2026年8月8日土曜日

今日の想い 1484

母の腰の痛みが酷い。整形外科に連れて行って注射も何度か打ってもらったが、一向に良くなる気配はない。これ以上一人で生活するのは無理だと踏み、ひと月前から母のところに移り住んで世話している。妻とは別居生活だ。妻は妻で透析通い、母は母で90を超えた歳のせいもあるが足腰を痛め、そして私はというと不眠と耳鳴り、更年期障害の諸々の症状を抱えている。人生の終盤の現実を思い知らされながら戦っている。昨日は月に一度の母の診察日だった。痛みで歩けもしないのに車椅子には乗らないという。どうしてかと聞くと恥ずかしいから嫌らしい。何が恥ずかしいのかさっぱりわからないが、母には母の感情があるらしい。杖でゆっくりゆっくり移動するのも迷惑だし、コケでもしたらそれこそ大迷惑だ。そう説明すると何もかも嫌で安楽死させて欲しいと言い出す始末だ。自分の命だから自分の好きにしたいという。これまで愚痴も言わず世話してきた私も流石に癇に障り、あれだけ南無阿弥陀仏を毎朝毎晩唱えながら、自分で生きているのではなく阿弥陀如来に生かされていることもわからないのかと声を荒げた。息子の声高な物言いに圧倒されたのか急にしおらしくなり、苦笑いで誤魔化しながら息子の言うままに素直に車椅子に乗った。小さい母が乗った車椅子を押しながら、母に放った言葉は実は私自身に向けての私に諭すべき神霊の言葉だと思った。自分こそ生かされていることを忘れていた。

2026年7月28日火曜日

今日の想い 1483

 金の亡者は天国に行けないらしい。しかし金の亡者とは誰の事だろうか。金持ちと言われる富む者を一般に金の亡者とはいわない。強盗なり麻薬組織なり、人の不幸を引き換えに得た金銭、すなわち悪銭を得てこそ金の亡者だと思うのだがどうだろう。しかし正当な方法で金持ちになったにもかかわらず貧しい者に施さないとか、ケチぶりが激しいとかのみならず、道義的に何ら問題ないにも関わらず投資や財テクで大金を稼ぐ者達まで金の亡者に括られてしまう。益を得る、すなわち金を増やすという価値の創造には、金に対する想いなり哲学がなければ増やすという価値創造は成り立たない。逆を言えば、万物に対する想いや哲学の位相に応じて価値創造は発揮される。相続による成金や、宝くじや馬券での一発成金もいるにはいるが、主管する人の器に順じてそれ以上は大抵流れ去るものだ。全ての富む者に対して偶然に彼等は金持ちになったのだから、万民に分け与えるべきだ、という思いがどうも金の亡者という言葉には隠されている。たとえ地上天国になったとしても持つ者、持たざる者は出てくるのであり、私達が描いている強制ではない共産主義、そして所有欲のない人格、などは絵に描いた餅でしかないと思っている。AIやロボットの進化と共に、一方で働かずとも無条件で生活資金を得られるベーシックインカムの議論も出されているが、それは人間を怠惰にさせる何物でもない。それは資本主義国家に於ける共産主義政策だ。

2026年7月16日木曜日

今日の想い 1482

 風前の灯、という言葉そのものが今の私だろう。生涯を通して信仰で培ったものがこれほどに心もとないとは思いもしなかった。霊的にどうのこうのという以前に、自分の気持ちすら主管できない。そして何らのすがるものもなく、風が吹けば宇宙の暗黒の遠い彼方に追い遣られ、藻屑となって消え去る。今この状態で思うと、よくぞここまで生きてきた、いや生かされてきたものだ。原理に出会わなければとうの昔に命の灯は消え去っていただろう。あの暗い田舎の山に一人二人と吊るされてきたように、、。生かされてきていったい何ができたのか。骨のみになった枝から垂れ下がっている柿の実の一つでも天に供えることができたのか。人と呼ばれる生き物が、何の躊躇もなく潰される蚊と同じだったという、その一言を告げる為にのみ生きてきたということか。たったそれだけのことで、父や母を嘆きの底に追い遣って、摂理に携わってきたのであれば、私の罪は百死に値する。それでも生かされてきたことに変わりない。せめて残り少ない生を、灰をかぶって悔い改める意志でもあるのなら、今ある状況などなんてことはない。甘んじて受けて当然だろう。悲嘆の海に沈む神様であったろうし、苦悶に次ぐ苦悶の連鎖に身を投じる神様であったことを、未だ生きてこの身で感じることができることに感謝すべきだ。アボジが明かされた悲しみの神様の様相は確かにその通りだった。

2026年7月9日木曜日

今日の想い 1481

今年に入ってヨブ記のヨブ状態が続いている。この暑い最中、悪寒が襲って眠れない。疲れて眠りにつきたいのに副交感神経が働かないらしい。耳鳴りが始まる。ひどい時は後頭部内が砂嵐状態だ。耳鳴りというより頭鳴りだ。そして、身体の左、特に左肋骨の下から脇腹あたりがずっと痛む。帯状疱疹だと診断されてはいるが皮膚の炎症までは至っていない。、、にしてもずっと痛いままだ。親父を亡くした辺りから憑き物が憑いたように、理由の知れない症状にずっと悩まされ続けている。あたかも昔の当時の自分、自分史の螺旋の合致点が今の今であるかのように、当時の不安と恐怖が40年を超えて一巡して襲っている。自分が何者かを知り、自我として霊的に立っていながら、まさかこんな試練、というべきか仕打ちかはわからないが、それは超えた試練としてもう無縁だと思っていたのに、70の手前で乗り越えるべきものとして天が許可した運命なのだろうか。頭や精神がやられるのだろうかと思えるほどに、今不安に苛まされている。一番辛いのは疲れて眠いにもかかわらず眠れない、だから本来霊的な生素を睡眠を通して受け取れるはずなのにそれがままならない。難儀な生活を強いられる、その理由が先ず知りたい。癒して欲しいと切に願う以前に理由が知りたい。私は日本人である前に日本食口だと思っている。それは摂理を担う祝福家庭だから日本は二の次だと言うのではなく、その摂理が日本国と日本人に対してどのような意味があるのかを説明する責任が日本食口にあるということだ。はっきり言って献金摂理はその意味も理解してもらってはおらず、日本国への配慮は無視したまま突っ走ってきた。確かに説明責任云々よりも天の願いの方が優先だという言い訳は教会側では立つのかも知れない。しかし反社としての烙印を押されて尚、その説明ができないなら、国は教会が反社だと認定したことは正しかったと言われても仕方がない。裁判云々の言い開きは説明責任ではなく、我々側の言い分を押し付けたに過ぎない。実際のところ世界宣教にのみ献金が使われた訳ではない。特に有識者の間で問題視している使用目的は、献金した金が北朝鮮にも流れているという彼らなりの把握している事実だ。彼等はそれを人道的行為だとは認識していない。私達はそれを含めた様々な説明責任を日本に対してしていないし、すべきだとも思っていない。それは国を愛したと、それでも良心に恥じずに言えるのかどうか。教権の人事なのか日本の責任者が二世となった今、一世がやってきたヤコブの知恵は語られず、黒い所業を隠し持ったまま歳を取った者から霊界に送られる。一定数の有識者は、表沙汰にできない事実が隠されていると、そう思っている。全体として打たれ、ヨブのように個人として打たれ、私は終活をどう整理したらいいのだろう。

2026年6月26日金曜日

今日の想い 1480

 物価高が止まらない。物価高という言い方には国民への誤魔化しがある。本当はモノが高くなっているのではなく、通貨の価値が減っているのでモノが高くなっているように感じるだけだ。一生懸命預金口座に積み上げていっても、確かに引き出さなければ数字は積み上がっているが、その価値はどんどん減らされている。それは国が国債をばら撒いて通貨価値を薄めたからだ。今日の100円は昨日の100円に満たず、明日の100円は今日の100円に満たない。国債という国の借金の意味は、国民が給料と口座の数字だけを信じているうちにインフレでかすめ取られるということだ。国債をばら撒くと同時にその分インフレになればからくりが見えても来るが、通貨はまわりまわるものなので年単位の時差が出て誤魔化せる。年単位が半年単位、さらに月単位になるとさすがに国民は気付くのかも知れないが、株高ばかりをメディアは言いふらすものだからインフレ分を株高分と相殺させ、さらにインフレ以上の株高で気を逸らされている。インフレ経済では通貨以外の資産、株や債券そして実物資産に比重を置く必要がある。必要はあるが信用資産(誰かの負債の上での資産)は暴落するリスクがあるリスク資産であることは常に認識しておく必要がある。高騰した株は必ず暴落する。高騰した理由として会社の価値からではなく買いが買いを呼んで上がり、金融緩和による通貨増刷の行き場が無くて株に回って上がるという、暴騰しやすく暴落しやすい(ボラティリティが大きい)資産だということを頭に入れて持つ必要があるということだ。何の資産を持つとしても、儲けたいという下心がある以上、いつかは万物の裏切りを負うことになる。それは万物の本質、万物主管の意味を知らないものが知ることのできる良い機会かもしれない。

今日の想い 1479

 ある親父が、家族を守り養うためだからと商売を始めたいという。その為に借り入れも必要だが、その月々の返済は当分の間はお前が働きに出て稼いでくれと妻に言う。しかし商売を始めたら始めたで軌道に乗せる為の更なる投資が必要になり、妻は掛け持ちしてでも働かざるを得なくなる。親父は自転車操業にのみ奔走し息抜きだと称して賭け事や遊びが増えていく。妻は疲れ果て夫への不満も重なって心身を病んでいく。そうやって家庭は崩れていく。では本部教会はどうだろうか。父の国は摂理だと言われて様々な事業に手を染めていく。母の国はその資金に奔走する。確かに順調な事業もあるだろう。しかし大方は維持するため更なるお金が必要で母の国にシワ寄せがくる。そのうち母の国からお金は流れてきて当然となり、増えることはあっても減ることはない。食口としては願いに応えるのは当然としても、日本の国として団体ぐるみで家庭が借金してまで他国に金が流れていくのを見過ごすわけにはいかない。法的にどうかというより日本人の感覚としておかしいと見られた。では解散させた日本政府はどうだろうか。平和憲法で武器を持てない日本を護ってきたのは同盟国アメリカで、70年も護ってきたその費用は日本が当然出すべきだろう、というのがトランプの言い分だ。それで日本は3年の間に80兆円出すことになり、同じ手口でEUに80兆円、そして韓国に50兆円のみかじめ料を要求している。その金をトランプの作った国家ファンドで運用、AI産業が必要とする莫大な電力を供給するための原発資金となる。トランプはフーバーの失敗(世界恐慌)のようにスタグフレーションには絶対させまいと株価の維持、特に株高騰の牽引役である半導体やAI株を維持させようと躍起になっている。選挙で世話になったユダヤロビーに丸め込まれて、中東利権を得るべくイラン戦争に手を突っ込んだものの、引くに引けなくなった。繰り返す言葉だけの勝利宣言で、実際はイランの要求にほぼほぼ応じるという結末になりそうだ。今のところ最終合意に至る60日合意(?)でお茶を濁している。妻は夫に翻弄されて心身を病み、日本食口は本部教会に翻弄されて解散させられ、日本国は同盟国アメリカに翻弄されて国の財産を吸い取られている。

今日の想い 1478

 堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。また、無知と無情緒からはいかなる意志も生ずることはできないのである。ー総序ー

総序のこの部分は色塗りされていない部分だが、私には色塗りされていない部分により多くの真理と知恵を見てとることができる。この部分から繋がる言葉は、人間において、知情意がその役割を果たすことができなくなれば、そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない、とある。人間にとって魂の活動である知情意が薄まれば、飲んで食べて寝る動物に近づいていくのであり、知情意の活動が強くなればより位相は本来の人間に近づいていく。知ることとしてみ言葉を学び蘇生の力を得てはいても、そこに留まらずに知ることから感じること、感じることから意志することへと繋がって人間としての位相に立てる。み言葉は確かに学んだかもしれないが、同じ御言葉を学んでも本来は人それぞれ人生経験や生活環境によって認識は変わってくる。それぞれ違うはずなのに知ることから感じることをすっぽかして十把一絡げで活動していく。認識から情緒、情緒から意志なのだが、自らの意志によるものではなくノルマ的に押し付けられた活動を私達はしてきた。その副作用がないかと言えば、私はある。それはトラウマにも近い副作用として抱えている。解散はされたけれども、組織的にアベルの号令のもとノルマに狂騒するという、そんな同調圧力的脅迫のない自由を得ることができたことに対しては二世以降を生かすことができる道筋が見えるようで希望的だし、スクラップされたけれどもこれからが本当のビルド、創造活動だと信じている。実際一世が次世代に残す愛の基盤、愛の繋がりが築けたとは思わない。個人的なことを言うと愛のない教会からは足が遠のくし、行くとしても条件的だ。一世を反面教師として花咲き果実を天に捧げる二世であって欲しい。

2026年6月24日水曜日

今日の想い 1477

解散は確定した。既にわかっていたことだが、それでもまさかの事があるかも、と期待を持ち続けた食口も中にはいたのだろうか。人生の殆どを摂理に賭してきた、その中心である教会が国から断罪された。私いち一世の想いとして、これまでの苦労は何だったのかと改めて思う。社会に於ける自分を罪人同様に貶める為の苦労を生涯を賭けてわざわざ重ねてきたのだろうか。お前たちが余りにも無知だからサタンの片棒を担ぎ続けてきた、と鼻で笑う神霊があるとするならそれはどういう神霊だろう。蔑まれて当然のお前たちだと言わんばかりに、。騙され捨てられたこのどん底からどう這い上がっていけば日の目を見る私達になれるだろうか。食口に会えば、あたかも希望的側面しか見ないのか見えないのか、がんばりましょうだとかこの試練を乗り越えれば祝福があるだとか、そんな言葉をかけられて力が湧くほど幼くもないし、無知でもない。そんな楽天的な物言いの食口に限って摂理のために真摯に責任をとろうとする決死の覚悟は見当たらない。落ち込んで今にも存在が消え去りそうだと思える食口に会いたい。この期に及んでケロッとしている食口は、わずか残っている食糧を計画性もなく食べ続けて笑っている御目出度いキリギリス人種だ。キリギリス人種が教会に蔓延してしまってこの体たらくであり韓国と日本の現実だ。新会長は教会に変る団体を立ち上げて何をするつもりだろう。宗教法人ではないとしても同じように献金し伝道できる組織作りだろうか。それは一体何の摂理を願ってのことだろうか。独生女、天の父母様観を推し進める為だろうか。はたまた韓国本部を援助したり神殿建設の更なる邁進だろうか。それともただ単純に二世達の受け入れ皿だろうか。

2026年6月23日火曜日

今日の想い 1476

 アボジはパンタナールでは誰よりも多く飛んでくる蚊と闘われたとある。蚊の世界では「真の父母の血を誰が味わうか競争しよう」と言っている、と言われた。その言葉を聞き流すだけのアボジ流の表現と取るか、或いは事実として蚊の世界がそうなのか。今私は鳴りやまない耳鳴りと頭鳴りと闘っている。かれこれ数週間になる。今年になって体調が優れず、自律神経の問題なのか交感神経の興奮収まらずで睡眠に支障を来してしまった。今は導入剤なしでは一睡すらできない状態だ。それが原因でもあるのか、或る時から頭の中から雑音が発して、それが一日中止むことはない。眠れないだけでも狂いそうなほど気が滅入るのに、加えて頭の中に蝉が入り込んで鳴きやまない。最初は直すことに必死で色々調べたり試してみたり、もちろん医者にも相談したが一向に鎮まる気配がない。それで今はどういう状態かというと、どうすればこの状態に慣れる自分になれるかを試行錯誤している。日中動き回っている時は意識を逸らすこともできるが、一端落ち着こうとすると途端に蝉はがなり始める。私は信仰者でもあるので、この状態の内的意味を尋ね続ける。どういう因縁の災いなのか何を報せ学ばせようとしているのか、心はフル回転だけれども焦って良いことは何一つないだろう。焦れば焦るほど状態は悪化する。この内外の不快状態をどうにか甘受して先ず治らなくても自分を保てる私になることだ。言うは易し行うは難し、だ。アボジは知情意の、特に知に富み、受け取る姿勢さえあればアボジの何気ない言葉にも叡智が宿り隠されている。本来の御母様は、常に涙が枯れることがなかったように情に富んでおられるはずだ。聖霊実体は、その権威として知ではなく情にあると私は信じているし、御母様もその位相に戻られるはずだ。私はというと、今は雑音以外何ものでもない鳴り止まぬ音という波動をなだめ、愛し、主管しなければならない。

2026年6月21日日曜日

今日の想い 1475

 どれほど牧会者による素晴らしい言葉に触れて心が高揚しても、どれほど訓読しみ言葉に接しても、それで結果が自動的に手に入る訳ではなく、飽くまで意志を差し出すという実践行動の過程を経て結果を残さなければ意味はない。行動に移さずに心に貯め置けば、心は消化しきれず、受け入れた莫大なみ言葉で心の動きは止まってしまう。過食した消化器のような反応を心が始めてしまい、特定の理解しやすい箇所のみ言葉、例えば裁きや罪人判定のような受け身の言葉のみに心が集中し、自分で自分をMCしてしまいかねない。非原理圏だ堕落世界だと認識して外部との接触を避けてしまっては生活感覚がずれるのみならず、社会の中に生きて働く善霊、神霊との関係も遮断してしまう。地域社会からの保護や国民としての恩恵に与りながら、しかもそれらは外面のみならず文化や教育背景という内面への恩恵もあずかっているのだが、それを当然のことのように感謝もせず、偏ったみ言葉理解で背を向けていいはずがない。教権指導部によるみ言葉教育と献金伝道一辺倒の指示にも問題があるが、それ以上に信者の愛の人格や霊的生命を重要視していないことの方がより問題だ。アボジが中庸という言葉を出されたように、何事においてもバランスを取る必要があり、信仰による謙虚さより独善的な面を強調したり、知性と行動のバランスを失ったり、様々な弊害が起こりうる。

2026年6月16日火曜日

今日の想い 1474

 人は己の死の間近にあることを認識したとき、態度としてどういう段階を踏んでいくだろうか。先ず、まだ死ぬはずがないと抗うだろう。そして死への不安と恐怖を味わう。その上で死に対して受け入れようと死を友にするかのような親しみで不安を取り除き平安で満たそうとする。最期は死を準備し、迎える仏なり神に委ねる。私は未だ死の宣告も受けていないし、死が近付いている感覚もないから仮定でしかないが、当たらずとも遠からずだろう。しかし何度かの訳のわからない病に襲われた時、私は同じ路程を辿った。先ず直ぐにでも症状は回復するはずだ、どうやったら癒されるかと抗う。しかし時間と共に悪化したり回復の気配が見えない時、不安と恐れに対峙して病に対して内的用意を整える。この病を通して学ぶものがあり悟るものがあると、或いは何らかの条件として迎えていると納得させ、痛みや辛さを親しみで対する。最期は治ろうが治るまいが甘受し神に委ねる。病に限らず、何らかの受け入れ難い問題が発生したときも同じような路程を辿っていく。別に一般人に限らず食口だってそうだと思うが、身体的にしろ心的にしろ、或いは対外的問題にしろ内面の問題にしろ、我が身に起こって楽しいはずは到底なく、捨てられたという孤独感で感情の底を打つ。しかしその感情に主管され、拘束されれば、私はサタンの罠に嵌ることになる。悲観的感情を捨て置き、創造的行動に、そして奉仕する行動に身を捧げることだ。そうやって自分を押し出し、もがきながらでも感情に主管される私を乗り越え、意志を高く掲げて前進していく。それでこそサタンの子女ではなく神の子女だと証明できる。この道に来た以上その試練は何度も来るのであり、そして何度も乗り越えていく。

2026年6月10日水曜日

今日の想い 1473

 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。 イザヤ書53章より、、

やがて来られる御方を栄光の主として預言されたところもあるが、神の一人子であるのにこのように人々から見捨てられる者として預言されたところもある。旧約のこの部分に触れるときに、私の心は動揺する。それはどうしても、御母様の状況と重ね合わせてしまうからだ。私が素直に天の父母様神観を受け入れ、独生女信仰に入っていくことができれば、自律神経に支障を来すほどの動揺には至らないだろう。しかし原理とアボジのみ言葉でまかりなりにも知恵がついた私は、どうしても御母様の言動と認識を素直に受け入れることができない。イエス様が地上におられた当時の、当然のこととしてユダヤの王として君臨される御方の絵を描いていた、そのユダヤ人からしてみれば、イエス様像が全く異なっていたと同じように、、。白い衣を纏って空から舞い降りる再臨主のイメージを描いていた、そのクリスチャンからしてみれば、東洋人のアボジを受け入れることができなかったと同じように、、。御父様を立てられ、良妻賢母の御母様こそ聖霊実体だと、思い込んでいた私も、御母様御自身こそが原罪なく、イエス様という一人子に対する独生女だと権威を立てられる御母様に対して、ユダヤ民族やクリスチャン達と同じ道を辿っているのだろうか。アボジのみ言葉に従わない御母様だから神の手にかかり、打たれて苦労しておられるのだ。そんな言葉を聞くのは一人や二人からではない。彼等の言動はイザヤ書に預言された言葉と同じだ。そこまで真逆に振れる言動は私にはできない。御母様の苦難は私達の痛みを負って下さった、私達の責任を背負って下さったからだと、その想いも当然あって、私の心は暗く混沌状態だ。

2026年6月9日火曜日

今日の想い 1472

 日本が負けるもここまで悲惨な敗戦となった理由は、本土決戦に至るもやむなし、日本人総決死に向かわせた大本営判断の硬直化がもたらしたものだと思う。日本教会が解散にまで至った理由も、日本人ならではの硬直したアベルカインという日本全体の信仰観がもたらした結果と思っている。日本の教会の責任者にも食口にも、日本は摂理案件に犠牲となって当然、日本が潰れるまで搾り取れるだけ搾り取り天に捧げて当然という空気があった。今となっては不思議にも思えるが、中心者の言葉や指示にどこまでもいいなりになる犠牲的熱狂感が教会食口全体を覆っていた。しかし、熱狂感にのぼせている期間はそうそう長くは続かない。既に事件が起こる以前から、このまま放出し続けてどうなるのだろうという冷めた思いは誰もが持っていた。遠藤周作は沈黙の中でフェレイラ神父に、この国は沼地でキリスト教は根をおろさぬと言わせている。フェレイラが伝道した彼等が祈っていたのは、キリスト教の神ではなく日本流に屈折された神だった。はたして私達日本食口はどうだろうか。アボジがいう神と同じ神だろうか。キリスト教が祈る同じ神だろうか。仏の慈悲とキリスト教の神の慈悲の違いはというと、己の中には弱さしかないから仏にすがるしかないというのが前者で、己の強さを神への信仰で育んで自らが自らを救うのが後者だ。なかなか日本に居るとこの違いが見えてこないし、日本人の神観(ほとけ観?)は世界の神観と当然同じだと思っている。すがり信仰である清平摂理に着いてこれない西洋の食口が多いのも神観や信仰観が異なるところからそうなっている。日本の敗戦が悲惨になったのも、日本の教会が解散されたのも、自分は中心ではなく、自分は何もわかっていないし弱い存在だから周囲に合わせ、大本営やアベルの声に従うのみ、その結果と見ることもできる。そういう日本人の自我喪失(自分の中に霊(良心、良神)が立っていない)が本質の問題としてあるから同調圧力の村社会になってしまう。日本社会がそうであり、日本の教会もそうだ。

2026年6月7日日曜日

今日の想い 1471

ここ広島は、台風一過で穏やかな風が吹いている。温度は28度だが、湿気があるとないとで体感温度はこうまで異なる。何とも平和な午後だ。家路に着く児童達の、歩道橋の上で声高に言い合いその響きが青空に広がっている。こんな、穏やかで誰もが気を抜いている時に事は起こる。誰かの本でそんな箇所を読んだ記憶があるし、そう信じてもいる。ニュースを見ても、SNSを見ても、不安材料には事欠かない。ミサイルが方々で打ち上げられ、破壊も続き犠牲者も増えている。景気が良くなる兆しさえ見えないのに、それでもマーケットは青天井だ。そしてこの穏やかさだ。もう狂っているとしか言いようがない。アボジが語られていたD-DAYはどんな様子で来るのだろうか。或いは来ないのだろうか。D-DAYを前にしてX-DAYが来てしまった。私達は今、再臨のメシヤが地上におられない時代を生きている。すなわちアボジの口を通して摂理の実情を受け取れない私達だ。世界で起こっていることの本質的意味も、これから起こるであろうことも、この耳から受け取ることはもはやない。だから良心を通して尋ねる以外の方法はないにもかかわらず、私の霊的感性は、神霊の叫びを直接に受け取るほどには研ぎ澄まされていない。何となく感じるものがあるとしても、それは余りにも心もとない。先輩食口がどれほど科学的見地に立てと言われても、科学的論理的側面から摂理を見通せるとはどうも思えない。現実は、誰も得しないイラン戦争の継続、トランプの言動に踊りバブルを更に膨らませるマーケット、通貨の増刷に次ぐ増刷によるインフレと通貨価値下落、そしてこの秋には生活苦として忍び寄る資源不足と食糧不足。

2026年6月2日火曜日

今日の想い 1470

 愛は関係性を無視しては表せない言葉だ。関係性の中で産まれ、関係性の中で育まれ、関係性の中で花開く。真の父母を根として繋がった食口達が愛の人格者であり愛の群れであるかどうかは、真の父母との関係性、兄弟姉妹との関係性の中で愛が産まれ、愛が育まれたかどうかだろう。蕩減路程の献身生活は従わなければ振り落とされる、思い描く愛のイメージとは真逆の歩みの連続だった。しかしアボジが語られた「過ぎてみれば愛だった」というみ言葉をひたすら胸に、そこを信仰の基として、生きて地獄の道を歩んできた。アボジは過去の困難をどのように愛と認識されたのだろう。アボジが言う愛の概念を私が受け取っていないことを考えると、そんな問いはアボジに対しても、愛に対しても無礼な問いなのかもしれない。愛はなくとも、少なくとも私はこの道に希望を感じて、その静かな高揚感で歩み始めた。歩みの中で希望の影が薄くなっていっても未だ辿り着けない愛、真の愛を手にできるという信仰を繋いできた。そして、歳を取った。今までの歩みの中で、試練なのか苦難なのか、その一つ一つを思い起こしながら、それらが愛に繋がるどんな要素が含まれていたのか、愛に照らし合わせてどう人格を形作ったのか、死の門を通過しなければ認識できないと一方で思いながらも問い続けている。はたして「過ぎてみれば愛だった」というアボジの言葉をこの地上で口にできるのかどうなのか。この星の存在理由が愛の完成であり、もし失敗するのなら人類を含め全ての存在はブラックホールに吸い込まれるだろう。トランプは最高のカードを切ったつもりが、最悪の結果になろうとしている。MAGAを立てる為には他国との関係性が重要であるにもかかわらず、独善的では関係性は立たない。関税、ウクライナ戦争、それからイラン戦争の経過をみればよくわかる。これから更にアメリカはもがけばもがくほど孤立していく。私達も真の愛を標榜するなら関係性を考えるべきだ。教会内だけに通じる道理では関係性は築けない。これまでの負の遺産をも無駄にせず、社会との関係性、国との関係性、世界の中での位置を、信仰の原則ではなく愛の原則から問い直してみるべきだ。

2026年5月24日日曜日

今日の想い 1469

 教会がなければ生きていけないという「すがり信仰」であれば、教会がなければ死ぬこともできないと思うだろう。要するに教会による昇華式を挙げてもらわなければ堕落人間の死去と同じで、神様(御父母様)と共にある位相にまで引き上げられることはない、すなわち地獄行きとなる、と信じていることになる。教会の人生とこの世の人生が異なることはそうかも知れないが、教会の食口ですら誰一人同じ人生を歩むことはない。同じように、同じ昇華式を挙げてもらったところで誰一人同じ昇華(死)の道を歩むことはない。死の意味も死の状況も死への道筋も全て異なっている。肉体を脱ぎ去って故郷へ旅立った後、或る霊界の落ち着き処に赴くとしても同じ位相、同じ霊界、同じ霊的環境ですらないと思う。昇華式という儀式を用意された意味は、興進様の死を御父母様の愛で乗り越えられた、その愛の勝利圏を私達の死に対しても同じ勝利を儀式を通して相続することができるということだ。死の概念から聖和の概念へと、アボジの勝利で転換された。それはアボジの愛の勝利の概念をどの程度相続しているかによるのであって、食口間でいう昇華式という形だけ押さえれば天国に行けるなどと思わない方がいい。教会に長く付き合うことで、或いは当然のように通いつめることで、儀式の形だけにこだわりすぎて本質を見落としてはいないだろうか。祝福式の形だけ、昇華式の形だけ、そして祈祷の形だけかも知れないし信仰ですら形だけかも知れない。教会の中に神様が認める愛がどれほどあるだろうか。家庭の中にこの世の家族を超える愛があるだろうか。私は愛の人格を求めているだろうか。

2026年5月16日土曜日

今日の想い 1468

 私達の本当の闘いはこれからだろう。私達が教会員として内外的に頼っていた、すがり信仰と言える部分の組織やシステム等の外的なものが破壊されれば、残るのは自分が御父母様から相続した内的霊的本質と、信仰生活を通して培った、心情とまで言えるかどうかは別としての内的霊的感性だ。絶対服従すべき対象を外に見ていた信仰観から、良心という私の内面に服従の対象を見るという戸惑いがあるのは当然だが、180度異なるように思える信仰観に馴染めないからと言って先天の信仰観にすがり続けるのは天の願いではない。それを無理くり続けようとするのは執着だ。時代は既に先天から後天に移っている。母子共助時代から父子共助時代に移っている。教会時代から家庭連合時代に移っている。以前も述べたようにアボジがいう家庭連合は名前を変えた教会ではない。蕩減時代から再創造時代に移っている。敢えて言えば地動説から私を中心とする天動説に移っている。アボジが陽暦から陰暦と言われたのは陽暦を否定されたのではなく、陰暦で読み解かなければ天の摂理が見えないということだ。そして世界を見ても既存の体制は崩れる一方だが、崩れると同時に次なる世界体制が芽を出し始めている。しかし既存の体制に執着する者は新しい息吹に対しては無感覚だ。

2026年5月10日日曜日

今日の想い 1467

 過去を辿ってみて、私達は勝利した体験を持ち合わせているだろうか。様々な摂理的戦略がアボジから出されてきたが、それをアボジが勝利と認められ、私達もその勝利の実感を持ったことがあっただろうか。もしあるとすればアボジが立たれた大会の数々だろうけれども、それらが私達の中に勝利的体験として刻まれているのかどうか。アボジ自身は勝利を認識しておられただろうし、それ故に次なる霊的摂理段階へと駒を進められたのだろうが、問題は私達の中にその同じ勝利体験があってそのアボジの想いや認識を共有していったのかどうかだろう。それが無いか曖昧なら、その勝利は私と関係ありと言えるのだろうか。確かに外的な人数も、扱う万物も増えて大きくはなった。それは成功のひとつだろうと言えるかもしれない。しかし、今回解散させられてしまった。当然、成功の外的な意味は消え失せてしまった。少なくとも日本の教会は敗戦して潰されてしまった。日本人の霊性について研究されて、深い考察を持たれる鎌田教授は、常に勝者が政治や経済の権力を手にして敗者は敗者故の個と全体の否定感情から文芸や芸術分野に身を置いてきたと言っている。それは日本の歴史のみならず世界でもそうだが、敗者となった教会食口は国や世界を動かす政治や経済の道は閉ざされ、一端退いて内的確立を図り社会感情を動かせる道へとベクトルを変える以外ないだろう。今のまま突き進んでも、受け入れられる未来など想像もつかない。学会のような党を持てる力にも為り得なかったしこれからは更に活動を自粛させられる。聖和以降、教権の責任ある立場に立つ者がどういう摂理的方向性を取っていたのか、正直なところ私にはただ金集めと豪奢な神殿建設一辺倒の道しか見えなかった。あの建造物群は教権という権威の象徴なのか、或いはあの建設で霊的に突破できる何かがあるのか、摂理的意味のひとつも知らないし教えられていない。御母様が聖霊実体としての歴史的天宙的立場が、権威を立てられることだとはどうしても思えない。

今日の想い 1466

 献身生活は共同生活だ。一つの館に大勢が住み、全体スケジュール中心でパーソナルな部分はほぼほぼ無視されて、ベルトコンベアに乗せられたように毎日が消化されていく。共同生活していればお互いをよく知り合い、情的にも深い付き合いになると思うだろう。しかし私達の実態は全く逆だった。大勢の中にいながらそれぞれは常に孤独だった。私に対して誰も心を開かないし自分から心を開こうとしたこともない。帰国してすぐ大会があって名古屋まで行ったことがある。名古屋は訪米直前まで歩んでいた場所だ。会場の中で当時の中心者から、懐かしい数人に合わせてもらった。私は相手を覚えていたが、しかし相手は私を覚えてはいなかった。辛うじて名前だけは思い出してくれた食口もいたけれども、お互いああそうですかで会話は終わった。日本で共に歩んだ兄弟で、付き合いを続けてきた兄弟は一人もいない。兄弟と呼んだり食口(シック)と呼んだりするけれども、食口どころか同僚ですらなかった。ほぼ前線で朝から夜遅くまで歩んでいたし、帰ったら疲れ果てていて、目をこすりながら食事と反省会を済ませ、後は寝るだけだから当然のことなのかもしれない。戦時の死ぬか生きるかの中で共に歩んだ、戦友と呼ばれる関係性とは全く無縁だった。食口は皆、堕落性を持つ罪人だった。異性との会話どころか同性であっても、冗談を言い合えるような雰囲気すらなかった。「根明のsouka、根暗の教会」だった。地獄を一度通過しての天国への道だということはよく言われたし、そう思って耐えてきたが、私自身日本の教会にそのままいれば通過はおろか地獄のまま抜け出せなかったかもしれない。教会にいる二世達が教会の存続にあれほど一生懸命なのは、私が通過してきた当時の教会とは中身が全く異なるからだろう。

2026年5月5日火曜日

今日の想い 1465

 何を信じ何に従うのか、そしてこれからどうなるのか、暗闇の中に佇み続ける不安だけが魂を満たしていて愛の呼吸ができない。教会が混沌であるように世界も混沌の最中で、そんな状態で青空を眺め暖かな日差しを浴びても、この環境が一体誰の心象を表したものだろうとしか思えない。江藤淳が父の不在(天皇を戴く宗教性の不在)と母の崩壊(日本的倫理と秩序の崩壊)を記したように、教会もアボジの不在、そして三分裂からの解散命令によって、祝福家庭の価値を私達自身が問い、また問われている。今まではそれでよかったはずのイメージとしてのみ捉えていた観念的な全てを、本質的な概念として立たせない以上、私達の信仰基台は崩れていく。アダムエバもアベルカインも、そして万物主管も観念の域を出て概念として捉えてはいない。よって教会は地獄に行くわよという教条主義で教会秩序を保つしかなかった。しかし今教会自体が現実問題として崩壊している。形の上では既に母の崩壊が現実となり、独生女としての御母様という論理で立て直せるかどうかは甚だ疑問だ。神の全体的摂理はどこに向いているのだろうか。また祝福家庭の摂理はどうだろうか。人間個々の救いは教会を通せないとしたらどこに尋ねるべきなのだろうか。何もわからぬまま、何の光も見出せないまま、暗黒の期間を通過しているようだ。化石燃料が途絶えて電気がなくなれば世界の夜は真っ暗だろうけれども、既に私の内面はそれに先立ち荒涼たる暗黒が押し寄せている。