2013年8月4日日曜日

愛の減少感

開かない門がある。無理に開けようとしても返って開かなくなる。地の底の牢獄に捕らえられたまま抜け出せないままで、そこでは陽の光がどういうものかさえ忘れ去られる。解放圏、釈放圏の時代に生きながら、未だにその言葉とは無縁な所で生きている。陽の光がどういうものかさえわからないのに、それなのにどうして陽の光を求めることができるだろうか。神様の愛がわからずに、どうして神様の愛を求めることができるだろうか。何の罪を犯したのかわからないが、どう蕩減すれば抜け出せるのかもわからないが、何もわからない位置で苦悶を重ねる。諦めればある程度は楽になる。仕方が無いと、求めることを止めれば苦悶を抱いたままで苦悶をなだめながら生き続けることができる。そうやって人は高みに向かう為の翼を自らで挫いてしまう。本人の意志の関知できないところで重たく背負わされたものがある。背負わされた背景に愛があるとは思えない。どう理屈を捻じ曲げたら苦痛と愛が通じるのか。苦痛はどこまでも苦痛で、愛が苦痛をもたらしたのではなく、苦痛が愛をもたらすのでもない。苦悶し、苦痛を受けながら愛の減少感を覚える。ルーシェルが愛の減少感を覚えて堕落させたように、愛の減少感を覚えるのは天使長の位置に置かれた立場だ。この愛の減少感をどうやって乗り越えるか。堕落の天使長ではなく勝利の天使長にどうやってなるか。個人の背負った重荷は個人でいる限りはどうあがいても重荷でしかない。家庭の重荷は家庭でいる限りはそれも重荷でしかない。私自身が位相を上げて変革しなければならない。私の重荷は家庭に立つことで重荷は別の顔を差出し、家庭の重荷は氏族や血統圏に立ち、あるいは国に立って私が次元を上げれば、重荷は別の顔を差出すはずだ。御父様が神様の位置に立つなら、再創造の摂理を担い、創造理想を掲げて共に働いてきた私達は御父様と共にある天使長や天使の立場だ。今私達はあらゆる側面で愛の減少感を覚えている。開かない門の前で途方に暮れている。それでも、愛の減少感を覚えて堕落させたルーシェルの二の舞を踏むのではなく、逆に愛の減少感を逆手に取りながら勝ち取っていける道がある。それは既に御父様御自身が通過された道だからだ。

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