2013年12月31日火曜日

今日の想い 684

陽暦の2013の年が去っていく。摂理は既に陰暦を主体とし陽暦を対象とした天暦で回っている。よって1月31日が陰暦の正月となるこの一ヶ月のギャップ期間が非常に意味あるものとして関わってくる。人々の認識は既に2013年が清算されて新しい年を迎えるけれども、実はまだ清算が終わっていない。この気の緩みに足元をすくわれることになる。摂理感覚を研ぎ澄ませる為には、私達の体内時計を天暦に合わせることで、チグハグにならずに時の時に時の啓示が下りるようになる。啓示という言い方が大袈裟に聞こえるなら気付きと言い換えてもいい。個人に於いても家庭に於いても、そして国家に於いても世界に於いても、いつも以上に気を張って、この一ヶ月の間、事に対処することで2014年を希望的建設的に迎えることができる。地上的運勢の如何はこの一ヶ月に架かっていると言ってもいい。韓国に関することで言えばIMFとの問題があるだろう。そして日本は一連の韓国とのわだかまりもそのままであって、その上で首相の靖国参拝から始まる韓国通貨危機等への態度を量られるだろう。あるあると言われながらいつの間にかないような雰囲気になってしまった富士爆発と東南海地震。気が緩んでいる今こそ最も危ない。富士が流れると言われた訓読会で予言された御父様の言葉も、日本食口は忘れてはならない。アメリカはアメリカで、今のオバマ政権ほど頼りがいのない政権はない。オバマケアの問題を筆頭に次から次へと問題が噴出する訳で、国民の信頼を一気に失わせ、この大国が中心を持てずに分散してしまう懸念さえ抱かせる。それもこれもこの一ヶ月に集中している。新年への希望を述べたいのはやまやまだが、希望はしっかりと地に足をつけてこそ述べられる言葉であって、それがなければ只の妄想に過ぎない。でもこの一ヶ月に精誠を供え、その精誠を精誠として天が認めるなら、2014年の運勢大転回、天運をして一気呵成に頂点に上り詰める。そうなると、私達の現状に留まろうとする変化を嫌う姿勢こそ、天運の最も敵になる。用意された天運への扉を開くも止めるも私自身であり、私がキーを握っている。

2013年12月30日月曜日

今日の想い 683

訴えが棄却されて、司法の判断を仰げないなら何が、誰が、判断を下すのか。奪われたものは泣き寝入りに附され、声の大きい者が勝者としてのさばるのか。教会側は口を塞いで黙したまま、忘れたように2020に向けて歩み続けるのだろうか。それが本当に御父様の願いなのだろうか。内的霊的には教会が主体の位置に立っているはずだ。それでも国家の司法の判断に委ねようとされた、その意味は意味で問うべきだろうが、司法の判断と次元を異にする霊界の判断があるはずだし、天宙の良心が裁くはずだ。彼らの中では彼らの信じる良心をして辻褄が合うのだろうが、彼らが信じる良心が天宙の良心、神様と同じだと思わない方がいい。こんな説明が彼らに取って素っ頓狂なものであって、無視されて当然なのだろうが、しかし事実は事実だ。この事実を認識できないことが彼らが共産主義、唯物主義たる所以でもある。実際のところ彼らにとっては、司法によって貴方の行動はおかしいと判断された方が、霊界や神様によって鉄槌を振り下ろされるより遥かに楽だったはずだ。司法の判断に委ねるという意味はそれで許すことにするという減償法だ。内部分裂が起こった過程を見れば、教会側の傲慢さが無きにしも非ずと鑑みて、司法に委ねることを決定された。天宙の父母であられる真の御父母様が、霊界を動員できない、神様を動かせないとするなら、名ばかりの称号でしかないということだろうし、主体である霊界も無ければ神様も無力の神様でしかないということになる。しかしそうでないなら、これからいよいよ霊界の恐ろしさを思い知ることになるだろう。愛と赦しの神様から、怒りもし、恐ろしい神様の側面を見ることになるだろう。もちろん教会に属していればただそれだけで良しとされるものでは無いということは重々認識すべきだが、摂理の中心を担う教会に対して反旗を振るならそれを許しておかれる神様では絶対にない。しかし問題は別のところにもある。教会側でありながら、食口達の多くがあまりにも冷めた見方をしていて、御聖和、基元節の背後に流れてきた一連のこの問題に対して冷ややかな視線を送っていることだ。悔い改めの声が天に届かなければならないのに、食口のその悔い改めの叫びを天が取ってこそ天が力強く動けるだろうに、食口達が冷めている。天軍を受け入れるほどの燃える器になり得ていない。それを用意する為には、食口と言えども心魂の揺さ振りが必要で、眠っている心魂が天の心情に合わせて発動してこそ摂理は大きく進むはずだ。

2013年12月28日土曜日

御聖和を通して認識するもの

日本人は恥というものに対して特に敏感だ。性についても恥ずかしいという感情が先ず伴うのであり、そうなると原罪は性との関わり上、罪意識と恥ずかしいという意識とを混同しがちだ。罪と恥は同じ意味ではなく、罪の中に恥は含まれるのかも知れないが、恥は表層的感情の一部であるのに対して、罪は心魂の奥に潜む自己を悪に向かわせる見えない実体であり事実だ。罪を表層的恥と認識するに留まり、罪の本質を認識し得ない場合が往々にしてある。特に日本食口はそうだ。罪を表層的にのみ捉えてしまい、よってみ旨に対しても表層的な、心魂の奥にある罪に蓋をしたままの外的歩みに留まり、罪の許し、罪の解放の本質的意味がわかっていない。家庭円満、世界平和のイメージは描けるけれども、罪がわからず、罪の許し、罪の解放が為されなければ私は実は平和とは無縁の存在だ。無私の心でみ旨に殉じている私だと思っているのかも知れないが、無私どころか私という存在に執着し過ぎるが故の動機が行動になっている。霊界の門を通過するのに、罪の清算をして通過する訳だけれども、食口であるにも拘わらず、吐露すべき罪がわからず口籠る場面が多く見られる。恥ずかしい認識は持っているけれども罪の認識がない。多くの負債を神様に対しても御父母様に対しても抱えているのにその認識がない。罪が生じた堕落は肉的堕落の前に原因的霊的堕落がある。人が罪を犯す場合に於いても、外的で地上的な説明ができる罪を犯す前の段階で、私の中に内的に戦わずに居座ることを許した自己中心的思いや感情がある。食口の誰が、御父様の早まった御聖和に対して私の責任だと痛切に胸を打つものがいるだろうか。私の責任でもあるけれども皆の責任だと言うのは都合上のことであって、実際自分の責任だとは思っていないし、あるとするその責任感情も実に抽象的だ。しかし私の中にこの結果をもたらした内的原因、私の責任が必ず存在している。それをつきとめて悔い改めない限り、次には進めない。私も日本食口として罪の認識が甘いことはよくわかっている。しかし御父様と共に歩み、御父様に委ね、御父様から許しも祝福も戴いた事実のある実体の私だからこそ、この御聖和に対する私の責任を見出せる。それが私にとっては抽象的な堕落論の罪よりも実感的罪であり、実感的負債であり、だからこそ本当の意味で悔い改めることができる。そして本当の意味でみ旨に生きることができ、み旨の為に死ぬことができる。

2013年12月27日金曜日

今日の想い 682

私は心配しすぎることで心を病む。心を病むと暫く不安定な精神状態になる。不安のオバケに取り付かれる。神様がいない、霊界の存在を知らない、かつての、み言葉に出会う以前の発狂しそうな状態とは比べものにならないけれども、それでも不安の思いが後から後から襲ってくる。畳み掛けてくる不安と戦いながら、それで守りの姿勢に入ってしまうと益々自己中心的な位置から抜け出せなくなる。より公的な意識を取り戻さなければ全体あっての個であることを否定したことになる。自己中心的な在り様は人それぞれであり、絵に描いたような勧善懲悪の図式に無理にはめ込んで、その都合上の悪を自己中心的と受け入れている稚拙な者は流石にいないだろうが、それでも食口の中にも自分の感情の判断に任せて実に単純に善悪を分けている者もいる。自分の中に既に善悪混同が起こっている存在であるのに、善の立場に立たされれば自分の中に悪がないかのような錯覚でいる。教会は勿論善の立場であるけれども、教会の中にいる私も善だという認識は大きな錯覚だ。そんな錯覚が教会を御父母様願わないあらぬ方向へ向けさせる。私の中に蟻の大群のように不安存在が押し寄せて自己中心的な守りの姿勢に益々収縮するように、教会の中の食口一人一人が教会に対して不安を抱けば、教会全体は自己中心的な方向へ向かい教会活動は小さくなってしまう。為に生き、犠牲精神を御父様から学んだはずなのに、それが生きた言葉として教会の中に息衝いているだろうか。不安と、恐れと、慄(おのの)きと、更に恨みと、妬みと、裏切りと、そんな堕落的要素が教会内にも蔓延してしまった。そうなると善悪に分けカインアベルに分けざるを得ない。論理や説得にどんなに言葉を尽くしたとしても、そこに愛がなければ愛に代わるそれらの堕落的要素が根底にある。グループ派の言葉を受け取れば受け取るほどに空しくなるのは私だけだろうか。彼らから愛という言葉はあまり聞かないが、彼らが愛だと信じているものはただの慰めのように思える。しかし分けられたのであれば、本道である教会の内から堕落的要素は一掃されて御父母様と一体となるべきだ。相も変わらない教会様相であるなら分けられた意味はない。しかし一貫して言えるのは、食口は基本的に傲慢だ。自分は善だと思い込んでいる者が殆どだ。食口は霊界に行ったとき、先ず己の醜さに辟易するはずだ。全食口の中で本当の意味で悔い改めた者はどれほどいるだろう。祝福家庭という選民意識がどれほど鼻持ならないか。今私は心を病んでいる。心を病んで自分の腐れ切った霊的贓物に吐き気をもよおしている。それでも平気で御父母様の御名を口にする、救い様のない穢れの存在だ。

2013年12月25日水曜日

御聖和、基元節、そして一連の裁判

私はこの一連の裁判に対して、兄弟達にはもっともっと強い関心を持って欲しかった。それはこの内部分裂が直接的原因となって、基元節を待たずに早められてしまった御父様の御聖和であることは明らかだからだ。御父様は私達に一言もなく、最後の接見もなく、忽然と逝かれてしまった。イエス様はゴルゴダの丘の上で皆の視線を浴びながら昇天されたけれども、再臨の御方は狭い治療室の中で、皆から注目されることもなく昇天された。揶揄も混じってのことであったが、ユダヤの王としてイエス様はローマの片田舎で逝かれ、再臨主であられる御父様は万王の王、世界の王としての称号を抱えられながら世界の片隅、しかし祖国韓国の地で逝かれた。世界中から兄弟達が集まった厳かな聖和式であっても、久方に会う兄弟達と談笑もしたし、式を終えてしまえば食口それぞれ日常は日常で繰り返された。一年も過ぎればもう聖和の意味を敢えて問うこともしないし、御父様がおられない地上を当然の事のように生活は営まれていく。復活されたイエス様は三々五々に去っていった弟子達を集められ、ペンテコステを受けての爆発的聖霊の役事が彼等を世界伝道へと駆り立てた。一方、再臨の御方に従い歩んできた、成約聖徒である私達はどうだろうか。御父様が霊界の全ての塀を取り壊されて霊的不通を解消されながら、しかし兄弟それぞれ、それぞれの気の合う霊界でまたしても塀を作って不通の状態に戻そうとしている。前にも記したように、現代のペンテコステは何か起こる事を待ち、何か受け取れるものを待っていても棚からボタモチは落ちず、ペンテコステは誰でもない私が起こすのであり、聖霊実体であられる御母様と一つとなって私達が聖霊役事として働く。御父様が遺言とまで言われて残すべき全てはみ言葉の中に残されながら、それを投げ置いて何か別のボタモチを求めてはいないか。全てを与えられたのにそれは横に置いておいて、まだ何かあるはずだと口を開けて待っている。クリスチャン達は空を見上げて待っていたけれども、幼くも悲しい食口達は口を開けたままで待っている。摂理観からすれば全ての起こる事柄に蕩減的側面があると同時に責任分担的側面がある。過去の清算の側面と未来の建設的側面がある。その摂理観からすればこの一連の裁判に対しても、やはり蕩減的側面と責任分担的側面の両方がある。おそらく多くの食口達にすればこの裁判と言う途方もない金喰いお化けに対して嫌気さへ覚え、口にすることも避けたいほどだろうけれども、こんな非建設的なことは忘れて新しい出発をと誰かに爽やかに言われれば着いて行くのだろうが、それは明らかに摂理観から外れている。清算すべきものはしっかりと清算すべきであると同時に、この一連の裁判の中から新たな希望的光が見えてくる。必ず見えてくる。御父様の、あの目配せされるような誇らしいお顔が見えるようだ。他でもないこの如何にも非建設的な裁判を通して、新たな希望の種が芽を吹く。それを無視するのであればそれこそ私達に希望はない。暗闇は夜が明ける直前にこそ最も深まるものだ。だから私は敢えて言いたい。兄弟達にはこの一連の裁判に対してもっともっと強い関心を持って欲しい。外的にどうのこうのと言うより、内的霊的意味を深く問うて欲しい。御聖和、基元節、そしてこの一連の裁判、この三つは私達が次元を上げて新しい世界に突入する為のキーワードだ。

2013年12月24日火曜日

今日の想い 681

裁判所は、管轄外の問題だからという理由で、訴訟に持ち込まれても困ると逃げの姿勢を示した。しかしこれで最終結論とはならない。戦いはこれからだ。被告側は教会幹部によって教会財産は牛耳られていたと申し立て、原告側は御父様の指示通りに運営されていたと申し立てた。しかし被告側は狡猾にも法が裁かない位置で行動に出て、明らかに教会財産を手中に収めた現実がある。被告と原告は内的に見れば兄弟の位置関係にあってお互いが主張すれば平行線を辿り続ける。よって親の位置におられる御父様にお伺いを立て、それに従うのが内的霊的に正しいことは食口であれば誰でもわかる。被告は明らかに御父様の指示を無視し、現行法を傘に教会財産を奪った。彼らはありとあらゆる言い訳を付帯しているが、反御父様であることに違いはない。たとえもし教会が特定の幹部によって牛耳られていたとしても、御父様の指示を先ず仰ぐことはそれらの事案を越えて為されるべきだ。彼らの行動は正義の面を被った恨みの感情が動機となり、感情を越えた位置で御父様に絶対服従を立てる統一食口としての本分を投げ捨てている。彼らの恨みの感情に対して教会財産を奪ったことへの恨みで対しても埒は明かないが、協会側は恨みで訴訟に持ち込もうとしたわけではなく御父母様の指示に従い行動に出た。彼らは教会側の敗訴だと騒ぎ立てるが、教会側に敗訴も勝訴もない。御父様の心を煩わした時点で既に多大な負債を負っている。敗訴でも勝訴でも負債は負債で心情に重く抱えている。裁判所の結論が私達の結論ではない。私達はこの御父母様への負債を抱えながら、現実は現実として甘受しながら、内的霊的な柱を更に強くすることが願われている。敢えて言うならこの結果は結果で私達の意識をより霊的深みにもたらし、善なる動機を更なる善の動機とすべく良薬を与えて戴いたことになる。御父様が打たれた位置でサタンから奪い取りながら勝利の布石を打ってこられたように、私達も打たれた位置でこそ彼等から奪い取るものがある。必ずある。知的で論理的で現実的な彼らは奪い取られる霊的生命の価値を知らない。勝利したと喜びながら霊的に欠けていくものを認識できない。御父様に言わせれば霊を認識しない共産主義者達だ。共産主義者達は革命闘争を進めていきながら平和理想の実現を果たしている幻想に身を置いた。被告側であるグループ派も同じようにその活動を進めていきながら、平和理想を果たしている妄想に身を置いている。彼らは御父母様不在の活動が何を意味するのかわかっていない。御父様は文明に私達と共におられる。私達の中に太い霊的柱として立っておられる。御父様を口にするだけの中身のない張りぼて存在なのか、御父様が私の中に核として立っておられる存在なのか、表面的外的なものが透き通って行けば行くほど、その正体が暴かれる。後天開闢時代はそういう時代だ。彼らは霊的死の淵を見ざるを得ない。その霊界の事実を知らずに目を覆ったまま崖っぷちで踊っている。

2013年12月22日日曜日

今日の想い 680

何をするにしても片手間で為せるようなものは一つもない。一つの事柄に100%投入して、それでも結果として満足いくものかどうかはわからない。ましてやこれも手を付けあれも手を付けでは意識も力も分散して、結局尊い時間だけを無暗に消費することになる。私達には多くの事柄が願われていることは確かだ。天国建設の為に献金もしなければならない、伝道もしなければならない、氏族復帰もしなければならない、社会で頭角も現わさなければならない、しなければならないことは山のようにある。しかし、今まで兎に角抱えるだけは抱えて歩んできたけれども、30年、40年を費やして何を残しただろうか。私達はいい加減白昼夢から覚めて、具体的歩みに関しては蛇のように賢くあるべきだ。願われるものが山ほどある、という事と、成し遂げる為には一つの事柄に100%投入しなければならない、という事と、その逆説とも言うべき両者をどう成り立たせるのか。一つの事柄に100%投入しなければならないけれども、実は残りの事を捨てる必要は無い。この世でも成功者と言える人々は意識分散型ではなく意識集中型なのは間違いないが、一つの事柄に集中する過程で別の事柄も手中に収めている。ようするに自分の優先的願い、優先的使命が何なのかを把握し、その願いを全うする過程で他の願いも手中に収めていく。自分の事は見通せなくても他の人の事は客観的に見れる。共に歩む兄弟達を見ながら気付かされたことがある。或る一人の素直で信仰的な兄弟がいて、店の事も或る程度任せることができ、それなりの位置も与えたしそれなりの給与も与えた。店の事をこれから責任を持ってもらおうとした矢先に、氏族復帰の為に辞めて日本で歩むと告げられた。他の兄弟と同じように、彼にとっても店は働く場ではあるけれども100%投入すべき使命の本筋ではなかった。私のようにこの店が死ねば私も死ぬと言えるほど思い入れを持ってはいなかった。彼の氏族復帰への決意を否定している訳ではない。彼が100%投入すべきものがそこにあると言うのであれば、祝福して送り出して上げたい。しかし彼もまた来ては去っていく一人の従業員に過ぎなかったという寂しさは拭えない。私の気持ちなどどうでもいいが、彼が決意した以上、ここでの結論が雇われ従業員だったと同じように、新しい歩みでも同じように雇われ氏族復帰、雇われ伝道、にならないようにと祈るばかりだ。彼の私への宣告で私は決意を迫られる。私はカインとしての本筋を更に極めて行く。

2013年12月21日土曜日

今日の想い 679

神様が人間を創造されたのは愛する対象を求めたから、すなわち愛の為に創造されたと私達は学んだ。愛の為であるから必要に迫られて創造されたのでもなく、人間創造を当然の成り行きとして創造されたのでもない。人間を創造しなくても神様は何の困ることもない。よって創造されたのは愛の為、という以外言いようが無い。そして愛とは真の愛であり、それは完全投入の愛だ。完全投入とは対象に対して完全投入であって、身を切るような想い、というより事実自分の身を切って対象に与えられた。私達は霊的な実質はよくわからないが、肉的な実質を分け与えることの痛みはよくわかるはずだ。自分の肉を切って与えることを思えばいい。目の一方をえぐりとって与えることを思えばいい。臓器を与えることを思えばいい。自分と一つである大切な家族の一人を与えることを思えばいい。霊的実質を与えることは肉的実質を与えること以上のはずだ。神様が人間を創造されたとき、神様の霊的実質を分け与えられた。私達は霊的無知でわからないけれども、私達の心魂の奥には神様が御自身の実質をえぐるように取り出して分け与えられた宝を戴いている。私達はその宝、神様から与えられた霊的実質に対して二通りの対し方がある。一つは霊的事実がわからないままにその宝を放っておいて自己中心的に生きるという対し方。今一つは霊的無知を克服しながら与えられた実質を認識し、向き合い、そして心魂の歩みを通して磨き、実質以上の実質に育てて神様にお返しするという対し方。勿論堕落したこの身では霊的無知を克服することですら難しい。ましてや実質以上の実質に育てるという個性完成の道のりは遠く険しいことはわかり切っている。しかし、だからと言って自己中心的に生きることを選べば、霊界の存在になったとき分け与えられた実質の尊さを知り、それを蔑ろにした生を送ったその悔恨の痛み苦しみは計り知れないだろう。私達はどれほど遅々とした真の愛の存在を標榜する歩みであったとしても、それでも踵を翻して自己中心的に生きるよりは余程いい。遅々とした真の愛への歩みであってもそれが次なる世代の土台になるからだ。40年を費やして、やっと自己中心的な位置から二、三歩のみの前進であったとしても、それでも諦めない。必ずや神様の心情圏にワープする瞬間を迎えるはずだ。どんな人間であっても神様の実質を心魂の奥に宿している。その実質を尊び、実質に語りかけながらみ言葉を伝えるのであって、その人の条件や心魂内容を相手にしているのではない。だから伝道は霊的であり、霊的な戦いでもある。相手の霊的実質を揺り動かし、思考や感情という心魂に波打つものを起こさせない限り、相手は眠ったまま私の働きかけから通り過ぎていく。

2013年12月18日水曜日

今日の想い 678

信仰が絶対信仰に至る為には何が必要だろうか。私達に信仰がない訳ではない。確かに信仰は持っている。しかしそれぞれの信仰基準にはバラつきがあるだろうし、統一食口全体の信仰と宗教それぞれの信仰度合いを比べた時に、私達の全体信仰は彼らに勝っているだろうか。食口それぞれに於いても、復帰された頃から今まで歩んだ結果、信仰はより強くなったのかそれとも弱くなったのか。信仰が絶対信仰に向かうのであれば、この世のどんな信仰者よりも強いはずだが果たしてそう言えるのだろうか。日々の歩みの中で信仰は鍛えられていくものだろうし、試練を与えられてぶつかる度に信仰はその強度を上げていくだろう。しかしその実感、信仰が強くなって絶対信仰に向かっている実感を私達はどう受け取ればいいのだろうか。
「今から皆様は、真の父母様の教えを骨に刻みつけて実践する人生を生きなければなりません。選択の余地がありません。今から準備しなければ、間違いなく落伍者になるからです。七千メートルを超えるヒマラヤ山脈を往来し、越冬する鶴(アネハヅル)の勇気と気概を私たちも学ばなければなりません。」(天地人真の父母定着実体宣布天宙大会)
このみ言葉にあるように、一方では後天開闢時代という輝かしい未来を私達に約束された表現をされながら、しかし一方で、落後者になるからヒマラヤ山脈を越えるほどの困難を越えなければならないと語られている。異なる両極端のイメージを語られているようにも思われるけれども、要するに私達が胸を撫で下ろして、そのまま平坦な地上的幸福を送ると言うような、そんなイメージを基元節以降の後天開闢時代に抱かない方がいいと言うことだろう。信仰が絶対信仰に至る為には大小の試練を越えてこそより絶対信仰に近付くものだろう。私達は今勇気と気概を必要とする歩みをしているだろうか。アネハヅルの勇気と気概を学べ、と言う御父様の言葉が実感を持って私に迫ってくる、そんな試練の場に立たされなければこの言葉は単に素通りするだけだ。敢えてこのような表現を使われたという意味は、勇気と気概が必要になる試練の場に私達は遭遇することを暗示されているように思える。

2013年12月16日月曜日

今日の想い 677

特定秘密保護法案については十分な論議が為されず、国民が疑問や不安を抱えたまま強硬にも採決に踏み切った、と大ブーイングだが、粗探しすることばかり、国民の不安を煽ることばかりに己の存在意義を置いている日本のマスコミこそ、大ブーイングをかけるべきだ。こんな不良マスコミをのさばらして置くことに何の疑問も覚えない日本国民は、日本国としての魂の柱を失っていることにも気付かない、何とも情けない状態になってしまった。今の日本人に国としての精神は宿らないのだろうか。国を憂えるという言葉は死語なのだろうか。自己中心的に生き永らえるだけの蠢く群れに過ぎないと、日本人の誰も思わないのだろうか。自分の死んだ目に気付かないのだろうか。反戦教育、自虐史観、権力は悪という観念、あらゆる欺瞞の中で欺瞞を認識できずに欺瞞の雲を足場だと思っている夢遊病者の群れが日本人の姿だ。そう言った日本人に対して霊的柱、精神的柱になれる存在は日本食口しかいないだろう。献金も忙しい、伝道も忙しい、献金伝道が願いだとそこに全神経を注入する食口のみが食口なのだろうか。国を憂い、国を立てたいと義憤する憂国の志士は食口の中にはいないのだろうか。勇敢にも共産主義者と戦った、あの尊敬の眼差しで仰ぎ見た先輩食口の後継はいないのだろうか。ここアメリカで活動していても私は日本人だ。日本人の精神を持っていればこそ世界人になれるのであって、日本人を捨てて世界人になるのではない。今の日本の状況を知れば知るほど悲しいのを通り越して情けない。反教会メンバーやグループ派はそういった腐った日本のマスコミの在り様をそのまま受け継いだかのように、粗探しに躍起になっている。三行半を押し付けたなら未練がましく嘴(くちばし)を突っ込む必要はないだろうに、正々堂々と我が道を開拓するのに忙しくて別れた相手の動向を気に掛ける暇などないだろうに、それでもやっぱり離れられないらしい。教会のことが気になるらしい。日本のマスコミは心の底では日本が倒れることなどあり得ないという奇妙な信仰を持っていて、その上で国と政府を突きまくる。国民の不安を必要以上に煽いでまで存在意義を認めて欲しいと駄々をこねる。教会反対派だと自認する者達もマスコミと同じで、マスコミが国があってこそ存在できることを無視しているように、反対しようが賛成しようが自分の存在意義がみ言葉をして成り立っていることに彼らは気付いていない。教会が完全に崩れ去るなら、彼らも教会と共に存在を失う。教会がもし崩れ去っても、教会の中に息衝いていた御父母様の精神を相続している者は教会を越えて残っていく。

2013年12月15日日曜日

今日の想い 676

夫である私がドナー登録して、同じような血液型が合わない生腎移植を願う他の夫婦との間で、血液型がお互いに合えば交換させて移植する、というマッチング移植がある。それも随分考えてみたが、私が差し出す分には何の躊躇もないが、もしどちらかが失敗したときのことを考えるとどうも踏み込めなかった。そして結局カダバー(死体)のドナーを待ち続けること4年に渡った。初回の移植から丸7年かかって今回の移植に漕ぎ着けた。カダバー移植の場合、ドナーの状態で移植後の臓器生存率は大きく変わってくるし、移植後の生活状態も変わってくる。妻の初回の場合、移植を受けられたことは本人も私も十分感謝しているが、すっかり元の元気な姿に戻ったとは言えなかった。最初の3年間透析こそせずに済んだものの、慢性貧血は以前変わらず、腎臓が造る造血ホルモンを補う注射が必要で、取り敢えず生きる為の移植であって生きて何かする為の移植とはならなかった。そうして3年持ち堪え、再度の移植登録が認められる腎機能数値の悪化から4年、合わせて7年間、浅い呼吸を繋ぎながら細々と生きながらえてこの度の恩恵に与った。今回の移植に当たっては、妻も私も初回以上に大きな天の計らいを感ぜずにはいられなかった。ここ2年間、登録の順番が回ってきて、かれこれ10回位の合致ドナー出現の連絡があった。初回の時は2回目の連絡があって決定がなされ、手術に踏み切ったが、今回はなかなか決まらなかった。連絡を受ける時はドナーの腎機能の数値と亡くなられた経緯を伝えられるのだが、こちらはOKであってもセンター側はより合致していてより成功率の高い登録者に宛がうのであり、或いはセンター側はOKでも亡くなられた経緯に問題があったりするとこちらは引かざるをえなかったり、そんなこんなで順番は回って来てもスムーズに行かず、ひょっとしたらもう難しいかも知れないというところまで来ていた。そういう経緯があった後の今回の恩恵は、劇的であり、摂理的であり、霊的であり、更に受胎告知の氏族メシヤ版とも思える出来事だった。ドナーのこともあってここで事細かな詳細は控えるが、私達夫婦にとって、家族に取って、そして氏族に取って、初回を初臨とするなら再臨の出来事と言える全ての転換点をこの移植手術で迎えたことになる。

今日の想い 675

体の中に備わった新しい臓器に対して、他の臓器達が得体の知れない新参者が割り込んできたとのけ者にし、虐めるのが拒否反応だ。体が拒否反応を大きく起こせば新しい臓器はひとたまりもない。そこで抵抗を弱める為に服用するのがアンチリジェクションの薬だ。この薬の進歩の御蔭で移植手術の成功率は格段に上がった。しかし薬は薬、一方に効けば一方で副作用が起こるのは当たり前で、アンチリジェクションの薬を服用すればインフェクション、感染の可能性は一気に増す。体の抗体を弱める免疫抑制剤である為に、通常なら軽い風邪で終わるようなものも抵抗の弱い体には瞬時に感染して症状は大きくなる。症状が劇的に悪化すれば所詮新しい臓器にも影響が行く訳で、拒否と感染にどちらにも転ばないようにという手探りの投薬がしばらく続く。医者は拒否反応を嫌う訳で、勿論本人もそれはそうなのだが、どうしても服用は多めになる。よってどうしても或る程度の感染は避けられない。特にもともと胃腸の弱い妻は直ぐに腹にくる訳で、下痢は止まらないし、どこまでももどし続ける。腹の中に戻すものが無くてもそれでも体から水分を抜き取ってもどす。見るに忍びないが代わってやることはできないのでどうしようもない。一度は退院してからも直ぐにも感染し、症状が一気に悪化したため退院した二日後にはまた救急に運び込まれた。外的状況をどれほど理解しようが、痛み苦しみを甘受するには限度があって、それでも否応なしに痛み苦しみが襲ってくるなら外的な位置からではなく内的な位置で越える以外ない。痛み苦しみを甘受できるように内的救い、内的姿勢を見出さざるを得ない。それは信仰的にならざるを得ず、神様に向き合わざるを得ないし霊界の事実を受容せざるを得ない。流石に我が強いというか自尊心の強い妻も、自分は悪くないというこれまでに肩肘張って譲らなかったものを壊さざるを得なかったのだろう。これまでにない素直に天に自らの在り様を問うてみたり反省する様を見ると、神様は誰に対しても、どれだけ意地を張っていても、魂の救い、霊の救いに対して匙を投げることはないのだなと思わされた。体を悪くして吐くときには実に辛いものがある。本人によると内容物がないのに更に吐くとなるとこれほど辛いものはないらしい。小さい頃の経験だが、何か悪いものを口にしたのか夜中から腹がムカムカして苦しい。どうしても我慢できずに吐きそうになると、隣で休んでいた祖父が洗面器を持ってきてくれて渡してくれた。半分体を起こした状態で洗面器に口を宛がうと、その時祖父からこう言われた。「ちゃんと起きてかしこまって座り、手は膝の上に置き背は伸ばして、それからもどしなさい」と。言われた通りにすると、体の大変さは変わらないはずなのに吐くことに清々しささえ覚えた。姿勢は姿勢で、姿勢に心が従うように出来ていることをこの時祖父から教えられた。それ以来もどす時は、切腹でもするかのように、必ず姿勢を正して事に入る。もどすことは、与えて更に与える、犠牲を供え更に犠牲を供える、そんな他に投入する自分の在り方を身体的に象徴的に体験している。与えて更に与えてこられた神様の疑似体験ともいえる。痛みと苦しみの只中にいる妻に、こんな話をしたらどう思うだろうか。

2013年12月14日土曜日

今日の想い 674

絶対、唯一、不変、永遠の神様であられるけれども、最初からそういった様相の神様として存在しておられたのかどうか。最初からという過程の話となると、時空を超越されて存在される神様には当て嵌まらないと言えるのかも知れないが、では神様は何の苦労もなく当たり前のこととして絶対、唯一、不変、永遠の存在でもともとあられたのか。「神様が完全であられるように、あなた方も完全でありなさい。」という聖句。さらに、「神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従されたのであるから私達も絶対信仰、絶対愛、絶対服従に立たなければならない。」というみ言葉。ここでは特に絶対について述べるとすると、神様が何の苦労もなくもともと絶対の存在であられたなら、子女である私達に親である神様が絶対存在となる為に苦労を強いられるだろうか。それは私達が堕落した存在であるから絶対を復帰する為に苦労が必要なのであって、本来アダムとエバが堕落しなかったなら苦労せずとも絶対の位置に立てたのだろうか。堕落していないアダムとエバにも責任分担は与えられたのであり、責任分担とは犠牲なり精誠なりそう言った投入する苦労、いや労苦があってこそ責任分担という言葉は成り立つはずだ。戒めを守るという責任分担には、堕落が偶発的に起きた事件事故では片づけられない、アダムとエバが彼らの責任に於いて完全投入すべき事柄(おそらく犠牲)が既に含まれているように思える。堕落以前のアダムエバの立場でも、堕落人間が復帰する過程に於いても、位置と立場は違えども責任分担は責任分担として与えられている。自己の責任に於いて完全投入すべき状況は変わらないということだ。そうであるなら、神様が親の立場でアダムエバが完全投入すべき内容を越えて余りある内容を、絶対的に供えられた位置に立たれておられるから彼らにその試練とも言える立場を与えられた。神様は絶対という概念を属性として備えられる為にアダムエバと人類を越えて余りある絶対信仰、絶対愛、絶対服従の過程を既に供えられた。私は絶対信仰、絶対愛、絶対服従というその言葉の位置を仰ぎ見る以上に、絶対信仰、絶対愛、絶対服従への過程の中にこそ「心情」は詰まっているように思われる。その位置を仰ぎ見て溜息をつくよりも、その過程に足を踏み入れ、果てしない遠い道のりであっても確実に足を前に出すことで、絶対存在に至った神様の心情の一つ一つを受け取れることに注目したい。そして、そのことの尊さを大事にしたい。その心情という観点に立つなら、位置の上下、罪の多少、立場の違い、全てに関係なく平等に与えられている。否、意外と位置が低く、罪が多く、悪い立場の方が心情は手の届くところに転がっているのかも知れない。

2013年12月13日金曜日

今日の想い 673

御父様は霊能者ではない。霊能者である必要もないし霊能者であるべきでもない。霊能者は地上から霊界へお伺いを立てる位置であり、預言者は霊界(ここでは高次の霊界、神界)から地上に言葉をもたらす位置に立つ者を言う。預言者かと言えばその部分も持ち合わせておられるが、しかし預言者の位置に立たれる御方ではなく再臨主であられ天地人真の父母であられる。預言者が預言する御方、その御方自身であられる。ましてや霊能者などではない。霊能者は地上の声を霊界に届けてそれ相応の霊的存在にお伺いを立てる訳だが、この霊的存在が実に曲者で、問題を解決させる代わりに霊的生命の部分を差し出す場合が往々にしてある。殆どの霊能者が霊的生命を差し出す形で問題を解決させている。高利貸しみたいなもので、一時問題は解決したように思えても、後々になって返ってより大きな問題を抱えるのが常だ。その意味では清平は特別な場所だと言えるが、清平でさえもそれ相応の精誠が必要であることは皆知っている。前に記したことがあるが、ワシントンに来られた時、ダイニングで御食事を配膳し用意していて二階から御父様が下りてこられた。誰もいないそのダイニングで御父様と私だけで誰もいないという場面に出くわしたわけだが、私が視線を御父様に投げかけると御父様は即座に私から視線を外された。一瞬無視されたようでその事が私の中で暫く尾を引いていたのだが、それは私だからそうされたのではなく、できうる限り誰に対してもそうしておられることを知って安堵した。見ようとすれば背後の霊がいくらでも見えて訴えかけてくるから、敢えて見ないようにして遣り過ごされる。一人一人、そして一つ一つの霊に関わっていれば公的な使命は後回しになってしまう。そしてそれは御自身のこと、御家庭のこと、御氏族のことについても同じように公的使命を常に優先され、自分で自分の安易な道を霊視されて判断するようなことは敢えてされない。霊界を全て御存知の御父様であるのに、恰も未来が見通せないような判断を何故されたのだろうか。失敗するようなマッチングをどうしてされたのだろうか。そんな疑問が湧くのも仕方のないことだとは思うけれども、霊能者のように、それも自分に都合のいいように或る霊的存在と談合して事を進めるような、そんな自己中心的位置に立ってはおられない。あらゆる事柄に対して公的な位置を貫き通された御父様であられた。蕩減路程を公式路程として立たせることが御父様の使命であり、都合が悪いからといって自らの権力でその公式路程を崩されるようなことはただの一度もされなかった。アメリカの黒人イスラム組織の指導者、ルイスファラカン氏への御父様が為された逸話は、アメリカにいる食口なら皆知っているだろう。ファラカン氏に癒しを与えられたのは彼個人として与えられたのではなく、やはり公的な位置で与えられたものだったはずだ。私の知る限りでは御自身にされたことも、御家庭にされたことも、食口に施されたこともない、一度の肉的癒しだと思ったのだが真相はどうだろうか。

2013年12月12日木曜日

今日の想い 672

地球は自転している。自転しながら夜と昼を交互に迎えている。しかし自転するだけでは夜と昼を交互に迎えられない。太陽との関係、すなわち太陽の周りを正しく公転することでそうなっている。自転公転とはよく言ったもので、自転はより私的であり公転はより公的であって、公的公転が為されない限りどれだけ自転しても夜昼の正確な一日一日は存在しない。その点を考えてみても、私という存在がどれだけ自分の願いを中心として生きようとしても空回りするばかりであり、公的な願いを中心として生きることで夜の原因的な心魂の深淵で受け取る霊的事実があり、昼の結果的な地上で花や果実という現実を受け取れる。神様と関係なく、霊界が何かもわからず、そんな地上の人生は平面的人生であって、生きているとは名ばかりの生だ。それに比べて心魂の深淵を旅し、その深みの更に奥に広がる霊界をも旅しながら歩む人生の何と味わい深いことか。地上の感覚世界に限られた生を送る人達にとっては私達の立体的な超感覚的味わい(心情世界)など知る由もない。同じ外界を同じように見て聞いて感じていると思っているけれども、異なる受け止め方をしていれば住む外界が異なっている。さしずめ、神様と関係もなく霊界が何かもわからない平面的人生は死んでいる外界に住んでいると言うことができ、神様と関係を持ち霊界を実感する立体的人生は外界の物事全てが生きて関わってくる。外界が声を発せなくても、動かなくても、それでも生き生きと私に関わってくる。地球が自転し、太陽の周りを公転しているという科学的イメージ先にありきでは、生きて私に働きかける宇宙ではなく死んだ宇宙としての宇宙の鞘(さや)しか受け取れない。確かに宇宙の鞘も大切で、鞘としての考察が宇宙科学を発展させたのも確かだが、しかしそれ以上に宇宙の本質の方が遥かに大切だ。本質が重要視されてこそ鞘を問う意味もあるのであり、科学に対する宗教が本質そのものとは言わないが、科学も宗教も超越できるみ言葉であって、み言葉を正しく受け入れることで公転すべき中心的存在、太陽存在を見出せる。私の中に御父母様を中心の核として迎えることが、すなわち私にとっての公転すべき中心存在、太陽存在を迎えて正しく自転できる私を創造している。

2013年12月11日水曜日

韓国と日本

韓国では日本に対する非難の声、日本では韓国に対する非難の声が盛り上がっていて、摂理がわかっていれば母の国日本と父の国韓国は一体とならなければならないのに、かつてない犬猿の関係をどうしたものかと思うだろう。しかしそれが今の現実であることはその通りだ。現実という響きには致し方ない投げ遣りな感情があるのだろうが、摂理を知りみ旨としての日韓関係を築こうとするならそこに留まっていてはならない。今の現実に対して、韓国が声高に言っていることはその通りだとそう思っている日本食口はかなりの多数存在している。それは御父様の慰安婦問題や竹島(独島)問題へ日本に対して避難的に言及されたことから、その言葉を言葉のまま受け取ればそういう態度を取らざるを得ないからだ。そういう中で、韓国の言動はおかしいと、歴史をよく紐解けばそういう事実はないという観点で、今の韓国に対して批判する食口もいる。日韓が一つになるためには歴史の事実を認めなければ、特に韓国が真実を知って認めなければ一つになりえない。そう思っている食口は心情型食口より思考論理型食口に多い。御父様が言われる意味でのひとつになるという表現がどういったものか、仲が良ければひとつになったと言えるのかどうか、私はそうだとは思わない。夫婦関係は男と女の関係だが、それは恩讐関係だとも言われたのであり、それを実感する位置でひとつになるとはただ仲がいいだけでは一つになったとは言えないものが確かにある。御父母様の御傍で侍っていれば、御母様に対して声を荒げる御父様は何度も見ているのであり、そうなれば距離を置かれる御母様も何度も見ている訳で、勿論仲のいい場面も度々目にするけれどもそれと同じくらい刺々しい場面も目にしている。しかし御父母様が一つになっておられるのは天地に公言されている。おそらく日韓関係もただ表面的に仲がいいというだけならそれは一つになっているとは言えない。今の刺々しい関係もお互いをより理解するための、本当の意味で一つになる為の、越えるべき一里塚だと思っている。これを越えればもっと深い関係になる。日本は女性的であって外的だ。心の奥底でどう思っているかより外的表面的にどう表わしてくれるかの方が重要だ。しかし韓国は男性的であって内的だ。どれほど謝罪しようが、どれほど補償しようが、それよりは内面の心を差し出してくれと叫ぶ。彼らにとって歴史的事実がどうかは或る意味どうだっていい。韓国としての主体的位置を認めて欲しいというのが本音のところだ。そういう意味で捉えると彼らの言い分は納得できるのであって、歴史的事実を振りかざし、だから日本が正しいという論理は彼らに通用しない。摂理的観点から見る天の願いは韓国が主体的位置に立つべきだとしており、そうであれば天の運勢は韓国に味方するのであり、どれほど歴史的事実を訴えようが日本がしゃしゃり出て主体に立とうとする了見が見える限りは日本の非を認めざるを得ない。だから今の日本は夫を立てる妻の役割を見せるべくどう立ち回るかの正念場といえる。一体化の鍵は妻であり母である日本が握っている。

2013年12月10日火曜日

今日の想い 671

薄氷を踏むような思いで時を刻んでいく、という言い方が、今の私と妻には最も言い当てていて頷ける。退院はしたものの安定しない体調に不安を覚えたり、また束の間安堵したり、そしてまた別の不安に襲われたりと、二人して体も心魂も弄ばれている状況がいつ終るともなく続いている。不安や心配に留まり続けるということと、不安や心配から気遣い心遣いへと向かうということとのその違いは、一方は受動的であり今一方は能動的な態度であって、受動的であり続ければその不安は更なる不安を呼んでくる。不安を克服するためには能動的私を押し出さなければ、不安が常に私の一歩先にいて弱気な位置で内向きに閉じこもる。能動的私を前にいる不安より更に先に押し出し続けることで、私は希望という灯台を見出せるはずであり、見出したなら見失うことはないはずだ。荒れ狂う海に翻弄されていても、視点は飲み込まんとする高波に当てるのではなく、次から次と押し寄せる高波の向こうに確実に希望の灯台が、そして安着できる陸地が備えられていることに対して絶対信仰を供えるのであり、その用意されたカナンの福地に絶対に辿り着きますという決意と気概を維持し続けることだ。確かに私達夫婦は新たな一つの生命を授かった。その奇跡を無碍にも台無しにさせるなら、敢えて生き長らえる意味はないのかも知れない。それほどに尊い贈り物を差し出され、すがるように私達は受け取った。受け取ってはみたものの、その責任たるや今の私達夫婦の心霊基準では抱えられるものではないのかも知れない。そうなると寸分を待たず過酷な心魂の鍛錬が要求される。そうして退院した今も、鍛錬の只中にいて魂の柱を太く強くすべく鍛えられている。確かに今が私達夫婦の正念場だ。恩恵を受けるにはそれなりの精誠を差し出すのが蕩減法則だ。それが霊界での遣り取りに於ける霊的事実だ。この路程を勝利的に超えない限り、私達の未来は薄い。周りを見回せば家族皆が元気な祝福家庭、子供が祝福を受けて孫を嬉しそうに抱いている祝福家庭、うらやましくないと言えば嘘になる。それでも、他の家庭と比べて受け取る愛の減少感から妬みを起こすなら、自分と他の家庭に壁をつくり、他に対する自分という感情に留まり、彼らを同じ御父母様を親とする兄弟姉妹として受け取れない私だからこそ起こる感情に違いない。自体自覚に立てば、どうして私の家庭だけにと不満を募らせ残酷だと思うだろうし、他体自覚に立てば、越えてくれると期待して与えられた使命だと思えるだろう。誰が見ても同情を覚える位置で、しかしその位置に立たされながらも神様に同情するなら、神様の心情は動かざるを得ないだろう。御父様が悲惨な立場で神様を慰められ、神様の心情を動かされたように、私達はどんな立場であっても、その位置で神様の心情を動かす者となる。それでこそ統一食口だ。御父様の息子であり娘だ。

2013年12月8日日曜日

今日の想い 670

私たちは御父様、御父様と祈祷し、日頃の生活でも口にしながら、あたかも神様の全貌を理解したような気持ちになっているけれども、実際のところ神様の存在は確信していても、その在り様もよくわかっていなければ実感も薄い。自分の心魂すらよくわからず摩訶不思議で主管できないのに、どうして膨大な天宙を包み込まれる神様を理解していると言えるだろうか。霊的無知であるという認識から遠ざかったまま、私の認識が及ぶ範囲の神様の概念で神様に対しても神様も応えようがないだろう。さらには夜の神様、昼の神様と言われてみたり、天の御父様がおられ天の御母様もおられると言われてみたり、それは神様をハナニムという一つの概念と理解していた我々にとって混乱を及ぼす言葉でしかない。だからといって感覚世界の現実に重心を置いて生きるのであれば何も変わらないだろう。私の神様に対する理解が不完全なものであることは認めた上で、しかし感覚人間としての私がそのまま受け取る感覚世界から神様を引き出せるのではなく、感覚世界の現実の背後に霊界があり、霊界を通過して神様を引き出せる。肉体の背後に心魂があり心魂の深みに自我があってその核に神様がおられる。心魂の深みで自我を見出そうとするところに霊界の門が開くのであり、その位置でこそみ言葉の本質は発揮され、通常の悟性的人間として触れて学ぶみ言葉は極めて限られたものでしかない。み言葉の応用とは言葉をひねくり回し無理して繋げることで悟性の論理に通用させることではなく、無知なる霊界を照らして霊界の事実を受け取れるように扱えることがみ言葉の応用だ。或る現実に差し掛かった時、み言葉の本質を受け取れる者はこの世の感覚世界にどっぷり浸かっている者からすれば理解を越えた把握と答えを導き出して呆気に取られてしまう。私達の今までの歩みはこの世の者達には理解できない。蕩減もなくなり新しい時代であるこれからは社会に理解されるように行動して、、、。それならこの世への迎合だ。私達はこの世の者達の理解出来ない方向に敢えて向かったのではなく、霊界の事実を受け取った結果、結果的にこの世の者達の反感を買った。社会がどう思うかを気にするなら地上の現実に主管されているのであって、好感を持たれようが反感を持たれようが霊界の事実に沿って方向を定める。それでこそ霊連世協会だ。御父様が聖和されて全面的に霊界で活動されておられる。霊的な見地に立てば御父様は一層私達と近い関係にあり、今までどうしても得られなかった答えが祈って尋ねれば精誠の度合いに応じて直ぐにも答えを受け取れる。一問一答の関係を持てるのであり、神様と一体となられた御父様が私達の神様への理解を尋ねて答えを下さらないはずがない。

今日の想い 669

人は現実の中で生きている。それは他に言いようの無い事実だ。地上界という実体世界で起こる現実に否応なく対処しなければならず、波立つ感情に翻弄され続ける。地上の元素を持つ肉体に住まうとはそういうことだ。人は現実の中で生きているけれども、しかし現実だけを足場にしているかというとそう言うわけでもない。現実という実体圏に押し込まれ捕らわれの自分を一方で生きながら、一方で理想という創造圏に生きている。人間は本来、創造結果でもあるけれども創造原因でもある。結果である地上界と原因である霊界の接点で、どちらにも足場を置くことができる地上と天上の和合体が人間本来の位置だ。霊的無知によって霊界の事実、より原因的であり創造的であり、よって地上に対して主体的な霊界との関わりが持てないために、和合体の司令部であるはずの人間心魂が安着できないでいる。それ故に翻弄され続ける。御父様という天宙代表の本家本元が中心位置を見出されて長子権、父母権、王権を定着されたので、御父様を中心に霊界と地上界は統一される。霊界と地上界が統一されれば霊界の勝利圏が地上の勝利をもたらし、地上の勝利の実りが霊界にもたらされる。堕落人間は御父様に繋がり、御父様と一つになることで、新しい天と地に住む。すなわち御父様が長子権、父母権、王権を定着されたその位置に安着することが、新しい天と地に住むことを意味している。そこで差し出された御父様の言葉が天一国入籍だ、というのが私が言葉の上で理解していることなのだが果たしてどうだろうか。そうであればこそ御父様と完全一体となってこそ入籍できる。そうすると入籍すれば現実はどうなるか、相も変わらず現実は現実として流れ、否応無く対処しなければならないのは変わりないのか。入籍すれば御父様を中心として霊界は完全に主体であり、地上界は完全に対象だ。その中心とひとつになる私に於いても霊界が主体で地上界は対象になる。「実体的天一国時代が広がると、霊連世協会が中心軸の位置に立って万有を治めるようになる」、とある。現実とは感覚世界であり、広がる感覚世界の原因的世界、霊界に於ける私の存在を存在足らしめ、感覚世界の現実から霊界の事実へと重心をシフトできれば私という存在は現実に生きる存在から事実に生きる存在となれる。事実に生きて権威を行使できれば霊連世協会の個人的なものを確立したと言え、さらに家庭的なもの氏族的なもの、そして実体的天一国での国家的な霊連世協会が立つ。膨大な霊界のほんの一部分一部分を垣間見るだけで、しかし感覚世界の圧倒的現実に主管されて生きる限り、私達は次元を越える存在とは言えない。次元を越える存在でないのなら、地上の実体的天一国など夢のまた夢だ。現実に生きるこの世の者達と次元が同じなら、私達が理想を叫んでも鼻で笑われておしまいだ。

2013年12月5日木曜日

み言葉のみ言葉

御父様の為された多くの宣布大会のうちで、最も大切で重要な宣布大会は「天地人真の父母定着実体み言葉宣布天宙大会」だ。そしてその宣布大会こそ私達が絶対忘れてはならないし、そこで語られたみ言葉こそその意味を最も理解しなければならない、何千回、何万回読んでもまた読んでさらに理解を深めなければならないみ言葉の中のみ言葉だ。そのみ言葉には「人類のための遺言」という項目題名まであり、それは私達が最も重要視している訓読(会)、八大教本教材のことを言っておられるのだが、訓読する上での中心的姿勢をこの宣布大会のみ言葉を通して受け取ることができる。御父様を受け入れない者がみ言葉を読んでも霊的真意を受け取れないように、この宣布大会のみ言葉を中心的姿勢として先ず受け入れなければ、どれほどみ言葉を訓読しても、部分的なみ言葉を示して御父様はこう言っておられると詰め寄っても、天の心情とはずれた、的を外した訓読や指摘になりかねない。そう言う意味でこの宣布大会のみ言葉は、み言葉を学ぶうえでのみ言葉だと言える。「成し遂げられた!」という霊的救援の一言の言葉を残して忽然と逝かれたイエス様。同じように「完成、完結、完了」という実体救援の言葉を残して、やはり忽然と聖和された御父様。イエス様による霊的救いを受けると共に、実体的救いをもたらす再臨主を迎える路程が残されたように、御父母様による実体の救いを受けると共に、実体的救いを国のステージで、さらに世界のステージで実体完成させる路程が私達に残されている。この宣布文を読めば読むほど、基元節を迎える前に、最後の精誠、犠牲を供える、そして聖和されることを既に言い含められたみ言葉のように思えてならない。勝利宣布として輝かしい笑顔で壇上に立たれ、齢九十を越えられたとは思えないほどの力強さと主管力で会場を包み込まれ、しかしその見えない背後に、微塵も素振りを見せることはされなかった決意と覚悟を供えておられた。この宣布大会のみ言葉こそ御父様の全ての核心であり、心情の中の心情だろう。私達は時系列で生きているし、最初に琴線に触れたみ言葉やその時の感情を出発点とし、み旨を歩む動機ともしているけれども、実はこの「天地人真の父母実体み言葉宣布天宙大会」のみ言葉、そしてそこにある心情こそみ旨を歩む動機とし、出発点としなければならない。それは時系列の先祖を私を中心として逆に遡る形で先祖解怨し先祖祝福していったのとリンクしている。混乱を見る食口個人であったり教会であったりするけれども、この宣布大会を最重要視して中心的核に置くことで、解けないものが解けてくる。

2013年12月4日水曜日

価値観というベクトル

妻はいろんな病を体験しながら、病を通して、病という槌でひたすら打たれることで、健康の尊さを自分の中に打ち立てる。人は健康であればあるほど、健康の尊さとは無縁だ。健康な人が有難いと口にもし思いもするけれども、しかしそれは苦しい病を体験した者が口にする有難さと思いとは重みが違う。次元の異なる健康に対する感謝であり思いだと言ってもいいかも知れない。それは健康の尊さ、健康に関わる精神の柱を霊的に打ち立てている。霊界に行けばありとあらゆる奇怪な病が待ち受けている。様々な怨念が霊として纏わりつき、恨みの要素が霊人体の病として発病する。この世で健康ならあの世でも健康だと思うかも知れないが、健康の尊さを身を持って受け取れたなら霊界で健康体となるが、ただ健康だったからといって健康にはなれない。霊界では肉体を持たないので食物は必要がないが、正確に言うと天国や楽園では食物を取る必要はないが、中間霊界、地獄では食物を必要としている。それは人はパンのみで生きるという人生を生きてきたから、何よりも食べる必要性にかられた内的様相が霊的環境圏に現れる。食物を貪り取り合う霊的環境圏を、人は人生に於いて創造したと言うことができる。人が病を通して健康の尊さ、霊的健康を知るように、空腹を通して万物の有難さ、霊的満腹を知る。食口は祝福条件として七日断食を経験するが、私はと言うと断食を通して、神様の心情よりも何よりも、自分は万物がどれほど恋しいかを思い知った。決して裕福な育ちではなかったし、明日の米を子供ながらに心配したこともあったから、万物の大切さはわかっていたつもりだったが、それでも断食の時ほどに恋しいと思ったことは無い。基準が低いと言われれば確かにそうだが、恋しい万物であればこそ、万物を与えることに、万物を供えることに、万物を捧げることに、人一倍思い入れが深い。それは万物に対する執着心とは異なる万物への私の想いだ。だから同じ物を供えるにしても、誰よりも精誠が込められるはずだと思っている。飽食の時代に育った現代人は、食べるものにさへ事欠いた時代を生き抜いた人々とは異なる使命が与えられている。貧困の時代を生きた人々は大まかに二通りに分けられ、貧困によって執着心を育てた自己中心的人間と、貧困によって万物の尊さを知りそれを通して社会に貢献しようとした社会貢献人間とに分けられる。現代の物質的繁栄は後者の人々の強い万物への恋しさがその動機となっている。では飽食の時代に生きる現代人は何を求め、何を恋しく思っているのだろうか。それを敢えて一言で言うなら、私は価値観だと言いたい。形あるもの無いもの、見えるもの見えないもの、私の外にあるもの内側にあるもの、その全てに対する価値観を求めている。価値観への恋しさこそ、現代人の在り様だ。それは益々その度合いを強めている。そしてその度合いが強まれば強まるほど、全ての価値観を導き出してくれる成約のみ言葉がどれほど眩い霊的光であるかを私達食口ですらも思い知るだろう。

2013年12月1日日曜日

今日の想い 668

イエス様の時代であっても、生活は生活で流れていく。世界が注目していたとまでは言わなくても、イスラエルの民達やローマ市民全ての注目を浴びていたはずだと思っているが、事実はそのように注目されて十字架の摂理が為されたわけではない。人類の一大事件であるにもかかわらず、それでも人々は同じように食べ、同じように掃除も洗濯もし、仕事にも行っただろうし、世間話に花を咲かせていたはずだ。そうして同じように眠りに着いた。メシヤが十字架上で死を遂げたその日であるにもかかわらずだ。聖書を読めば全ての人々が注視している中で起こった事実のように受け止められるけれども、実際は、終末時代であっても人類の一大事件であっても、人々の生活は変わらなかった。現代でも全く同じだろう。再臨のメシヤを迎えても、御父母様が勝利圏を立てられても、後天開闢時代に入っても、やはり生活は生活で変わらず流れていく。外的にもあっと驚き、人々から注目を浴びる統一食口の姿を皆が思い描いていたのだろうが、それが何ともこの世的であり現実的御利益的な浅ましいものであったかを反省しなければならない。御父様の生きた精神を、心魂に受容し生命に受容し肉体に受容するのが統一食口であるべきなのに、抽象的なものに留まったままだ。抽象的であるから常に外に見ようとし、私達の内に見て確認しようとはしない。ペテロは確かに鶏が鳴く前にイエス様を三度否定した。しかしペテロはその否定がどれ程重いものであるかはよくよく解かっていたはずだ。己の罪の部分が超えていてイエス様に対する信仰が否定の言葉を発するのを制御する程にイエス様と一つにはなっていなかった。その落胆を己を瞬時に消してしまいたいほどに味わった。主の否定の重さを知っていればこそ、彼は逆さ十字をわざわざ申し出た。そこに罪の克服、主の否定の克服を自分に見ようとした。私達は御父様の願いを受けて摂理を担った。しかしそれは失敗の連続だった。その失敗のひとつひとつをどれ程悔い改めただろうか。ペテロが主の否定の重さを知っていた程に、為し得なかったその重さを抱えているだろうか。それどころか自分故に失敗したという認識の欠片もなく、ただ御父様を人類のメシヤとして認識していることだけで自分のゴールは得られたの如く、憎々しくも楽しく生き永らえている。私達がペテロが自覚したものの一欠けらでも認識していたなら、御父様は時期を早めて聖和されることはなかっただろう。ペンテコステ?あり得ない。能天気な我々にペンテコステのような神霊聖霊現象があり得るはずがない。小指の先ほどの為し得なかった重さの自覚も無いのに、何がどう狂えば霊的協助を体験できるだろうか。これからの摂理を担う者は、御父様への負債の重さを抱えられないほどに受け取る者しか、アベルの正道を行くことはできない。千万の死に値すると本心から思える者しか御父様の精神は受け継げない。