2013年8月20日火曜日

一周年

地位や名誉や財産、そういった外的なものを求めてこの道を歩もうと決意した者は一人もいないだろう。しかし外的なものではなく内的な幸福感や喜び、精神的な欲望が満たされるはずだとこの道を歩み始めた者は多いはずだ。一人残らずそうかも知れない。しかし内的な犠牲がどこまでも続き、壮年期を越えて初老に入ってくるとさすがに、この内的犠牲を超えていくうちに幸福感や喜びに満たされるという期待も持てなくなってくる。持てなくて当然だ。内的な犠牲は何処までも続く。それは地上の生を終えるまで途絶えることはないだろう。御父様自身がどれほど内的犠牲を供え続けてこられたかを問えば、子である祝福家庭が内的犠牲を供え続けるのは父に従う者として当然だろう。聖和される直前となると、地上を離れれば犠牲を供えられないとばかりに更に犠牲を強められ、犠牲に拍車をかけられ、その凄惨を極める御父様の最後の生き様を私達は見届けた。人間は誰しも幸福を求める存在だけれども、地上的な幸福という概念を持つことを私達は許されない。私達が幸せになることが聖和された御父様の願いだと、そんな間抜けな地上的な認識をもつ食口は実におめでたい。そう本気で思えるとしたら本当にうらやましい。真の愛はそんなおめでたい立場とは全く関わりを持たない。真の愛は、これでもかこれでもかと自らに強いる内的犠牲への意志を差し出す者だけに関与する。今の時点では、真の愛と内的な幸福感や喜びとは一致しない。私の妻は、私の夫は、み旨のためにこんなにも悲惨な死に方をしましたと言えることが誇りであるとまで真の愛の御父様が言われたのに、それが内的な幸福感や喜びと言えるだろうか。それは悲惨な犠牲でしかない。もし統一食口が幸福感や喜びを受け取ることを許されるとすれば、それは地上の生を終える寸前だ。為に生きる戦い、犠牲を供える戦いを終えることを許されるその時こそ、霊的生に繋がるその時こそ、私達は安堵しながら、最後であって最高の幸福感や喜びを受け取るだろう。そうしてその至高の喜びのまま地上を離れて霊界への門をくぐって行く。御父様は聖和の門を開くために、死の瞬間までも犠牲を供え続ける意志を差し出された。私たちはその恩恵に預かって、死の瞬間は至高の喜びに包まれる。この世の者達は地上の生を謳歌するけれども、死が近付くにつれて死の恐怖が迫ってくる。彼らにとって死の意味はまさしく死だ。しかし私達は地上の生を生きて死の道をいくが如くに歩んできたが、私達に死は無縁であり死はない。その代わりに昇華であり聖和だ。早いもので御父様が聖和されて一周年を迎える。この一年を通して、私達は霊的無知を克服しながら多くの霊的叡智を受け取ってきた。途方に暮れて泣き喚いていたあの時の私と、一周年を経た今の私とは、霊的背景も霊的晴れ具合も格段に異なる。しかしそう思える今が何と無知で幼かったことかと思えるほど、次なる年、更にその次なる年には累加乗的に霊界は開けてくるはずだ。

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