2013年8月25日日曜日

今日の想い 605-1

どうすれば結果を残せるだろうか、と誰もが問うだろう。私達に対する御父様の願いに対して、どうすれば結果を残せるのかという問いを発することが自然の流れだと信じているが、本当にそうだろうか。私達は今の今まで断続することなく問い続けた。どうすれば結果を残せるのかと、、。しかし私達が認識する結果としての表象が、御父様の願う表象と本当に同じものなのかと問わなければならない。その前に先ず、どうすれば結果を残せるだろうかと問い続けた結果が、結局結果を残すことになっていないという事実を認めなければならないだろう。私達は第四アダムとして報告祈祷で神様と御父母様に対している。しかし、どうすれば結果を残せるかと問う姿勢は、報告祈祷する報告の材料にはならないことを先ず認めなければならない。出来ないと思えることを出来ると信じても、それは本当に信じたのではなく、出来ない責任を負わずに責任回避したに過ぎない場合が殆どだろう。結局本当の信仰とは、私達は何の疑いもなく神様の業を信じ霊界の協助を信じると言うけれども、神様も霊界もその認識が曖昧なままでは信仰も無責任も同義語になりかねないし、結局本当の信仰は自らを信じれるかどうかにかかっている。自らを信じれるかどうかが、私の中に働く神様を信じることであり霊界を信じることだろう。よって、どうすれば結果を残せるだろうかと問う姿勢は、結果のみが欲しいという自分よがりの動機が巧妙に隠されていて、そうであればそこから結果など湧き出るはずがない。御父様の願いは、それが氏族復帰180家庭のように数値で示されたものであったとしても、それは方向を指し示されたのであって、どうすれば180家庭という結果を残せるかと問えばどうしても結果に対する執着、すなわち自己中心的動機が関与する。自己中心的動機を排除して、為に生きる動機が徹底される為には、方向性は考えても結果は神様に任せるしかなく、結果がでないと憂うでも結果がでたと誇るでもなく、踏み出す一歩に精誠を込めて為に生きることができる私を追求するのみだ。全て為したと言い切られて聖和された御父様と、今の状態が全て為したことになるのかと疑問を挟む私達と、その違いはなんだろうか。勿論霊的な事実がわからないこともあるが、そう説明してもそれは意味をなさない。先にも触れた第四次アダムという認識、御父様の勝利圏を相続し、み旨を引き継ぐ者としての第四次アダム。第四次アダムである私達がみ旨を引き継ぐ以上、為し得ていないみ旨がそれぞれで残っているということだ。しかし引き継ぐみ旨が為されようが為されまいが、御父様の勝利圏は揺らぐことが無い。それが全て為したと断言される所以だろう。それでは私は御父様が断言されたように断言できる第四次アダムとして、どうなれば私の勝利圏は揺らぐことが無いと言える私になれるか。無責任や自分を慰める言葉としてではなく、確信的な言葉としてそう言える私になれるか。

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