり続ける堕落の血に流れていたものが見受けられるなら、それ故に神様の想いが子への愛が直接に通じない、その苛立ちと腹立たしさを込めて悔いて改めなければ対象として神様の前には立てない。神様へ向かわせる祈りも、我知らずサタンと協議して己を貶める呪いも、同じこの表情でなし、同じ行動でなし、同じようにこうべを垂れて祈祷する態度でなしている。巧妙な蛇が気付かれないように血流の中で蛇行する。鳥肌が立つほどに蛇を忌み嫌うのは、それを見ることで私の中で蛇行する蛇を無意識にも自覚しているからだ。習慣的な生活に没したままで、祈祷できるほどの姿勢は正せない。習慣というサイクルに、リズムに、既に堕落的なものが流れている。天暦(陰暦)を中心とし、安侍日を中心とし、訓読時間を中心として天的なサイクルに、リズムに合わせられる自分を再創造しなければ、この世の生活圏と何ら変わりは無い。一方では絶対信仰絶対愛絶対服従の核と一つになろうとする報告祈祷と、今一方では天的サイクル、リズムパターンを生活圏として当て嵌めて、両方からの挟み撃ちではもはやサタンが介入できる隙間はなくなっていくはずだ。

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