2013年8月30日金曜日
今日の想い 611
日本から離れて随分になるから、よく事情が呑み込めていないけれども、未だに旧約時代さながら強固なピラミッド体制で献金摂理が進められているのだろうか。生活を極限にまで犠牲にすること、中心者からカラスが白と言われれば白だと認めること、そういったことが絶対信仰絶対愛絶対服従だと納得し、本人達の意志で、傍目から見れば奴隷的にも見える立場を甘受しているのだろうか。私も日本にいる間はほぼ、内外共にがんじがらめの状態にあったからよくわかるが、あの状態を生涯続けるとすれば、奴隷信仰を確立するか、それとも完全な奴隷になりきるか、どちらかしかないだろう。しかし願いは願いとして多くを抱えている様子で、何枚もの祈願書を奉じているようだけれども、意志をもたないことを意志した奴隷信仰と、願うという意志を差出す祈願書とを、どう本人の中で辻褄を合わせているのか私にはわからない。もちろん日本が立ててきた基準は世界万民誰もが頭を下げざるを得ない。しかしそれは母として立つ為の犠牲だったはずで、御父様が母の国と認められた今は母としての権威を持つ必要がある。母は奴隷ではない。母の国を背負って立つ食口が先ず旧態依然の奴隷意識を撤廃して、内的な責任意識、責任感情を起こし、外的にもはっきりと声を上げ、御母様と一つとなった位置でみ旨を牽引していく自覚が必要だと思う。今までの枠組みが、基元節を越えて、母の時代、女性の時代に入って、そのまま通用するのかということも考える必要があるだろう。組織体制がそうあるのは御父様の願いから来ているのではなく、願いを受けて実体化する為のツールであって、組織体制というツール作りには宗教的な事柄からどうしても政治的な事柄へと踏み込んでいかなければならない。しかし出来あがった組織体制を絶対としてしまうと政治的支配からは逃れられなくなる。宗教があって政治があるべきで、本末転倒すべきではない。ブログに上がってくる情報のニュアンスをどこまで信頼すればいいのかわからないが、どうも日本の食口の中には内的にも奴隷化されている者がいるように思われる。絶対信仰と鵜呑みとは異なる。絶対服従と奴隷とは異なる。長い奴隷生活で奴隷でしか生きられないとなると、それは悲劇ではないだろうか。
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