2013年8月31日土曜日

今日の想い 612(結果性自己中心)

一度店に入れば、個人的頭、個人的心を預けて置いて、店の頭、店の心に置き変えなければ、店の為に働いているとは言えないだろう。マネージャーから言われるに応じて体はそれなりに動いていても、心ここにあらずではいつまでたっても店の戦力にはならず、皆の足を引っ張りかねない。マネージャーが意識すべきことは、如何に従業員に店の頭、店の心を持たせるかということで、そこに意識を集中させなければいつまでも従業員の尻拭いの為に朝から晩まで走り回ることになる。今まで何百という従業員が入っては出、出ては入りしてきたが、それらの従業員の中で最も店の頭、店の心を持ちにくいのが実は教会の食口だったと言うと、不思議がられるだろうか。店にとって彼らは一生懸命に体を動かそうとするけれども、マネージャーに対して何処かうち解けず、何処か他人行儀な面がある。他の従業員に対しても線を引いていて馴染めない。食口でも日本の食口しか雇ったことは無いし、二世も短期間しか雇ったことは無いので一概には言えないが、どうも観、それは大きくは人生観だが、生活観念であったり金銭観念であったり社会観念であったり仕事観念が固定化してしまって店の頭、店の心を準備するに至らない。み言葉が入っているのだから為に生きる姿勢が大切なのはわかっているのだろうが、体を動かすことのみに限られているようで店の為に、マネージャーの為に、他の従業員の為に心を痛めている様子は伺えない。そう言えば日本で歩んでいる時も、追求が激しく自分のことで精一杯なのか他の兄弟を思い遣ったり中心者の前に他の兄弟を弁護したり等といった様子はとんと見受けなかった。兄弟間には冷たく乾いた関係性しか見当たらなかった。ホームも初期の教会の様子と随分違って、愛の家というよりは収容所の趣きの印象が強い。米兵が戦地から国に帰ってきて一般生活に馴染めないトラウマを抱えている者が多いのを聞くが、こと日本食口に関しても長い戦時体制が続いて同じような副作用が心魂に残っているのかも知れない。おそらく私自身もそうなのだろうけれども、原理の人と非原理の人を分けている。分けるのは妥当かもしれないが分けて差別している。み言葉を受け入れ祝福されて祝福家庭となればアベル圏なのだろうが、知ってか知らずかカイン圏を否定的な目、差別的な目で見てしまって、カイン圏の中に入っても行かないし受け入れようともしない。そんな意識でカイン圏を懐柔できるとも思えないし、この世というカイン圏の中で頭角を現すこともできない。

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