イエス様の時代に人間の自我が備わったのではなく、堕落故にずっと表出されずに閉ざされていた人間の自我が、時の条件が満たされてやっと自我存在としての人間段階を当時迎えていた。救世主キリストとしてのイエス様が誕生され、地上で公生涯の3年を歩まれて、愛としての自我を備える人間が存在として可能になったが、もしイエス様の地上の歩みがなかったなら、自我存在だとしても利己的自我を備えた人間しか地上に存在できず、愛の星地球とはならなかったはずだ。精神科学、哲学家として有名なシュタイナーは霊界での人間の段階を大きく分けて3段階、各段階それぞれが3段階になっているので9段階としている。ずば抜けた彼の霊的感性は数々の神霊とやりとりし、創造歴史の遥かな太古を見通し、神の摂理である遠い未来をも見通している。彼の著述を読み進めれば実に論理的に、さらにわかりやすく神の様相、創造過程、人間の様相、霊界の様相など、また科学の様々な分野を霊的な観点からも解読している。私は彼の代表的著述、神秘学概論から入ったが、原理を理解する食口であれば虜になることまちがいないだろう。原理に対して、特に霊界認識に対して実に稚拙なものに留まっていたかということがよくわかるはずだ。原理をより理解し、御父母様の価値をより理解する為に、彼の著述は最良だと思う。しかしその彼でさえ、精神科学とあるように科学という論理で見出したのであり、ということは心情圏に入ることで見出されたものではないので一面的とまでは言えないが全面的ではない。要するに愛の要素が欠けていて霊界も創造過程も冷たい印象を受けるのは否めない。現代人の科学信奉の間違いは、一方で内的平安、内的喜びを最も重要視しているにもかかわらず、現代の科学が及ばない内的領域に於いても科学が解決するはずだという妄想に執着していることだ。日本の進化論教育が人間が自我を備える霊的存在であることを隅に追いやって無視させてきた。宇宙があって私が存在しているのは外的な意味では現実だけれども、私があって宇宙が存在しているという内的な意味での現実もまた正しい。日本人の自我は自分が自我存在であることを認識できないほどに追い遣られている。上っ面で生きながらえるだけの浮き草であって、自我という霊的な柱が立っていない。自分に対しても他に対しても自我への尊厳が薄いものだから、魂の活動、特に喜怒哀楽が霊的な成長の糧になっていない。
2026年9月29日火曜日
2026年9月13日日曜日
今日の想い 1495
線状降水帯。この名称自体が実に強そうだ。海軍航空隊、とか神風特攻隊と並べても遜色ないほど強烈な印象を受ける。この線状降水帯なるものが日本列島のあちこちに飛来して、雨水爆弾を投下していった。日本が備えるべきは地震と津波だと誰もが認識していたが、まさか陸ではなく空からの襲撃に会ってしまうとはまさに寝耳に水だ。津波のように押し流されることはなくとも、線状降水帯なるものでこんな水攻めに襲われることを気象庁はわかっていたのかどうか。周辺国が襲ってくる前にこんな形で自然が襲ってくる日本とは一体どういう国家だろう。災害がここまで相次ぎ、休む場所すらままならない多くの国民がいるにも関わらず、相変わらずテレビは天下泰平の如く満面の笑顔のコマーシャルを流し続けている。日本はアメリカがどうこう言える立場には全くない。教会が洗脳される以前に日本の全ての国民が洗脳されている。これほどに平和ボケから覚めず、危機感の実に薄い国家が他にあるだろうか。机上の空論ではないが、机上の勉学漬けのみでそれで全てを学んだように満足しながら、国家として生き残る術を誰も教えないし、机から頭を上げて周囲の実情を学ぼうともしない。一体この日本のエセ平和の空気感を誰が蔓延させ、偏った一方的情報による操作の犯人は誰なのか。共産主義者だと食口は認識しているのだろうが、政権与党は本当にこの国の為の与党だろうか。教会は政権与党によって解散させられた、その事実をしっかりと食口は熟慮すべきだろう。わめいていたのは左派に与する者たちだが、しかし断罪したのは与党だ。私達が一生懸命応援していた議員たちだ。血が流れたって不思議ではない裏切りなのに、食口の誰が「罪を憎んで人は憎まず」のような聖人ぶった言葉を口にし、闘うことを良しとしないのか。ああ、また頭に血が上ってきた。こんな感情が沸き立ち制御できないものだから症状はますます悪化する一方だ。ニーチェの言葉であるルサンチマンは、悪魔の感情暴発だというのなら、神は恨みを抱えることはないのだろう。しかしアボジから教わった神は恨み骨髄にまで達する神だ。神が許す前に私達が許すべきではない。
今日の想い 1494
アメリカは、アボジが予言した通りに国運を下げ続けている。トランプへの期待度が大きかっただけに、彼こそが摂理的人物かと私でさえも期待はしたが、やることなすこと、そして何よりもその言動は国運を失いこそすれ、MAGAの言葉通りとはならない。アボジが語られた通りに斜陽するアメリカであれば、逆の意味でトランプは摂理的人物だと言えるのかも知れない。関税にだけに留まれれば、何とか許されるかなとも思ったが、イランに手を出した辺りから世界を牽引すべきアメリカの大統領としては相応しくないという強い思いに変わってしまった。民主党政権バイデンほどの酷い大統領は出てこないだろうと思っていたが、トランプがこれほどの大言壮語で、MAGAがこれほどの独善主義となると、どちらがいいとも言えず唸るしかない。当選当時とは随分支持率は下がりはしたが、それでもトランプを信奉する者達はまだ多くいる。この中間選挙の結果がどうなるか、共和党が負ければトランプ政権はレームダックだ。副大統領か誰か立てざるを得ないだろう。トランプ政権の関税から始まる足掻きは、前政権の、先を全く考えないドルのバラマキも含めて、莫大な40兆ドルにも及ぶ負債を抱えていることが原因ではある。バイデンによるロシアの外貨準備口座(ドル口座だから当然アメリカにある)凍結によって負債国家通貨でありながらも基軸通貨であるドル通貨の信用失墜を世界に公言した格好だ。BRICS国家を始めとして世界の中央銀行はドル外貨より金銀の現物にシフトしている。GOLD-ETFは金そのものと同じ値動きをする仕組みではあるが、所詮ペーパー商品、すなわち扱う証券会社が倒産すれば紙屑になる。ETFは売買が簡単だし現物と違って保管料もいらないし、さらにレバレッジ(てこの原理:少ない投資で数倍十倍の売買が可能)もかけられて、それ故に価格のボラティリティが大きくなっている。しかし現物投資している中央銀行などは買いはしても売ることはない。中国は既に現物預かりのないGOLD-ETFは廃止の方向で動いている。ということは中国は十分すぎる金地金の保有があるということだ。通貨を制する者が世界を制する。どう控えめに見てもアメリカより中国に経済覇権はあり、トランプ政権は莫大な負債故に足掻いているようにしか見えないが、果たしてどうなるか。イラン戦争で露呈したように、もはや武力ですらドル体制を維持できない。日本もアメリカ従属一辺倒でいいのかどうか、この舵取りに国家の存亡がかかっている。
2026年9月12日土曜日
今日の想い 1493
父の納骨を済ませてきた。先週の予定だったが、大雨の情報が入って一週間延ばした。墓苑の事務所にも連絡しお寺さんにも延期を連絡しての今日だったが、やはり一雨来そうな空模様で、父は雨男かと思ったが事無く納骨式を終えることができ私も母も一息ついた。読経されるお寺さんの後ろで所々挟まれる南無阿弥陀仏の反復だけは合わせて声に出したが、それは読経されるお寺さんへの配慮でしかないという思いと、この念仏で父が成仏するなら届いてほしいという思いとがあり幾分複雑だった。風邪をこじらせたのか数日前から微熱と咳が止まず、納骨式の間は汗が滝のように上半身から流れ出た。汗と涙で霊を洗い流せば新たな出発ができる。そう思い直して、もがけどもがけど出口の光が見えないこの年の運気を、今日を転機に何とか上昇運へと変えていきたい。この世に生を受けた以上この世での使命がある。教会が解散すれば摂理が止まるわけでもないし、教会からくる指示だけが摂理的使命でもない。運気は使命感の認識如何によって掴むこともできるし手放しもする。使命感の欠如が今の状況を引き付けていると、そう読み取るのが原理的だろう。短い読経が終わるとお寺さんは丁重なお悔やみを母に延べ、母はそれに感謝の意を返し、前もって渡しておいた布施を袱紗から震える手で取りだし渡した。私はこの場で解散する失礼を述べてお開きとなった。もちろん近い一周忌にはご足労願うことは伝えておいた。教会には儀式がある。そしてこの世にはこの世の儀式がある。儀式を挙行することで何らかの内的霊的区切りと、新たな出発が為されることを人間であれば誰でも知っている。形にこだわり過ぎることも問題だが、形に敬意を表さないのはもっと問題だろう。神も仏もない、死んだら灰となり無になるだけだと言い張っていた父だったが、残された者がその縛りを解いてあげなければ、もはや体を持たない父は霊の自由の光を封印したままで無力だ。70年を超えて連れ添ってきた母の表情は納骨を終えて付き物が取れたように穏やかになって、それを見て私は、ある意味長男としては裏切って出ていったが、父の私への恨を解いて善しとした。父はこれで自由の光を得て前を向ける。
今日の想い 1492
今回の障害を経験して、人がどのようにして鬱になり、精神障害を抱えるようになるのかよくわかった。精神科医がどう定義しているのかはわからないが、不安が不安を呼び、その不安が更なる不安を呼ぶという連鎖反応で心の鬱状態が定着し、この不安の連鎖を自らで断ち切る術をなくし、自分の中に自分として統一されていた主体がその役目を担うことができなくなって精神疾患となる。浮遊感という言葉があるが、これは体が宙に浮いている感覚のみならず、本来なら自らの中に土台がしっかりあって魂が内に居座っているものが、不安で土台が不安定になり魂が上へ上へと抜け出ていく、その感覚を浮遊感とみる。私は小学校の高学年の頃、その浮遊感で心が消え入りそうな、これは経験してみないと説明の仕様がないが、精神の嘔吐のような感覚に度々襲われた。献身していた当時でも、外からの実績の圧力が強すぎて内面の気を逸らされてはいたが、それでもたまにその浮遊感は襲ってきた。その大きな原因要素として、生まれ育った土地の霊的空気感がある。人間は本来、主体的能動的存在であるはずが、その土地特有の霊的な見えない枷が嵌められていて、人間の主体性を無くすか薄められてしまう。その状態では魂は削がれるばかりで居場所とは思えず抜け出ようとする。そこに住まう村人全てがそんな空気に感染していた。そうなると不安や困難が襲ってくると、命を絶って苦しみから逃避しようと簡単に試みてしまう。私の家系を見ても自らで自らを仕留める者は多くいるし、率から言っても隣村の比ではなかった。今回の病を負ったのにはそれなりの外的要因はあった。簡単に言えばストレスだが、父の介護と死という経験のない荒れ地を手探りで進めていくストレス、それに輪をかけるように妻との喧嘩で血が逆流する血気怒気で私の自律神経は完全にバズってしまった。しかしその外的要因をもたらす内的霊的要因に踏み込むに足る霊力はほぼほぼエンプティな状態で、ああこれはある程度の期間を超えなければ先は見通せないと覚悟し、狂うなら狂え殺すなら殺せと開き直り、やっとそこが底抜けに堕ちていた奈落の底になった。実は魂が抜け出ていくのではなく、魂を抱えていた位置から地獄へと魂を残したまま堕ちていく。
2026年9月10日木曜日
今日の想い 1491
母はあまり動けない状態なので、はばかりに立つ以外ほとんどの時間を低い椅子に浅く腰掛け、こたつテーブルに向って過ごす。私がスイッチを入れれば一緒にテレビも見るが、さして関心は示さず、私が席を外すと漢字パズルの本を開いて鉛筆で埋めている。四字熟語も難読漢字もお手の物で、私よりはるかに漢字の知識量は多い。亡き父は認知症ではないけれども昨日のことは忘れてしまっていたが、母は昨日のことも遠い昔のこともよく覚えている。それが母にとって喜ばしいことなのかどうかはわからない。厳しくも暗い、忘れ去られたような田舎で一生を過ごしてきて、口にする昔の話は当然厳しく暗い話ばかりだ。母が産まれて産みの母はそのまま息を引き取った。母に取って祖母が母であり、祖母が亡くなってのちは姉が母替わりだった。その私に取っての叔母は、私が教会に献身してからの母の嘆きを、自分の娘のように不憫に思って、アメリカにいる私に何としても帰ってくれないかと手紙をよこしたことがある。それはところどころ涙で滲んで字がぼやけている、便箋8枚にも及ぶ手紙だった。それはボロボロと涙なしでは読めない代物で、ああ叔母に取っては母は娘なんだと理解するには十分だったし、故郷に二度と帰ることはないと歩んでいた私を見事に揺さぶった。今こうして父を見送り、母の世話をしながら同じ屋根の下で生活しているのも、叔母の想いがあればこそだと思っている。叔母が亡くなる少し前に私に手紙をよこしたことは母に告げたが、その内容については触れなかった。母に取って叔母は母だったから、そこまで心配してくれていたことを告げると母が申し訳なくて深く悲しむと思ったからだ。透析しながら一人住まいしている妻の身の回りのこともあるので、時々母を一人にすることもあるが、遅くなって帰ると、私を一見してやっと安堵したかのように力を抜いて背を丸める。遅くとも8時半には床に就くが、先に寝るようにと連絡入れるまでは、いつまでも帰りを待って起きている。
2026年9月5日土曜日
今日の想い 1490
今年に入ってまもなく、中学校の同窓会お誘いのハガキが届いたので、参加に〇を付けて返信ハガキを投函しておいた。日にちは8月の末だったので、まさか半年も経って体調が戻っていないことはないだろうと算段したからだ。しかし体調は良くなるどころかますます悪化していった。それに輪をかけて母の体調も悪くなり、介護のために母のところに同居する必要が出てきた。そんな状態で参加などできないだろうと思いながら、しかし欠席のメールは出さずじまいだった。そしてついにその日が来てしまった。重苦しい体調と気分を引きずりながら、会場に決められた田舎の中学校に近い場所へと、1時間半の往路のハンドルを握った。インターを降りて田舎道をくねくね運転している間、本当に数十名の同窓生が来るのだろうか、ひょっとしたら取り止めになって誰も来てないかもしれない、などと狐につままれた様な気になった。それならそのほうがいいかと思いながら会場に着くと、古希の集まりだとは思えないほど溌溂とした会話があちこちで盛り上がっていた。風貌は年相応にも関わらず活気は中学当時と変わらなかった。つらい表情は似つかわしくないと無理にでも皆に合わせ表情だけでも元気を装った。結果私にマイクが回ってきた折に空回りして、笑いを取るつもりが顰蹙を買ってしまったが、どうも私だけが一回り歳を取ってしまったようだ。5年前に一度、40年ぶりの同窓会に参加したが、その時の参加数は少なかったし紹介もなく、私を認識した同窓生は数人に過ぎなかった。しかし今回はマイクを回されたので無残な変わりようの自分を皆に曝け出す格好になってしまった。見渡すと中学当時と全くと言っていいほど変わりない人もいて、やはり歩んできた道のりが私だけ全く違っていた事実を認めざるをえなかった。確かに、苦労の路程というより苦渋の道のりだった。ある期間は自分を殺し、ある期間は欲を抑えきれず罪に苛まされ、ある期間は身に残らない数字だけを追い求めていった。光り輝くみんなのあの笑顔を私は持っていなかった。祝福を受けた私は暗い道のりを歩み、祝福をうけていない彼等の笑顔は本物に近いと、不覚にも思ってしまった。私は早々と宴の会場を後にした。退席に気付く数人に引き攣った笑顔で会釈しながら、、。
2026年9月2日水曜日
今日の想い 1489
年寄は朝が早い。母と暮らすようになって四時間は前倒しで生活している。朝は4時には起きて朝飯の用意をする。母が4時半には起きてくるからだ。朝、床から起き上がる時が腰に一番堪えるらしい。起き上がろうとして20分くらいは四苦八苦するので、それで食卓に着くのは4時半だ。それまでに大急ぎで味噌汁をつくり、漬物と御飯を用意して食卓に並べる。飼っている鳥の餌やりは鍋に火にかけている間とか、わずかに空いた時間に済ましておく。最近は食事を済ませて5時を超えたころに散歩に出かける。外は闇にやっと光が混ぜ合わされる頃合だ。朝夕の散歩が体内時計をリセットさせて夜10時頃には眠気が来るらしい。自律神経が狂い、ここ数か月無理くり薬で寝付かせていたが、自然に合わせて寝起きすることで幾分眠気を覚えるようになってきた。導入剤を飲み続けると認知症になると、それでなくともいろんな症状で不安だらけなのに、輪をかけて不安を上乗せさせる。こんなので心療内科の医者が務まるのかと憤慨して、2回ほど通院して辞めたが、そのやぶ医者に勧められた散歩だけは欠かさないようにしている。今の季節は5時半から6時に闇と光が交代する。団地を一周すると1キロ半そこそこのコースになるが、下って登って最後に平地で息を整えて家に着く。コースを歩く間に、東の空にたなびく雲の朝焼けで先ずピンク色の光が広がり、そこに太陽が昇ってくると太陽の光で置き換えられる、その狭間の光景がみられる。夕焼けが霊界参入の景色なら、朝焼けは霊界から地上界に降りていく景色だろう。薬に頼るにしても寝落ちすることで霊的エネルギーを魂に得て、その活力で今日の試練や困難に立ち向かっていく。今日も生かされて、今日の喜怒哀楽をまとった責任分担をこなしていく。「主よ我に力を与え給え」であり「南無阿弥陀仏」でもある。
2026年8月27日木曜日
今日の想い 1488
2026年8月25日火曜日
今日の想い 1487
人間は感情の動物だという。だから人間に対するときは感情で対する。しかし動物も植物も次元は異なろうとも感情はある。自我がなく言葉を持ち合わせていないので自分で表現する限度はあるが、感情の動物である人間が言葉にならない言葉を汲み取ろうと思えば、動物でも植物でもそれなりに分かり合える。しかし鉱物となると感情で対そうとする人間は相当数限られている。鉱物は感情を極限まで押し殺した存在だ。自我どころか個という概念までも否定し風と水と土と火の道理にどこまでも従っている。人間の喜怒哀楽の感情的側面を完全に取り去れば風水土火となる。人間は鉱物を用いて様々な創造を為してきた。アダムとエバに神様が息を吹き込まれたように、人間は創造したものに息を吹き込んでいる。私は今二年半前に両親のために用意したこじんまりとした家で母と暮らしている。20年前に建てられた決して新しい家屋とは言えないけれども、以前の家主が丁寧に使いメインテナンスも良くされていて、初見したときにこの物件に決めた。その時決めた内的要因があって、吹き込まれてきた霊的息吹の愛称が私に合っていると感じたからだ。両親が引っ越すまで掃除したり手直ししたり、内装の壁紙は業者に頼んだけれどもその他は大体自分でやった。この家に入るたびに口にはしないにしても「ただいま」と声をかけ、壁を優しく撫でながら愛でていった。この家は私を快く受け入れてくれる意思が伝わってきたし、事実私と両親(今は母のみだが)を守ってくれている。食口の万物に対する態度が唯物的なのは、原理の知的側面にのみ光を当てて感情の部分を蔑ろにしてきたからだ。霊界の実在を認めながら地上という結果世界にどのように霊が働いているかを見ようとしない。住んでいる家に対しても、着ている服に対しても、人々の手から手へと旅して辿り着いたお金に対しても、全ての万物に対して耳を傾け、背後にある感情を備えた霊的本質に触れなければ万物主管とはいわない。霊に触れれば彼らは声を発する。食事の前に長い祈りを捧げずとも、心を込めていただきますと声をかければ御飯は光り輝く。愛でながら行儀よくいただけば霊的に食することにもなる。
2026年8月18日火曜日
今日の想い 1486
韓国のとある牧師が立ち上がった。やっと立ち上がった。彼の叫びが個人的感情や欲心からの言葉ではなく父母を想う心情に即したものであることは、生涯を通して歩んできた信仰路程、その上で相続した天の心情圏に立つ者であればその琴線に触れるはずだ。彼は正しいか正しくないかの論理に立っているのではなく、父母を想う心情に立っている。原理的観点から独生女信仰はおかしいと言っているのではなく、父母様への想いに触れればこそ改めるべきだという心情圏に立った言葉だ。御母様に対して進言できなかった自分であることを悔い改めている。信仰を通して心情を相続し、心情圏に立てば、未だ信仰にのみ殉ずる者からは位相が異なっている。心情を相続した者のみが真の愛の何たるかを求めることができるし触れることができ、そして真の愛に立つ。教権に立つ者が彼を無視しようが辞職させようが、天は真の愛の御方であるために当然彼の側に立っている。彼の、己が位置を捨て去ってもという犠牲と確固たる意志、見上げるそれに比して教権側がどういう犠牲と死生決断を供えているのか。私には見えない。祈祷のカタチと時間だけを食口に教育し、シュプレヒコール以外の行動に及ばない祈祷が真の祈祷といえるのかどうか、祈祷そのものが目的化してしまった教会の実情は天心苑の名を地に堕としている。
2026年8月14日金曜日
今日の想い 1485
私達が自由であるように、御母様も自由だ。何を信ずるもどんな言動を発するも自由だ。そしてどんな御母様であっても御母様に変わりはない。そしてそれを受け取るも受け取らないも、その判断に時間を要するも私達の自由だ。しかしそのことで御母様を認めないとしても、それでも霊的母親、すなわち聖霊であられる御母様は御母様として何らその位相に変わりはない。歳を取って私の母は随分と変わった。変わり果てたといってもいいかも知れない。今は私の介護なしには何もできないし、自分の身体が思うようにならないことに苛立ちを覚えるのか、どうも私の手助けが気に入らないらしい。しかしどれほど変わり果てようと、私の母であることに変わりはない。幼少の頃、欲しかった300円のプラモを近くの雑貨屋に母と行く度に見ていたが、本当に貧乏だったから欲しいとは言わなかった。でもある時息子にそのプラモを買って目の前に差し出してくれた。嬉しいというより申し訳なかったが、その時の母の想いは私の中で一生色褪せない。高校を卒業する時、この道だと決めて4500円のぼろアパートから教会に引っ越すとき、何も言わなかった母が共同炊事場で皿を洗いながら泣き崩れた。その時の母の想いも私の中で一生色褪せない。いや永遠に色褪せることはないだろう。御母様も、ある食口によれば変わり果てた御母様に見えるのかも知れない。しかしどれほど批判しようが、真の母と認めないとまで言ってしまおうが、それでも御母様は御母様だ。私達が御父母様によって霊的に接ぎ木され生かされ血統圏に入ったことに間違いはない。その上で今の私がある。しかし先天の絶対信仰絶対従順のイメージそのままで、イエスマンとして御母様に対していいのかというと、そこには異議がある。息子娘であれば母に対して当然一言いえるように、御母様に対しても言えなければ息子娘ではなくイエスマンの従者に過ぎない。御母様が食口に対しても、世間に対しても、嫌われて当然の如く敢えて火中の栗を拾われるのはどうしてだろうか。そう考えたことはあるだろうか。私には敢えて悪者を演じ続けておられるようにしか思えない。私の中では皆の前でアボジに一言を促されて壇上に立ち、しかし暫く嗚咽されておられ、やっと絞り出された言葉が耳に届かなかった、そんな御母様が生きている。
2026年8月8日土曜日
今日の想い 1484
2026年7月28日火曜日
今日の想い 1483
金の亡者は天国に行けないらしい。しかし金の亡者とは誰の事だろうか。金持ちと言われる富む者を一般に金の亡者とはいわない。強盗なり麻薬組織なり、人の不幸を引き換えに得た金銭、すなわち悪銭を得てこそ金の亡者だと思うのだがどうだろう。しかし正当な方法で金持ちになったにもかかわらず貧しい者に施さないとか、ケチぶりが激しいとかのみならず、道義的に何ら問題ないにも関わらず投資や財テクで大金を稼ぐ者達まで金の亡者に括られてしまう。益を得る、すなわち金を増やすという価値の創造には、金に対する想いなり哲学がなければ増やすという価値創造は成り立たない。逆を言えば、万物に対する想いや哲学の位相に応じて価値創造は発揮される。相続による成金や、宝くじや馬券での一発成金もいるにはいるが、主管する人の器に順じてそれ以上は大抵流れ去るものだ。全ての富む者に対して偶然に彼等は金持ちになったのだから、万民に分け与えるべきだ、という思いがどうも金の亡者という言葉には隠されている。たとえ地上天国になったとしても持つ者、持たざる者は出てくるのであり、私達が描いている強制ではない共産主義、そして所有欲のない人格、などは絵に描いた餅でしかないと思っている。AIやロボットの進化と共に、一方で働かずとも無条件で生活資金を得られるベーシックインカムの議論も出されているが、それは人間を怠惰にさせる何物でもない。それは資本主義国家に於ける共産主義政策だ。
2026年7月16日木曜日
今日の想い 1482
風前の灯、という言葉そのものが今の私だろう。生涯を通して信仰で培ったものがこれほどに心もとないとは思いもしなかった。霊的にどうのこうのという以前に、自分の気持ちすら主管できない。そして何らのすがるものもなく、風が吹けば宇宙の暗黒の遠い彼方に追い遣られ、藻屑となって消え去る。今この状態で思うと、よくぞここまで生きてきた、いや生かされてきたものだ。原理に出会わなければとうの昔に命の灯は消え去っていただろう。あの暗い田舎の山に一人二人と吊るされてきたように、、。生かされてきていったい何ができたのか。骨のみになった枝から垂れ下がっている柿の実の一つでも天に供えることができたのか。人と呼ばれる生き物が、何の躊躇もなく潰される蚊と同じだったという、その一言を告げる為にのみ生きてきたということか。たったそれだけのことで、父や母を嘆きの底に追い遣って、摂理に携わってきたのであれば、私の罪は百死に値する。それでも生かされてきたことに変わりない。せめて残り少ない生を、灰をかぶって悔い改める意志でもあるのなら、今ある状況などなんてことはない。甘んじて受けて当然だろう。悲嘆の海に沈む神様であったろうし、苦悶に次ぐ苦悶の連鎖に身を投じる神様であったことを、未だ生きてこの身で感じることができることに感謝すべきだ。アボジが明かされた悲しみの神様の様相は確かにその通りだった。
2026年7月9日木曜日
今日の想い 1481
今年に入ってヨブ記のヨブ状態が続いている。この暑い最中、悪寒が襲って眠れない。疲れて眠りにつきたいのに副交感神経が働かないらしい。耳鳴りが始まる。ひどい時は後頭部内が砂嵐状態だ。耳鳴りというより頭鳴りだ。そして、身体の左、特に左肋骨の下から脇腹あたりがずっと痛む。帯状疱疹だと診断されてはいるが皮膚の炎症までは至っていない。、、にしてもずっと痛いままだ。親父を亡くした辺りから憑き物が憑いたように、理由の知れない症状にずっと悩まされ続けている。あたかも昔の当時の自分、自分史の螺旋の合致点が今の今であるかのように、当時の不安と恐怖が40年を超えて一巡して襲っている。自分が何者かを知り、自我として霊的に立っていながら、まさかこんな試練、というべきか仕打ちかはわからないが、それは超えた試練としてもう無縁だと思っていたのに、70の手前で乗り越えるべきものとして天が許可した運命なのだろうか。頭や精神がやられるのだろうかと思えるほどに、今不安に苛まされている。一番辛いのは疲れて眠いにもかかわらず眠れない、だから本来霊的な生素を睡眠を通して受け取れるはずなのにそれがままならない。難儀な生活を強いられる、その理由が先ず知りたい。癒して欲しいと切に願う以前に理由が知りたい。私は日本人である前に日本食口だと思っている。それは摂理を担う祝福家庭だから日本は二の次だと言うのではなく、その摂理が日本国と日本人に対してどのような意味があるのかを説明する責任が日本食口にあるということだ。はっきり言って献金摂理はその意味も理解してもらってはおらず、日本国への配慮は無視したまま突っ走ってきた。確かに説明責任云々よりも天の願いの方が優先だという言い訳は教会側では立つのかも知れない。しかし反社としての烙印を押されて尚、その説明ができないなら、国は教会が反社だと認定したことは正しかったと言われても仕方がない。裁判云々の言い開きは説明責任ではなく、我々側の言い分を押し付けたに過ぎない。実際のところ世界宣教にのみ献金が使われた訳ではない。特に有識者の間で問題視している使用目的は、献金した金が北朝鮮にも流れているという彼らなりの把握している事実だ。彼等はそれを人道的行為だとは認識していない。私達はそれを含めた様々な説明責任を日本に対してしていないし、すべきだとも思っていない。それは国を愛したと、それでも良心に恥じずに言えるのかどうか。教権の人事なのか日本の責任者が二世となった今、一世がやってきたヤコブの知恵は語られず、黒い所業を隠し持ったまま歳を取った者から霊界に送られる。一定数の有識者は、表沙汰にできない事実が隠されていると、そう思っている。全体として打たれ、ヨブのように個人として打たれ、私は終活をどう整理したらいいのだろう。
2026年6月26日金曜日
今日の想い 1480
物価高が止まらない。物価高という言い方には国民への誤魔化しがある。本当はモノが高くなっているのではなく、通貨の価値が減っているのでモノが高くなっているように感じるだけだ。一生懸命預金口座に積み上げていっても、確かに引き出さなければ数字は積み上がっているが、その価値はどんどん減らされている。それは国が国債をばら撒いて通貨価値を薄めたからだ。今日の100円は昨日の100円に満たず、明日の100円は今日の100円に満たない。国債という国の借金の意味は、国民が給料と口座の数字だけを信じているうちにインフレでかすめ取られるということだ。国債をばら撒くと同時にその分インフレになればからくりが見えても来るが、通貨はまわりまわるものなので年単位の時差が出て誤魔化せる。年単位が半年単位、さらに月単位になるとさすがに国民は気付くのかも知れないが、株高ばかりをメディアは言いふらすものだからインフレ分を株高分と相殺させ、さらにインフレ以上の株高で気を逸らされている。インフレ経済では通貨以外の資産、株や債券そして実物資産に比重を置く必要がある。必要はあるが信用資産(誰かの負債の上での資産)は暴落するリスクがあるリスク資産であることは常に認識しておく必要がある。高騰した株は必ず暴落する。高騰した理由として会社の価値からではなく買いが買いを呼んで上がり、金融緩和による通貨増刷の行き場が無くて株に回って上がるという、暴騰しやすく暴落しやすい(ボラティリティが大きい)資産だということを頭に入れて持つ必要があるということだ。何の資産を持つとしても、儲けたいという下心がある以上、いつかは万物の裏切りを負うことになる。それは万物の本質、万物主管の意味を知らないものが知ることのできる良い機会かもしれない。
今日の想い 1479
ある親父が、家族を守り養うためだからと商売を始めたいという。その為に借り入れも必要だが、その月々の返済は当分の間はお前が働きに出て稼いでくれと妻に言う。しかし商売を始めたら始めたで軌道に乗せる為の更なる投資が必要になり、妻は掛け持ちしてでも働かざるを得なくなる。親父は自転車操業にのみ奔走し息抜きだと称して賭け事や遊びが増えていく。妻は疲れ果て夫への不満も重なって心身を病んでいく。そうやって家庭は崩れていく。では本部教会はどうだろうか。父の国は摂理だと言われて様々な事業に手を染めていく。母の国はその資金に奔走する。確かに順調な事業もあるだろう。しかし大方は維持するため更なるお金が必要で母の国にシワ寄せがくる。そのうち母の国からお金は流れてきて当然となり、増えることはあっても減ることはない。食口としては願いに応えるのは当然としても、日本の国として団体ぐるみで家庭が借金してまで他国に金が流れていくのを見過ごすわけにはいかない。法的にどうかというより日本人の感覚としておかしいと見られた。では解散させた日本政府はどうだろうか。平和憲法で武器を持てない日本を護ってきたのは同盟国アメリカで、70年も護ってきたその費用は日本が当然出すべきだろう、というのがトランプの言い分だ。それで日本は3年の間に80兆円出すことになり、同じ手口でEUに80兆円、そして韓国に50兆円のみかじめ料を要求している。その金をトランプの作った国家ファンドで運用、AI産業が必要とする莫大な電力を供給するための原発資金となる。トランプはフーバーの失敗(世界恐慌)のようにスタグフレーションには絶対させまいと株価の維持、特に株高騰の牽引役である半導体やAI株を維持させようと躍起になっている。選挙で世話になったユダヤロビーに丸め込まれて、中東利権を得るべくイラン戦争に手を突っ込んだものの、引くに引けなくなった。繰り返す言葉だけの勝利宣言で、実際はイランの要求にほぼほぼ応じるという結末になりそうだ。今のところ最終合意に至る60日合意(?)でお茶を濁している。妻は夫に翻弄されて心身を病み、日本食口は本部教会に翻弄されて解散させられ、日本国は同盟国アメリカに翻弄されて国の財産を吸い取られている。
今日の想い 1478
堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。また、無知と無情緒からはいかなる意志も生ずることはできないのである。ー総序ー
総序のこの部分は色塗りされていない部分だが、私には色塗りされていない部分により多くの真理と知恵を見てとることができる。この部分から繋がる言葉は、人間において、知情意がその役割を果たすことができなくなれば、そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない、とある。人間にとって魂の活動である知情意が薄まれば、飲んで食べて寝る動物に近づいていくのであり、知情意の活動が強くなればより位相は本来の人間に近づいていく。知ることとしてみ言葉を学び蘇生の力を得てはいても、そこに留まらずに知ることから感じること、感じることから意志することへと繋がって人間としての位相に立てる。み言葉は確かに学んだかもしれないが、同じ御言葉を学んでも本来は人それぞれ人生経験や生活環境によって認識は変わってくる。それぞれ違うはずなのに知ることから感じることをすっぽかして十把一絡げで活動していく。認識から情緒、情緒から意志なのだが、自らの意志によるものではなくノルマ的に押し付けられた活動を私達はしてきた。その副作用がないかと言えば、私はある。それはトラウマにも近い副作用として抱えている。解散はされたけれども、組織的にアベルの号令のもとノルマに狂騒するという、そんな同調圧力的脅迫のない自由を得ることができたことに対しては二世以降を生かすことができる道筋が見えるようで希望的だし、スクラップされたけれどもこれからが本当のビルド、創造活動だと信じている。実際一世が次世代に残す愛の基盤、愛の繋がりが築けたとは思わない。個人的なことを言うと愛のない教会からは足が遠のくし、行くとしても条件的だ。一世を反面教師として花咲き果実を天に捧げる二世であって欲しい。
2026年6月24日水曜日
今日の想い 1477
解散は確定した。既にわかっていたことだが、それでもまさかの事があるかも、と期待を持ち続けた食口も中にはいたのだろうか。人生の殆どを摂理に賭してきた、その中心である教会が国から断罪された。私いち一世の想いとして、これまでの苦労は何だったのかと改めて思う。社会に於ける自分を罪人同様に貶める為の苦労を生涯を賭けてわざわざ重ねてきたのだろうか。お前たちが余りにも無知だからサタンの片棒を担ぎ続けてきた、と鼻で笑う神霊があるとするならそれはどういう神霊だろう。蔑まれて当然のお前たちだと言わんばかりに、。騙され捨てられたこのどん底からどう這い上がっていけば日の目を見る私達になれるだろうか。食口に会えば、あたかも希望的側面しか見ないのか見えないのか、がんばりましょうだとかこの試練を乗り越えれば祝福があるだとか、そんな言葉をかけられて力が湧くほど幼くもないし、無知でもない。そんな楽天的な物言いの食口に限って摂理のために真摯に責任をとろうとする決死の覚悟は見当たらない。落ち込んで今にも存在が消え去りそうだと思える食口に会いたい。この期に及んでケロッとしている食口は、わずか残っている食糧を計画性もなく食べ続けて笑っている御目出度いキリギリス人種だ。キリギリス人種が教会に蔓延してしまってこの体たらくであり韓国と日本の現実だ。新会長は教会に変る団体を立ち上げて何をするつもりだろう。宗教法人ではないとしても同じように献金し伝道できる組織作りだろうか。それは一体何の摂理を願ってのことだろうか。独生女、天の父母様観を推し進める為だろうか。はたまた韓国本部を援助したり神殿建設の更なる邁進だろうか。それともただ単純に二世達の受け入れ皿だろうか。