2013年10月31日木曜日

今日の想い 652

アブラハムは神の命令に従い、最愛の息子イサクを捧げることを決意した。しかし祭壇に横たわるイサクにいざ剣を振り下ろそうとしたその時、神の声が下ってきてイサクの献祭は留められた。もしここで神がイサク献祭を止めずに、そのまま遂行されていたら歴史はどうなっていただろうか。IFはどこまでもIFでしかないが、IFを問うことで対比する選択された現実の意味が見えてくる。現実という実りを最大限に用いる為にもIFを問うことは大切だ。献祭とは犠牲の供えを仲介として天に繋がることだ。犠牲は天の主管内にあり天がその犠牲と共にある。私達は犠牲として精誠を捧げるのであり、精誠は天が主管し天がその精誠と共にあるが、精誠が生命の犠牲となると天は地上に手を出す条件になる。イサク献祭がもしなされたなら、犠牲であるイサクは天の主管内にあり天がイサクと共にある。イサクはアブラハムの最愛の息子であってイサクとアブラハムは一体であり、そのイサクが天と共にあるなら勿論アブラハムもイサクをして天と共にある。遂行されたとして、イサク献祭以降のアブラハムの摂理は天が直接的に主管したはずだ。要するに手を下したはずだ。実際はイサク献祭はなかったから天の主管ではなくアブラハムやその後孫の主管下に置かれた。要するに彼らの自由に委ねた。彼らの自由に委ねれば、天は手を下さずただ見守るだけだ。犠牲と蕩減、犠牲と責任分担との関係を見ると、犠牲を供えることで蕩減は減少法により少なくなるし、犠牲を供えることで責任分担は復帰に関する限り推し進められる。そういった犠牲の恩恵にどれだけ与ることができるかは、犠牲となった存在とどれだけ一つになっているかによる。清平の摂理は興進様の犠牲によって開かれた恩恵だが、興進様の犠牲の意味を知り、興進様の心情を受け取る者でなければその恩恵に与ることはできない。恩恵は先祖解怨と先祖祝福だが、それによって奇跡的な蕩減の減少、遅々として進まない責任分担の奇跡的な推進がなされた。それでは御父様の犠牲、特に聖和に関する犠牲を私達はどう捉えるべきだろうか。その恩恵をどこに見出すべきだろうか。妻は、御父様が地上を去られて何か気が抜けたようだと口にするが、本来は気が抜けるどころの騒ぎではない、それこそ天地がひっくり返ったということだ。私達の多くは魂の所在を失い、心魂は彷徨っている。地上的な御父様と共にあった私達の心魂は、実体み言という霊的な御父様を探して掴まなければ心魂は彷徨ったままだ。しかし霊的な御父様を探す前に、先ず霊的という正しい認識を持たなければ探しようもない。霊的なことへの正しい認識に欠け、み言葉を受け入れた食口であってもその認識がまちまちなので自ずと混乱を来たす。完成時代から第四次アダム心情圏時代に越えて生き残り(霊的な意味で、、)、さらに発展できるかどうかは実体み言であられる霊的な御父様を探し当て、迎え入れることができるかどうかによる。御父様の聖和への犠牲とそれによる恩恵、しかしその恩恵は実に重い恩恵であり、この世的気分の高揚を見るようなものではないし、それは神霊的な高揚でもないと思う。実は私達は恩恵を受ける立場というより、御父様の恩恵を与える立場にあると思っている。今この世にとっては私達はどうでもいい存在なのだろうが、この世が私達を必要とする時代は確実に来る。今私達の魂は御父様を失って彷徨っているけれども、これからは世の人々の全ての心魂が彷徨い始める。霊界が地上に押し寄せると、今まで思いもしなかった心魂状態を自覚し、心魂の安着と安寧をひたすら求めるようになる。

2013年10月29日火曜日

今日の想い 651

DCの近辺からなら、一時間もあればシェナンドア国立公園に着く。秋の紅葉で色づく山々を見渡したいなら、公園内にある山の尾根伝いを走るSKYLINE DRIVEという公園道路からの眺めが要望に応えてくれる。今日しかないと思い、妻と娘を連れ立って朝早く向かった。国立公園といっても20万エーカーの広さしかないから、アメリカでは最も小さい国立公園の一つだが、そうは言っても北の出発点から南の終着点まで走破すれば3時間にも渡り、往復するだけでも一日がかりだ。入り口のロイヤルフロントの小さな町に着くと、入り口のドライブスルーの料金所で入園料を払い、先ずは尾根に向けて300メートルの高低差を上っていく。一番高いところで標高1000メートル位だからなだらかな山が続いていて、山脈と名付けていいものかどうか、それでも一応アパラチア山脈だ。20分程度ドライブすると最初のビジターセンターまで行き、トイレで用を済まして折り返しただけだが、道すがら展望エリアがあちこちにあって、町を見下ろしたり山々を眺めたりするには十分だ。夏には何度も行ってロッジに泊まったことも一度あったが、秋に訪れるのは今回が初めてだ。この辺りは紅葉といっても黄色系が殆どで、目の覚めるような赤色は少なく、日本の紅葉と同じものを期待すると少し落胆するかも知れない。でも黄色系ならではの良さもあって、赤色に刺激を受ける驚きの色合いにはないものがあり、私は好きだ。落ち着いていて大人しい黄色に見入ろうとすれば、自ずと能動的態度を要求されるのであり、黄色を内面に満たすことで霊的な深みに入ることが出来る。それは赤色のように、受け取ることで直ぐに感情に昇るものではないが、受け取った黄色をよくよく消化することで見えてくるものがある。それは受け取るその場のことではなく、帰り道であったり、或いは数日経って見えてくる場合もある。色付いた秋の黄色を内面に暖めると、黄金色に輝いてくる。表面的な輝きは見えないにしても、霊的に見れば金色に輝いていて、秋の地上的な実りの種子に対して霊的な実りはこの金色の輝きだ。秋には霊達が地上に降りてきて金色の輝きを収穫する。霊的感性を持たない人間は残った枯葉に憂いを覚えるだけかも知れないが、実質は金色の輝きと共に霊達に収穫されて、次元を上げた新たな生命を生きるようになる。私達はみ言葉を通して為に生きる私であり、犠牲を供える私だということを知っているけれども、犠牲が憂いではなく喜びだという感覚はない。しかし犠牲は本来喜びだと認識するのが霊的に生きていることの証しだろう。人間として内面に燃えるものは、青年期の情熱的な赤色から壮年期を越えると黄色に代わる。金色の輝きを収穫する霊達との交わりが壮年期を過ぎる者達には訪れる。秋の本質、霊的な収穫の意味が理解できるようになる。私は私なりに収穫多く大満足だったが、妻と娘には何か物足りなかったようで、少し遠回りしてアウトレットモールに寄り道して埋め合わせ、陽の高いうちに帰ってきた。


2013年10月28日月曜日

今日の想い 650

統一食口にとって、この地上を主管できる最も大きな鍵を見つけようとするなら、御父様が愛された海をどれだけ活用できるかによるだろう。海への認識を深め、無尽蔵の食糧、無尽蔵のエネルギーが眠る海を目覚めさせて活用できるなら、私達の力は世界を席巻できるはずだ。その一環として水産事業を事業体の核として置かれた訳だが、実情は何とも情けなく申し訳ないとしか言いようが無い。アメリカの水産事業は未だ共産主義者達に奪われたままだが、しかしそれも水産流通事業に限られたままであって、そうであればこの世の事業と比べてさして変わり映えは無く、御父様が見通された海への可能性を十分見据えて投入してきたとはとても言えない。もちろんそう言う自分も店のオヤジでしかなく、御父様が、お前達は食堂のオヤジのままでいいのかと問いかけられたことがあったが、願いに応えられない私は霊界で御父様に面したとき顔を上げることすらできないだろう。店の売上アップに汲々とし、コスト管理、人事把握、従業員教育に追いまくられる毎日で、店のどこに御父様の海への想い、水産への願いが込められているのだろう。み旨なのか生活なのかと問われたとき、はっきりとみ旨ですと胸を張ることできる私はいない。指を折って数えるだけになってしまった店の責任者達が、顔を突き合わせて生き残る為だけの話題しか上らない状況を御父様が御覧になって、何を思われるだろうか。御父様の想いを相続して、海を愛し、水産事業を育て、これぞ海洋摂理と言えるだけの内容を世界に提示する私達にならなければならない。それでこそカインの正道として天が認めるのであり、カインにもなり切れない腐れ者のままで余生の生活を心配するなら、祝福家庭の名を辱めるだけだろう。御父様が愛された海にこそ私達が気付くべきものがあるはずだ。必ずあるはずだ。私と御父様が切っても切れない関係にあるように、私と海、私と魚も切っても切れない関係にあることを認識すべきだ。私は祝福家庭であり統一家であるように、私は海族であり魚族だ。海族の頂点、魚族の頂点に立ってこそ海の主管権、魚の主管権を相続したと言える。御父様の海への想いを私達統一食口で成就する。

2013年10月27日日曜日

今日の想い 649

御父様の生殖器への想い(敢えて想いとする)は特別なものがある。「宇宙の根本」のみ言葉を訓読すれば、生殖器という言葉のオンパレードが際限なく続く。私達の生殖器へのイメージは、それが聖なる器官というよりは、私が強い関心があることも悟られたくないほど、卑俗な対象、あるいは恥ずかしい対象としてのイメージから離れることができないでいる。神様が最も力を投入されて創造された器官であり、生命の本宮、愛の本宮、血統の本宮だとまで言われるにも拘わらず、それでもまだ卑俗なイメージを払拭できない。堕落によって最も尊いものが最も卑しいものとなった訳だが、私達が御父様と同じ生殖器に対する想いを相続する為にはどうしたらいいのだろうか。人間誰しも程度の差はあれ性への渇望がある。それを本能と捉えるのが一般的だが、睡眠欲や食欲といった本能とは一線を画しているのは明らかで、それは性欲を充足しなくても生命に影響がないことから理解できる。固体生命への影響はないが血族生命への影響は確かにあって、性欲は血統というものを無視できない、固体意識下にある無意識領域の欲求と繋がっていると言える。固体生命に表出する性欲は、生命体としての本能ではなく、血族生命としての存在への堕落的渇望だ。よって性を主管できる者は血族生命の血族意識を孤我意識を超えて持つのであり、血統を主管できる者だ。血統を恰も自分の体だと認識できる意識を持っている。では血統の流れを考えた時に、私が多くの子女を得て複数の流れを造ることと、私が複数の女性を相手に血統に枝分かれさせて流れを増やすこととの違いは何だろうか。イスラエル民族とアラブ民族の終りなき対立を見れば、一夫一婦の子孫による血統の枝分かれで繁殖する場合と、一夫多妻による血統の枝分かれで繁殖する場合の違いがわかる。子が出来ないアブラハムの妻サラ自身がお膳立てしてアブラハムにハガルを宛がったが、それでも今の今まで対立が続いていることを考えれば、一つの凸に一つの凹というのは心情的観点からも神様が天の父母様であり天の父と母達とはならないことからも理解できる。夫婦一対の霊で一体となって神の似姿であり、それで一つの霊的存在として神様の前に立てる。私達は永遠なる祝福カップルとして絶対性への拘りは思考と感情を越えて死守すべきだ。子供に恵まれない、子供が祝福を受けない、相対者と死別した、等という理由から別の相対を、、と考える思考、より美しい女性、魅力的な性に向かう感情、その思考、その感情こそ犠牲として捧げながら祝福の血統を自分の存在以上に重要視する。そうであれば私の血統に絶対性が備わった生殖器を持つことができるのであり、聖なる器官、聖なる生殖器として侍ることができるのであり、堕落的な卑属な対象、恥ずかしい器官というイメージは将来的に血統から払拭されるはずだ。私の絶対性への拘りと強い想いが、聖なる生殖器として侍ることができる、皇族圏としての祝福血統を再創造している。

2013年10月25日金曜日

大聖堂にて

妻の運動と気分転換を兼ねて、大聖堂まで足を延ばしてみた。店があるルート355からウィスコンシンアベニューに繋がる直線道路を、DC方面に南下して30分も走ると、修復している大聖堂の先端部分が見えてくる。実は30年もこの地域におりながら、素通りするばかりで一度も訪れたことは無かった。アカデミーの建物を過ぎるとパーキングのサインがあり、反対車線から車のこないのを確認してハンドルを左に切る。車はそのまま大聖堂の地下駐車場に導入される。空きスペースに停めてエレベーターで地上に出ると、アップした一番上の画像景色が直ぐ目に入ってくる。秋晴れのいい天気だったが風は結構強く、聖堂を見上げる顔に吹き付けてきた。正面横の入り口から入り、訊ねられるままにドーネーションを気持ち差し出すと、聖堂内ネーブに足を踏み入れる。幾重にも並べられた信者席に圧倒される間もなく全体を見渡してしまうほど、左右から、そして遥か見上げる上方から、柔らかな色とりどりの光が差し込み広い空間の中を満たしていて、その情景に釘付けになる。両サイドに立ち並ぶ太い柱に隔てられて回廊がのび、回廊の壁に並ぶ大きなステンドグラスから色とりどりの光は導入されている。回廊上方の壁にもステンドグラスが並んで配されいて、そこから差し込む光は高く張られたネットに憩うように投影されている。妻は貰ったパンフレットに一生懸命挑んでいたけれども、私はというと何の情報も入れずに、ひたすら内的に受け取る印象だけを満たすことで発見できるものはないかと試みた。教会建築は荘厳という表現が当て嵌まるのだろうが、ひとつの発見として荘厳とは空間表現を述べた言葉だと思った。聖堂外見の威厳もさることながら、聖堂内の空間表現こそが神界の神霊的なものを視覚化している。その荘厳な空間内に、この小さな身を空間の底の一点に置いてみると、神霊的なものへの畏怖の感情が心魂の表面に浮かんでくる。天国で御父様の前に膝まづくなら、この畏怖の感情は最大限に増幅されて、その場にいるのが居たたまれなくて、我が身の恥かしさを痛いほどに覚えるのだろう。聖堂の中に居留まることは耐えられるとしても、御父様の前で私は畏怖の火で焼き尽くされるのではないだろうか。地上界で、大気の底で蠢(うごめ)いているだけの私は、どうすれば人々が畏怖の感情と共に見上げることができる、そんな御父母様の証し人になれるだろうか。


2013年10月24日木曜日

今日の想い 648

シュタイナーの面白いところは、宇宙生成の論理的理解の得られるものとして、土星紀宇宙、太陽紀宇宙、月紀宇宙、地球紀宇宙の四段階があったことを霊視している。そしてそれぞれの段階から次の段階に向かうのに宇宙の夜を経て以前の段階を繰り返しながら発展させている。太陽紀に入ると太陽紀の次元で過去の土星紀を繰り返して太陽紀の宇宙生成が為され、月紀に入ると月紀の次元で過去の土星紀、太陽紀を繰り返して月紀の宇宙生成が為される。地球紀に入るとやはり土星紀、太陽紀、月紀を地球紀の次元で繰り返し、その上で地球紀の宇宙生成が為されている。地球紀は4数の宇宙、すなわち完成数だ。創造原理の面白いところは、成長の段階として蘇生期、長成期、完成期を経て直接主管圏に入るのであり、成長の3数を経て4数存在になる。復帰摂理は再創造であるからやはり旧約、新約、成約時代の3数を経て完成して解放時代の4数になる。統一教会の面白いところは、原理解説があり、原理講論があり、原理本体論があり、原理原相論がある4数を持っている。統一教会の結論は、第一次アダム時代(旧約)、第二次アダム時代(新約)、第三次アダム時代(成約)を経て第四次アダム心情圏時代に入り安着して整理が終わるというものだ。私達は個人復帰完成、家庭復帰完成、氏族復帰完成時代を経て民族時代、国家時代へと、真の父母を中心として最初の三つの段階を、第四次アダム心情圏を中心として四つ目の段階、五つ目の段階へと越えていく。そうなると直接主管圏とは第四次アダム心情圏に立った私(まだ立っていない)を言うのかも知れないし、三段階の3×3の9数から10数へと次元を超えるのであり、民族時代、国家時代はそれ以前の三時代からは次元を上げたステージに立っている。シュタイナーの4数と4段階の論理は宇宙生成の発展過程に見るわけだが、同じように当て嵌まるなら、2数は1数を、3数は1,2数を、4数では1、2、3数をそれぞれ新たな次元で繰り返す。よって長成期に入れば蘇生期を新たな段階で繰り返し、完成期に入れば蘇生期、長成期を更に新たな段階で繰り返す。そして直接主管圏は段階から次元へと越えて新しい次元で蘇生、長成、完成を見るのだろうか。霊的に無知な私は、自分がどの段階にあって霊人体がどんな様相をしているのか一向にわからないが、いつ絶えるか知れない命なら論理的理解を得たいと思うよりも、ひたすら与え尽くすこと、投入し続けることに意志を搾り出してでも向かわなければならない。宇宙生成、人類歴史という過去の事実を思考反芻すれば数理的な理解が得られるのであって、未来への数理を理解して歩むような、そんな予知能力を立てて歩むことができるならば責任分担という概念は成り立たなくなる。他人事ではない自分が論理思考の罠にかかろうとしている。

2013年10月21日月曜日

今日の想い 647(内界で出会う)

外界への関心が強すぎて原因的な私の内界に目をやることが疎かになっている。御父様に出会いみ言葉を理解しみ旨に参画しているつもりだろうが、外界で御父様に出会うことと内界で御父様を見出すこととは異なる。み言葉を理解することとみ言葉を内界で打ち立てることとは異なる。み旨に参画することと内界で神様の家が建立されることとは異なる。自分の内界のことは見ぬ振りをして、教会がどうの責任者がどうのと口うるさく批判すればするほど、内界はウジ虫が湧いて腐っていく。悪霊が私の内的霊的世界を蝕んでいく。食べくさして掃除しなければウジが湧くように、内面を無視しているうちにいつの間にか修正できないほど霊人体が輪郭を崩し歪んでいく。外界の汚さ醜さは目に余るものがあると、ひたすら批難の言葉を連ねているが、実は批難の言葉は自分の内界に対しても向けられている事実に気付いていない。連ねる言葉は使命感を伴った義憤なのかも知れない。批難すべき事柄もあってそれに目をつぶれ口もつぐめとは言わない。大いにしたらいい。しかし同じ言葉と同じ感情を自分にも向けているという、自分の内界に対して向けている事実を忘れてはならない。自分の吐いた言葉で自分が裁かれる。内界で御父様を見出しているのか、み言葉が内界で打ち立てられているのか、内界で神様の家が建てられているのか、それが為されなければ自分の吐いた言葉で自分が裁かれる。或る面ひとつの霊的段階を越えて、批難する目を持ち口を持てるほどにステージを上げた位置に立っているとも言えるが、外界に向けた同じ言葉が内界に響いて地震となり、それに耐えうるほどの堅固な内界に発展させていく必要性がある。そうなると批判や批難という態度ではなく、進言という態度を備えたもの言いでなければ、外界に向けた言葉が自己創造ではなく自己破壊的なものになっていく。

2013年10月19日土曜日

今日の想い 646

人間は本来、神と同じように創造する存在として造られたはずだ。既に備えられた過去の創造の恩恵に与るだけではなく、未来の創造を委ねられ未来を創造する存在だ。人間が過去の創造の恩恵に浴し、そこに留まるだけなら、未来の創造は誰に委ねるのだろうか。私はあくまで創造は内的原因的な創造のことをさすのであり、外的創造は内的原因的創造の結果だと見る。今の現実という結果は過去の内的創造を原因とする結果であって、未来の現実を変えようとするなら先ず内的創造に目を向ける必要がある。現実に対して外的には従わざるを得ないけれども、内的に翻弄される自分となるべきではない。何を持って内的創造をしていくか。それはみ言葉以外ない。み言葉をして私は創造をしているという実感を持てることが、み言葉を生命のみ言葉として受肉している証しだ。現実と言う結果世界だけに向かう虚ろな知情意だけでは、霊的に生きて新たな創造を為しているとは言えない。み言葉は現実世界に対処する処方箋ではなく、霊的に生きる者が新たな創造を為していく宇宙原則だ。天宙原理だ。地上での創造、というと創造性と表現されるように新しい発想を言うのであって、それは多分に思考創造に限られるのであり、感情を越えた心情創造であるとか、自己中心的意志の発動を越えたみ旨への意志創造であるとか、とはならない。地上天国を平和理想主義者が言うような、武器を持たず戦争せず、皆が平等で誰もが全ての地上的恩恵に与る世界だという同じようなイメージを持つとするなら、それは大きな誤解を抱えている。それは堕落人間が思っている地上天国であって、神様の願うそれとは異なる。極端なことを言うなら、たとえ戦争が起ころうが人間の階級的な世界になろうが、そこに神様の生きた心情が人々に流れ、み旨への意志に貫かれた人々になるなら、それは神様を無視して実の無い平和や平等が蔓延する今の世界に比べれば地上天国に遥かに近い。教会の責任者の華美な生活や、献金の使い方への疑惑を取り上げて非難轟々だけれども、共産党でも無かろうにどれだけ白昼夢的ユートピア主義にかぶれてしまっているのか、未だに本質を受け取れない、感情でものを言う食口がいることに幻滅する。発想自体も陳腐だけれども、外的に苦労し清貧に甘んじるのが食口の王道で、それでこそ真の愛がそこにあり神様の心情が流れていると思い込んでいる。心情を復帰するとあるが、復帰は再創造であり、再創造はみ言葉をして建て直すことだろう。堕落人間に備わっている感情は否定されてこそ心情の建て直しが始まる。この世の倫理観、道徳観が御父様を迫害し、御父様の路程を阻んできた事実をはっきりと認識すべきだ。私達に取ってこの世の倫理観、道徳観は時として牙を剥く怨讐だ。

2013年10月18日金曜日

今日の想い 645

私と妻は似た者同士で、御父様に挨拶したとき兄妹のようだと口にされたほどだが、それでもそれなりに戦いはある。み言葉によれば男と女自体が怨讐関係ということだから戦いはあって当然だろう。御父様によってマッチングされ祝福を受けたのだから、どんな食口であっても壊したいとは思っていない。しかし祝福を受けても夫婦間の関係は多種多様で、自分達夫婦を基準に他の夫婦関係を量ることはできないし、自分達夫婦がうまくいっているからと言って他の夫婦をどうこう言うこともできない。折り合いがうまくいかない夫婦だってたくさんいるし、中には壊れてしまう夫婦だってある。夫婦の関係をキープしているからと言って、壊れた夫婦がそれなりに努力してきた愛の投入以上の投入をしてきたとは言えない。同じ祝福を受けたけれども、同じ夫婦の関係にはならない。祝福は壊すべきではないと御父様は言われたはずだが、しかし壊れてしまった夫婦に対して責められる言葉を耳にしたことは無い。普通の親でさえも、仲の悪い息子や娘夫婦に対して別れるべきではないと強く言っても、一端別れてしまったものに対しては責めたいとは思わないだろう。祝福は壊すべきではないと言うのは、食口であれば百も承知だ。子女様であっても勿論同じだ。しかし別れた夫婦には、祝福を受けたにも拘わらず別れざるを得なかった現実がある。それを責めることができるのは唯一、祝福を与えた御父母様だけだ。しかし御父母様は責めることはされない。真の親だからだ。御父母様が責めないのに、そして許そうとされるのに、私が責めることができるだろうか。どうこう言うことができるだろうか。言えると言うならそれは教条主義に立つのであって、真の愛主義、心情主義に立つなら責めることはできないだろう。食口の誰もが複雑な想いで或る子女様を見守っている。事情と現実と願いと、そしてそれぞれの想いが複雑に関わっている。御父様の路程が複雑であるように、御子女様の歩みも複雑だ。子女様の行動を祝福もできず、かと言って批難もできず、静かに見守るしか為す術は無い。主の路程や摂理の意味の殆どを理解していないように、今の私達の心霊基準で答えを出せず、未来の私達や後孫に委ねるべきものも多くある。その一つだと思うしかないだろう。しかし確実に、好奇な目でみようとしたり槍玉に上げようとするのは間違っている。

2013年10月17日木曜日

今日の想い 644

恨みと恨(はん)の違いがわかるだろうか。簡単に言えば一方は自己中心的な情動であり、今一方は方向性をより公的に向けた情動だと説明すれば、理解の助けになるだろうか。恨みは深くすれば深くするほどより自己中心的になり、心魂はどこまでも凝縮して凝り固まる。一方恨(はん)は恨みと同じ情的衝動ではあるけれども強くすれば強くするほどより公的な力となり、心魂はどこまでも広がり拡散していく。恨みは根が深くなると不気味な静けさを漂わせるものだが、恨(はん)が強く働くと発散の力となり使命的な自分を表現するようになる。恨みを恨(はん)に向かわせようとする行動は、韓国ドラマを見れば度々見られるのであって、アイゴーアイゴーと叫びながら地を叩いたり胸を叩いたりしながら、恨みを自分の中に留めようとする力から拡散する力に変えている。日本人にすれば表現するのは恥であり口ごもり押さえ込もうとするけれども、韓国人が敢えて表現するのは情動を公にして天が取ることが出来る精誠に変えていくのであり、実に天の心情文化に近いものがある。恨みと恨(はん)がベクトルが異なるように、恐れと畏れ、怒りと義憤、卑屈と謙虚、尊大と傲慢それぞれの心魂活動も、そのベクトルが自己に向かうのか天に向かうのかの方向が異なっている。恨みは押さえ込むのではなく、表現もして素直に報告もしながら恨(はん)に向かわせる必要がある。恐れは自己中心的感情であり、自己に向かえば向かうほど恐れる対象を肥大化させてオバケ化させることになる。天を畏れるのは恐れてオバケ化した対象に恐々とする心魂の萎縮とは全く異なる。信仰の奥底に恐れがあって、それが動機となって意志する信仰の場合は絶対信仰にはならない。地獄が恐ろしくて、死が恐ろしくて信仰する場合、口では神様と言いながら実のところ恐れで操ろうとする別の霊的存在を立てている。日本食口は従順で、声を荒げたり怒りを表わしたりすることは非常に少ないが、血気怒気の衝動はまずいにしても、怒りを覚えなければ義憤に燃えることもない。

2013年10月16日水曜日

今日の想い 643

朝、目覚ましが鳴って上体を起こしても、私の意識が昇ってくるまで暫く時間がかかる。別に低血圧ではないが、眠りが深すぎるのか、あるいは昼の意識を生きることを拒んでいるからなのか、直ぐに飛び起きて行動に移ることが難しい。上体は辛うじて起こしてはいるけれど、次の行動に移す為の意識を取りだせないでいる。献身して修道(軍隊)生活が始まったことで、先ず大変だったのは毎日の起床だった。当番が張り上げる起床の高い声と共に瞬時に蛍光灯の人工的光が明々と照らされ、無重力から重力圏へと無理やり落とし込まれ、この世で背負う重荷が私に負荷される。重力圏で上体を起こすのがやっとの私は、周りで飛び起きて寝具を片づけ早々と洗面台に走る食口達が宇宙人に思えたものだ。或いは逆に私が宇宙人だということだろうか。眠りから覚めようとする私は、微かな意識とは言わないまでも、私を統一された一存在たらしめる意識の柱がしっかり立たずに暫く揺らいでいる。その間、訳のわからない思考の断片が飛び交い、壊れたコンピューターのように記憶の断片が映像であったり音や声であったりと走り回る。それは霊界から地上界への繋ぎの領域であり、地上界から霊界へ赴く霊界への旅立ちでは私に刻まれた全ての体験経験を鮮明な映像で見せられるけれども、一日の目覚めは死の逆バージョンである地上誕生として、霊界から地上界へ持ち込む組み立てる素材をランダムに取り止めもなく取り出している。目覚めまでの間に私の中に昇って柱として立つ意識は、この無意識の領域である霊界から持ち込むあらゆる素材をどのように意識圏で組み立てるのか、私の意識が立ち次第それらの素材を用いて創造を始める。素材は形状の芽を出しかけた霊の性相であり、霊の性相は私の過去の内外の歩みの段階的霊的実りであって、善果らしきものもあり悪果らしきものもある。善果としての霊の素材はより善なる創造をもたらすが、悪果としての霊の素材は悪なる創造をもたらすか、または善果を引き立てて善の創造に加担させるかの両面があって、どちらを選択するかは私の意識次第だ。人は人間という精神存在、霊的存在として、み言葉を知ろうが知るまいが地上を生きることでそれぞれの創造を為してはいる。しかしみ言葉の本質を受け取った者は関わる霊の位階が異なり、より次元の高い創造を為す。より神霊に近い霊の素材を用意されて創造を始める。み言葉を受け入れる者もそうでない者も、同じ地上に存在してはいるが関わる次元が異なり、み言葉の本質を受け取った者は高次元の創造に加担していることへの誇りを持つべきだ。私を蔑ろにし無視する者は天が許さないという気概を持つべきだ。私達は御父様によって選ばれ集められた群れであるのに、実力も何もないと卑下するならば、御父様を卑下し、天を侮辱していることになる。今は確かに何も持ち合わせてはいないけれども、それでも、この群れは何もないのに自尊心だけは人一倍あると思われなければならない。その意味でとりわけ日本食口は、韓国食口の気概と自尊心を学んで相続すべきだ。み言葉の本質を受け取った者は神霊が関与するはずなのに、自分を卑下したままだと霊界が混乱して貶めた霊しか関与しなくなる。

2013年10月15日火曜日

今日の想い 642

慰安婦に関する訓母様の言動であるとか、あるいは地震に関する言動であるとか、その一節だけを内面に満たしていくと、日本食口としては当然やりきれない想いに襲われる。その言葉を受けて何の否定的感情も起こらない、当然その通りであってさもありなんと、素直に受け入れられる日本食口がいるなら、その食口を私は理解できない。しかし一方でその言葉だけで訓母様を全面否定し、よって清平摂理も受け入れないと言い張る食口も同じように理解できない。訓母様が語った一連の日本に対する非難言動(本人が日本非難の意味を込められたかどうかはわからない)が真実なのかどうかと問う以前に、非難言動によって触発された否定的感情にどう対処するかの方が霊的見地に立てばより重要だろう。日本はエバ国家としてアダム国家に嫁いだ形になるが、要は日本は御父様の相対である妻の立場だ。食口、特に韓国食口にすれば姑であり小姑であって、彼らにすれば嫁いだ嫁に家の習わし、伝統を教えて上げようと言葉を並べる訳だけれども、嫁にすれば随分上から目線の言葉であったり、ヤッカミに過ぎなかったりと言うことになる。日本も数千年の歴史を刻んで今があり、その染み込んだ伝統や考え方や感情をして存在しているので、そう簡単に積み上げてきたものをチャラにはできない。そうなると俄然嫁への言葉としてはトゲを持つのが韓流だ。韓国ドラマの一つでも見ればよくわかる。そこでどう対処するのか、どう自分の中で消化するのかによって、日本が利口な嫁なのかどうかを問われている。利口であろうがなかろうが、日本は御父様の相対であり母の国に変わりは無い。しかし姑、小姑の試練を越えて、母としての威厳を持てる存在になることが御父様の願いであるはずだと思うのだがどうだろうか。日本食口は相当の犠牲を供えてきた。ある面いたぶられてきたと言う表現も外れてはいない。献金問題も含めて日本は今の痩せた体を更に鞭打つ状態を続けて、御父様の願いに応えることができるのかどうか。それは誰でもない日本自体が、日本の使命を担う日本食口が対処すべき問題だと思う。おそらくこう言えば問題発言に違いないのだろうが、献金を含めて摂理へ貢献できるかどうかの権限は、実質的には母の国自体が持っている。その母の国が言われっ放しで、口を開かず頭を下げ続けていれば、それで事済むのか、摂理は進むのか、その事も考えないと本当に日本食口は潰れる。日本食口が潰れれば母の国として立ち行かなくなる。

2013年10月13日日曜日

今日の想い 641

献身生活に入ってほぼ100%、経済復帰の歩みに勤しんできた。伝道は献身するまでと、献身初期の青年部人事で少しかじっただけだ。そんな短い期間でありながら、伝道に集中し専念したという感覚はない。もちろん実りもない。正直なところ、自分が人生の問題に相当悩んで入教した手前、声をかけて人生の問題に関心がない人に勧めても難しいという思いがあった。外的な事を言えば教会生活、献身生活は決して楽なものではなかったから、勧めても結局恨まれるに違いないとも思った。悲観的で人間的な私は、この道を歩むのに最も相応しくない類の人種だったけれども、しがみ付いてでも残らなければ自分の救いは絶望的だという、ただその一点が最後の繋がった糸で、その切れそうな糸を頼りにここまでこれた。40年を越えて、これまで共に歩んだ食口の近況はわからない。縦に繋がることを徹底され、横に繋がることを否定されて来た面があるから、愛の兄弟関係とはならなかった実情がある。それがおかしいと言うのではなく、摂理として先ず縦的関係が優先されてきたのであり、縦的に立った食口を残すことを天は願ってきたはずだ。真の父母の勝利圏が立って新しい時代圏に入った今は、縦的に立った食口が横的に展開する伝道に入っている。もはや私達が訓練を受けてきたような、そんな厳しい路程に組み込まれる人材を復帰する必要は無い。それぞれの分野で、この世の者達が惹き付けられる秀でた天分を発揮しながら、それが真の父母の証しとなれれば来るなと言っても集まるようになるだろう。それでこそ環境創造だ。今までと同じように、この人は何もないけれど純粋さがあると言うだけで、どれだけの人を繋げて伝道できるだろうか。飛び込みや、片っ端から通りすがりの人に声をかける、或いは関係性を頼りに訪ねていく、そんな従来通りの伝道を否定する気持ちは毛頭ないが、もし一人の食口が一国の大統領にでもなれば、彼一人でどれだけの伝道実績が実るだろうかと考える必要がある。大統領でなくとも、芸術の分野でもいいだろうし経営の分野でもアカデミックな分野でも何でもいい。この天分を持つこの人は何者だろうかと思わせられれば、頭を下げてでもその本質を探りたいと集まってくるはずだ。従来通りの伝道であれ何であれ、真の父母を証しするのは教会ではなく私だ。私が内外でどれほど磨かれているか、どれほどの内外の魅了するものを持ち合わせているか、その私自身が鍵だ。賢い者は、この教会の混乱期の中で翻弄されるのではなく、時代を先取りしてその準備に余念が無い。

2013年10月12日土曜日

真の神様

真の父母という門を通らなくては真の神様を理解できないし真の神様に会えない。み言葉には真の何々という表現がたくさんあるが、真の神様という言葉も偽りの神様を信じている現実を踏まえた言葉であって、神様に対する正しい概念を持つなら敢えて真の、、とつける必要はないだろう。神様に対する正しい概念は真の父母という門を通らなければならない。堕落して偽りの父母によって存在している人類が、様々な宗教、それは無神論者が神はいないというときのイメージしている彼らの神の概念も含めて、様々な神の概念を持っているが、どれも正しい概念ではない。真の神様の概念を持てるのは真の父母の門を通った者だけが受け取れるのであって、旧約時代の選民達の神の概念も真の神様とは異なるし、新約時代のクリスチャン達の神の概念も真の神様とは異なる。そして分派、反対派が反真の父母を表明するなら真の神様への門は閉じられたのであり、彼らが口にする神様は偽りの神であり、偽りの神を信奉している。人はそれぞれが持つ神様のイメージがあり、真の父母を受け入れるのもそのイメージを壊されない限りでのことであって、真の父母を受け入れることで自分の神様のイメージが壊されるようなら或る時から受け入れない。食口の中には二種類あって、真の父母を先ず受け入れて真の父母が持っている神様の概念を受け取ろうとする者と、壊されたくない神様のイメージが先ずあってその上で真の父母を受け入れる者とがいる。み言葉を論理として、すなわち思考としてだけ受け入れる者達の多くは、壊されたくない神様のイメージが先行していることに気付いていない。み言葉を受け入れる内的態度は、私の正しくない神様のイメージをことごとく壊して下さい、御父様の真の神様の概念を私の中に打ち立てて下さいという切実な姿勢でこそ、堕落の私から御父母様によって重生した私の部分が私を占拠できるのであって、堕落の私を否定し切れないまま、み言葉の一部分をそこだけ取り出して、み言葉にはこうあると論理を展開しても堕落圏内は所詮堕落圏内であり、天聖経の書き換えがどうの、天の父母様がどうの、矢継ぎ早に批判を呈するけれども全く話にならない。

2013年10月9日水曜日

今日の想い 640

教会に対して批判したいならいくらでもすればいいだろう。幹部や責任者に対して文句を言いたいなら、公開されたブログにいくらでも連ねることができる。天に対して負債の一つもない者が批判もし文句も言うべきだとまでは言わない。前にも記したように、どんな責任者であれ善神だけが働いている訳ではなく、悪神の働いている部分も確かにあるかも知れない。しかしそれでも御父様の主管圏のもとであり、保護圏のもとで彼らは教会運営を為してきた。私達一人一人が氏族メシヤでありながらその実りを供えることができず、祝福家庭でありながら家庭理想に届かない実情も知っておられ、許され、それでもみ旨を任せて下さる同じ御父母様の主管圏、保護圏のもとにあるのと同じことだ。負債の一つもない者が批判すべきだとは言わないが、自分に負債のあることを覚えた者でなければ、負債のあるのを認識しそれを踏まえて言葉を選ぶ者でなければ、批判する資格はない。霊界は恐ろしいところだ。私の一挙手一投足の行動だけに留まらず、私が口にした一言一句、私が記した一語一句、ひとつの漏れもなく記録されている。記録されていて消されることは無い。愛を呼吸し、御父様が語られるところの良心が直接的に霊人体の核となる霊界生活では、私の行動として、言動として、記録して残した全てが、霊界に於いては外界の在り様、存在様相となって逆に私を断定する。私自身が残した内容で私は裁かれる。私達は地上生活の自分の行動言動の一つ一つ、些細なものから大きな動きに至るまで全て、それが私の何を動機としているのかを十二分に精査しなければならない。ネットの世界では指差して言いたい衝動をあまりにも簡単に打ち込んで公開することができる。衝動を発する私の動機が何なのかと言うことに対して、精査されず配慮に欠けたまま、ネット世界に垂れ流している。それは自分がやがてはまり込む霊界の罠を自分で用意しているようなものだ。霊界の実情をあまりにも知らないし、霊界に於ける御父母様の権能がどれほどのものか知ろうともしない。み言葉を知りながら本質を受け取れず、原理用語を使っただけの狭い宗教観、道徳倫理観で自分を枷に嵌め、広大な真の愛の世界観に立てないでいる。真の愛の中に許しも救いもあるのであって、御父様を一人の宗教家としてしか見ることができない、真の父母という概念を正しく受け取れない者達は霊界の真実を知らず、真の愛に保護されず、自分で自分の首を絞めている。

今日の想い 639

たとえ教会幹部の御父様への偽装報告があったとしても、それを御父様が信じられたとしても、それで子女様が解任させられるとしても、御父様の理解を得ようと詰め寄ったにも関わらずそれでも御父様が首を縦に振られることが無かった以上、引き下がって当然だろう。御父様だからだ。最後は御父様の判断に任せるべきだ。しかし彼らは御父様の判断を突っぱねた。御父様に従うことを拒んだ。その一点が狂っているから彼らのやること為すこと全ては御父様の願いに相反する。どれだけ正当性を訴えても、どれだけ論理的に説明しようとも、従わないという一点で反教会であり反真の父母だ。彼らの悲劇は、御父様が地上におられる間に悔い改めるべきだったがその機会を永遠に逃してしまったことだ。もはや悔い改めようにも許しを請う御父様がこの地上におられない。そうであれば、堕落の張本人になってしまったルーシェルが、悔い改める機会を逃して悪鬼の頭であり続けるしか存在の意義が見つからなかったように、彼らもまた、反旗を翻す姿勢を崩すことはない。頑なに取る彼らの姿勢に対して少しの不安でも覗かせようものなら、彼らは彼らの存在の意義すら否定されることになる。許しの特権を持っておられる存在を否定した以上、彼らに許しは無い。御父様の御聖和を反真の父母で迎えてしまった彼らだが、ただ一つの彼らの不幸中の幸いは、逆鱗に触れられた御父様を爆発されずに比類ない自己主管の力で身を修めておられたことだ。御父様が血を見れば恐ろしい存在になられることは察しが着く。彼らは血の犠牲を子々孫々にまたがり負うはめになったはずだ。御父様は怒りの感情を抑えておられたけれども、それでもこと直接関与する議題や関係した中心メンバーに接するときはその感情の一端を垣間見せられる。私は烈火の如き御父様の表情、御父様の目、御父様の行動を忘れることが出来ない。一般食口にしてみれば、早く引くべき馬鹿馬鹿しい裁判であろうし、それよりか伝道への意識を持つべきだと思うだろう。しかし後には引けない、引きたくてもそれを許さない御父様が私の中におられる。御父様が内側から皮膚を蹴破るようにプッシュされる。

2013年10月7日月曜日

今日の想い 638

生殖器は生命と愛と血統の本宮であり根源地である。要するに生殖器ゆえに生命があり、愛があり、血統がある。生殖器の創造が全ての創造の原点でもある。絶対信仰、絶対愛、絶対服従という言葉も生殖器に対しての言葉だと言われたのであり、それ程に尊い生殖器でありながら、しかし堕落も罪の歴史もこの生殖器故のことであり、生殖器は最も尊いけれども一方で最も穢れていて恥ずかしく思っている。御父様は堕落を、「逆さまにして打ち込んだ」という表現もされており、それはルーシェルの上にエバが乗り、本来下の位置で上から受け入れるものを逆さまにして下から入れさせたというお話と合っている。地上的な理解だと相手がルーシェルであったからそれは問題だけれども、上だろうが下だろうがどちらでも堕落は堕落だと思うのだが、霊的堕落に於いてはそれが深い意味を持っているということだ。ルーシェルは霊的存在で欲望も知恵も賦与されていた。エバの愛を奪いたいという過分な欲望がエバを誘惑し、しかし知恵あるルーシェルは自分で事に至らせたのではなく、エバを乗っからせてエバの意志で事に至らせた。エバは羽交い締めされて身動きできないのではなく上の位置で自由なのだからそこにエバの意志が働いたということになる。創造も堕落も生殖器が関わっているのだからもっと研究すべき余地があり、絶対性という言葉も私達が捉えているのは表面的概念であって、御父様の絶対性の概念は霊的勝利に拠る霊的深みから取り出されたものに違いないだろうから、もっと突き詰める必要がある。生殖器については、聖書では「取って食べるな」と、食べるという言葉を使われているように、御父様も「よく食べる」という表現も使われている。それは良い食べ方も悪い食べ方もあることを前提にした表現だ。相手さえ間違わなければ、不倫せず相対者を食べるのであれば、それは良い食べ方と言えるのかどうなのか。上か下かを厳しく問われた(指示された?)こともあり、それは絶対性とどうかかわるのか。事細かにこれは駄目あれは駄目と並べて教条主義的になれと言うのではなく、心魂の活動である思考感情意志として生殖器とどう向き合うのが御父様の願いなのか、どうすれば御父様の絶対性の概念に近付くことができるのか、私達は知っているようで実のところ殆ど知らない。

2013年10月6日日曜日

今日の想い 637

内的霊的なものが主体であり原因であり、外的地上的なものが対象であり結果だ。私達が誤解し易いのは、外的地上的な位置で内的霊的なものを考察するから、地上的見地での霊的様相であって、それは内的霊的な本質とは異なるということだ。霊界を素晴らしい別の地上界の存在だと信じたり、罪は霊的事実としてあるが欲望それ自体を罪だと信じたり、霊感が開かれれば地上で見たり聞いたりするのと同じように霊人の声が聞こえ霊人が見えると信じたり、信仰も生命も愛も血統でさえも、全て地上的見地から眺める捉え方であって本質とは異なっている。それは唯物主義とは言わないにしても唯物的な捉え方に近いだろう。霊的本質がわからないからみ言葉の本質を受け取れない。御父様の勝利圏がわからない。地上的見地で理解しようとするからわかろうはずがない。後天時代に入っても、基元節を越えても何も変わっていないと思っている。本当に内的霊的なものを主体にして生きれば、全く新しい世界に突入したのを感じ取るだろう。私達はどのように伝道の願いに応えていくのだろうか。どのように環境創造を為していくのだろうか。相も変わらず先天時代の意識を引き摺って、それは旧態依然の世界に執着することであり、伝道が難しく経済も難しく二世も立たず、御父様の霊的勝利圏に立って目を見張るような証しを立てる未来も見えない。継続的な毎日に流され、基元節前と後の変化と転換のクロスポイントを天宙では確実に迎えているはずなのに、自分の中に迎えられないまま同じ意識を引き摺っている。同じ意識を引き摺ったままみすぼらしい食口の姿を晒している。基元節が私の基元節になっていない食口達を見れば、霊的感性の欠如がこれほどに残酷なものかと思い知る。内的霊的なものがわからないならせめて信じる位置で、伝道や経済への否定的感情は捨て去ることだ。出来ない言い訳と否定的感情をひとつ、またひとつ際限なく取り出すより、大風呂敷を広げるにしても夢を語り希望を自らに語るべきだ。それは他に対してそういう態度を取ると言うよりも、自分という器を新しい後天開闢時代に相応しいものとして用意する為に、自分の内面から一切の否定的言葉と否定的感情を捨て去って夢と希望で内面を光輝かせることだ。私達が完成圏に、そして天の父母直接主管圏に入れるかどうかは私達第四次アダムの意識次第だ。

2013年10月4日金曜日

今日の想い 636(欲望というアクセル)

欲望という言葉を想起した時に、何かいかがわしい衝動であったり、メラメラと燃える自己中心的満足への渇望であったりして、信仰で否定して抑え込むべきものとするイメージが私達の中にある。確かに異性への肉欲も、過分な物欲も否定されて来た道ではあるけれども、だからと言って如何なる欲望も抹殺することが願われているのではない。創造原理にあるように、人間も天使長も創造本性として欲望と知能が賦与されていたのであり、欲望を抑え込むことは本性を否定することになる。欲望をいかに主管しながら、それは衝動をみ旨にプラスと為し善なる方向性に向かわせながら、否定して押さえ込むのではなく欲望の力をみ旨に利用できる私となれれば、それは自己主管していると言えるだろう。創造本性としての欲望を抜かれてしまい、去勢された牛や猫のような大人しいだけの私達なら、み旨への想い、復帰への執念も見当たらず、神様が最も愛すべき祝福家庭としての私達であるのに、ただ惰性的に歩む半機械化された私達に貶めることにはならないだろうか。欲望を肯定すれば自己中心的なものへ向かってしまうが、逆に否定すれば夢や希望さえも否定しかねないという狭間で、落ちることはないけれどもかといってみ旨に生命を燃やすこともない。そんな燻ぶり状態でここまで来たけれども、そんな位置がいつまでも赦されるはずもなく、そういう意味では今の混乱期は一方で憂える面があるけれども、かたや食口それぞれは主体的能動的に自分と御父母様との関係、自分の欲望とみ旨への関与を尋ねて再構築できる恩恵の面がある。み旨だみ旨だと呟きながら、蓋を閉じてしまって見ようともしなかった私の欲望が渦巻いている。今こそその欲望に対峙しなければならない。欲望こそが地上で生きる力だ。どれだけの食口が富への欲望、権力への欲望、さらに敢えて言うなら異性への欲望にさえ燃え立つ自分を感じているだろうか。一方で欲望というアクセルがあり、一方で理性や知能というブレーキがある。み言葉の実体を目指して方向を取るハンドルは、摂理を経て訓練されながら良心の力として備えられているはずだ。もちろんアクセルを吹かし続けるなら危険極まりないが、何かを成し遂げる為には欲望は大きくなければならない。去勢された者達が集められて天国はできるだろうか。それを地上天国と言えるだろうか。それは天国ではなく家畜が人間に変わった牧場に過ぎない。

2013年10月3日木曜日

今日の想い 635

以前にも記したように、人間ひとりが一つの人格のみを持っているのではなく、複数の人格を併せ持つ統一体だということだ。人間は実体に分立された形象的個性真理体ではあるけれども、それがひとつだけの霊存在だという意味とはならない。人によって程度の違いはあれ、自分の中に複数の人格を認める。私という自意識のもとに体が願う声を発する人格と、心が願う声を発する人格がある。さらにそれぞれの背後にも複数の人格が息衝いていて、それらを統合した声として肉の声、心の声を代表的に発している。私という存在の深みを掘り起こせば掘り起こすほど複雑系の私であることに気付く。物事の成り行きに於いても、それが善神の業か悪神の業かの判断が為されて水と油に分けられるようなものではなく、善神の業の中にも悪神の業が働き、悪神の業の中にも善神の業が働いている部分もある。どれほど残虐非道な行動であっても、そこに一分であっても善神の業が働いている。そしてどれほど清廉潔白な行動のようであっても、やはり悪神の業が働いている。そうなると、教会に所属し、教会の指示に従ってさえいれば全ての物事が善神の業で何の心配もない、とは言えないということだ。しかしそれでも教会内にいる私を自覚していれば御父母様の主管圏内ではあるが、第四次アダム時代を宣布されたと言うことは、教会に所属していさえすれば安全圏だとは言えず、自己の責任が追及される蕩減のない時代、即ち許しのない時代であり、御父様の心情圏こそが安全地帯であり私達はどうやって心情を相続し、心情圏に入ることができるかということに尽きる。いろんな顔を持つ私の中で、最も確かな私という存在は御父母様によって重生した私という核以外、他は寄生虫だと思った方がいい。しかし重生した私という核の正体を未だに知らないし、表面的な私が私だと思い込んで生活している。訓読するのも、み旨を歩むのも、祈祷するのも、重生した真の私を探し出す路程だと言ってもいいだろう。

2013年10月2日水曜日

今日の想い 634

表面的に見るなら、いままでの献金摂理で謳った内容と、新たな恩恵の為の条件との間に整合性を図る必要があり、辻褄を合わせようとすれば「恩恵の確認」というような複雑なものになるのだろう。確かに辻褄を合わせて置かなければ、いままでの恩恵の為の献金摂理は何だったのかと言うことになる。それは表面的に見てそう勘繰るのであって、指示を与える責任者が辻褄を合せるにしても、その背後に流れる本質は確実にある。人間的で表面的な勘ぐりや嫌気の感情に屈しない、そういうひとつの絶対信仰を立てた位置で受け取れる恩恵は確実にある。物質的には同じものを一人は数万円で手に入れ、一人は数百万円で手に入れて、それが物資的なものに過ぎないなら憤るのかも知れないが、食口、とりわけ日本食口は唯物論的価値観を越えて心情価値観に立とうとしている。今までの献金摂理でもこれからもその姿勢は変わることは無い。受け取る物が恩恵ではなくて、物は象徴であって象徴の背後にある心情を受け取ることが恩恵だと言う確固とした絶対信仰に貫かれている。物なのか心情なのか、感情なのか心情なのか、そこが徹底されている。摂理を進めて行く統一神霊の願いにどこまでも着いて行こうとする日本食口であり、その精神性は他に類を見ない。恩恵に与ることがそれほどに経済的犠牲を払わなければならないという事と、手に入れる恩恵の価値を物資的なものから心情的価値という高みをとらえる事とは相通じ合う。しかし高みに昇ろうとすればするほど、置いて行かれる者も数多く、彼らは今までの報われない犠牲、清算されない犠牲への訴えと共に反動的になってしまう。しかしそれでも摂理を進め、天の願う勝利基準に到達する為には絶えざる犠牲が必要であり、そうやって一握りの勝利者が、置いて行かれた者皆の犠牲を抱えて条件となし、全体的勝利をも齎(もたら)すのであって、それで初めて置いて行かれた者の犠牲も報われる。この世の人にとっては盲目的に見える一般教会員であり、一般教会員にとっては更に盲目的に見える特別の者達がいる。しかし彼らこそが御父様の心情圏の中心位置に立つのであり、彼らこそが信仰のない私を恩恵の中に引き上げてくれる。霊的なものが明らかになるに従って、統一教会や食口も、異様にも見えた摂理も、その本質が見えてきて認識は大きく変わっていくはずだ。