2009年9月29日火曜日

今日の想い 106

知ってみると、お兄さんだったというのです。お兄さんの立場から弟の立場から入れ替わっただけであって兄弟です。ですからこのような人々を、世界の人々を、皇族として扱うのです。統一教会がアベル的皇族なら、サタン世界はカイン的皇族です。(み言より)
我々が教会だと言う場合、サタン世界というカイン圏を愛しひとつになるという意志が備わってこそ、カイン圏を愛するアベル圏としての教会であると言うことができる。サタン世界というカイン圏を排除しようとする意志、排除意識が教会の中にあるのであれば、教会だサタン世界だと対立の境界線という城壁を高くするだけで、天の願いには反するものとなる。教会という概念の中に、サタン世界というカイン圏を愛し復帰する意志は込められていて、それが無いなら教会ではなくみ言を語る別のひとつのサタンの牙城を築いているに過ぎない。そう言う意味で開かれた教会になるべきで、探られて困るような裏事情は清算すべきであり、教会を守るという意識の中に、御父様を守りたいという思いがあるのはその通りだとしても、み言に鑑みてもう少し深く考える必要があると思う。親に手を上げる不良息子の兄がいて、親を守りたい一心で親思いの弟が兄に手をかけてしまった。そういう状況で親は本当に喜べるかどうか。サタン世界はカイン圏であった、知ってみるとお兄さんだったと言うのであり、不良であっても神様が愛する弟と同じ息子であったと言うことなのだ。神様にすれば、サタン世界に声をかけるとき、お前達を救いたいが為の教会でありアベル圏であって、彼らのみ(統一の群れのみ)が救われる事など思ったこともない、カイン圏に対してはそう語られるに違いない。我々が苦労するのも、親なる神様が悲痛な思いで別れざるを得なかったカイン圏を何としてでも迎えて胸に抱きたいが故であり、我々の苦労が報われるのはカイン圏であるサタン世界が戻ってきて神様に許しを請い、神様が彼らを息子としてかき抱く時の喜びを前にして初めて報いられるのだ。アベル圏である我々はその時、神様の愛がカイン圏に向いているのを見ながら、親の位置で一緒に喜んであげる事が出来るか、親の心情に立って歩んで来たのかを試される。

2009年9月28日月曜日

分派を考える

分派が分派として異端視されるのは、袂を別ち自分の旗を掲げたからであり、み言の解釈が正しいだとか正しくないだとかは全く関係ない。部分部分に於いては或る意味正しい事を言っているのかも知れない。しかし幾ら正論をぶちまけるとしても、別れた以上分派は分派なのだ。夫婦がお互い遣り合って大喧嘩になるとしても、別れなければ夫婦は夫婦であり、どちらか家庭から飛び出した者が責めを負うのと同じことだ。袂を別つのに解釈の違いが本当の理由なのだろうかと不審に思う。何らかの感情的な摩擦が起こり飛び出し、解釈の違いに言い訳をすり替えながら当の本人ですら解釈によるものだと思い込んでいる節がある。分派サイトを見ながら、巧妙に隠された恨みが文面や小奇麗なデザインの背後に窺えないだろうか。別れた以上、御父母様に抵抗する霊存在が係わって来るし、それらの思いである抵抗感情が湧いてくる。わざわざ出かけて行って話を聞いた事はないが、言っていることに反論できないからといってそれが真実であり、新たにそこに信仰を賭けようと普通思うだろうか。そこになびいていく兄弟も、何らかの恨みや教会から逃げたいという負の意志を働かせて、情の拠り所を求めて向かっているに違いない。教会サイトで分派に注意を呼びかけるのは認めない意志を提示する意味で必要であるけれど、必要以上に喚起しながら振り回されることに頭を悩ましている様子を示すべきではないだろう。わざわざ分派に対する反論を持ち出さずとも御父母様に帰依している兄弟であれば、そんなことでなびくはずはない。自分も分派以上に好き放題書き綴っているけれど、一つ屋根の下にいればこそ言える訳で、反論でもされれば違う意見も聞いてみたいし、お叱りでも受ければ腹も立つだろうけれど、かと言って出て行くことなど思ってもみない。教会内にいろんな問題はある。全てが正しいとは思っていない。しかしそう言った事柄に私自身も責めを負っている。問題提示して異を唱えることは大切だが、問題ゆえに教会から出て行くなら御父様の願いに対する責任から逃げることなのだ。もし私が異端視扱いされて教会を出て行かざるを得ない状態になったなら、真っ赤なページ背景にどす黒いシャレコウベの旗でも掲げ、破れたマントをなびかせた私が血走った眼で、私こそがメシヤだとスクリーン一杯に書き付けるサイトを作りたい。悪を際立たせる事によって教会は善の位置を磐石にする。分派もそれぐらいの演出をすれば目立つだろうし、分派の存在意義がある。

2009年9月27日日曜日

今日の想い 105

信仰がないとは言わない。しかし明らかに或る基準で止まっている。自分でラインを決めてしまって、それ以上の高い信仰内容を備えたいとの衝動がないとするなら、御父母様を慕い侍る意味は何なのか。自分なりの平安が取り戻されればそれで良しと思える発想は、良心から来るものなのかそれともサタンから来るものなのか。御父様は我々に何度も何度も尋ねられる。心と体が闘っているだろうと尋ねられる。そう尋ねられて自分は本当にそうであり、何とかこの闘いにケリを付けたいと堕落人間の恨みをまざまざと実感し、身悶えしている兄弟がどれだけいるだろう。自分という堕落実体がひとつの信仰基準を決めてしまっている状態で、心と体が闘っているなど思いも因らないことだろう。勝利された実体を目の前にしながら、御父母様と我々とは違うからという当たり前のような言い訳で自分を騙し、御父母様の高みに辿り着きたいという衝動は微かにも見出せない。自分という人間理想を掲げて、その理想への達成欲望こそ我々は内的な熱い熱い熱様相として、胸がはちきれんばかりの衝動を備えて当然なのに、外的な財産や名誉や権力への欲望さえも見出せなければ内的人間理想への願いも見出せない。この世の者達の方が外的な欲望を持ち合わせているだけ人間らしいと言えないだろうか。この世の者達がひとつの欲を実らせてもそれに満足できず、更なる大きな欲が溢れかえるという魂の乾きを経験しながら、自分の本当の願いは何だろうと問いを立て、内的な事柄に目覚める者もたくさんいる。そういう者達が御父母様を慕い侍る成約の群れを知り、見上げるものがあるとするなら、それは一体何だろう。それが無くて、御父母様を、真の家庭を証しすることはできない。我々は自分の魂を持たなければならない。今までは何が何だか解らないにも拘わらず歩んで来た。そう言った幼少期も必要だったろう。しかし未だに幼少期の状態であるならそれは御父母様に対する罪だと言えないだろうか。我々は力強い魂を育てなければならない。御父母様の願いを受け、打てば響く魂を持たなければならない。

2009年9月26日土曜日

今日の想い 104

理想と愛は人間に取って生命よりも貴いものなのにも拘わらず、今日、人間達はこのようなものが、自分のものとして自分に現れると思っていること、これが大きな誤解であり、愛と理想は何処から来るかと言うと対象から来る。(み言より)
理想と愛を願うのであれば、対象存在が必要だと言う事だ。しかし何の関わりも無い周りの人々を自分の対象だと言う事はできない。対象は主体があってこそ対象となりえる。愛の主体となってこそ愛の対象となりえる。相手の事を我が事として感じる力を衝動する力として、為に生きる生を生きる。自らの思考、感情、意志という魂を他者の魂に植付けて、自らの中に他者を感じるものを移入する。自己の為の魂活動を他者の為の魂活動とする時、真の愛は介入される。この力こそ霊界を知覚する能力となり、霊界を活動する能力となる。自己の本性の外に出て、他者の中に自己を感じるまでに徹底して帰依しなければならない。それが他を愛するということだ。自己の本質が他者の本質へと変わるのだ。御父様の心情の中に深く深く沈潜し、そしてひとつになる。御父様の心情圏の中に入り込んでこそ御父様の理想を御父様と共に生きる。自己の内側に内側に向けられる魂の力のベクトルを、御父様に向けなければならない。御父様の魂の力のベクトルは神様に向けられ人類に向けられている。したがって御父様に帰依すればするほど、魂の力のベクトルは他者に向けられる。心と体が闘う堕落様相、自己中心様相は必ず為に生きる本性様相に為り得る。自分は諦めるとしても御父様は諦めない。私に対するその予定は相対的であっても、私に働く神の予定は絶対的なものだ。神様の息子娘としての本性を備えることは約束されている。私は精誠に精誠を重ねて自己の内に向かう魂様相を真の父母の神霊によって一変されることに真摯に寄与しなければならない。為に生きる生こそ我々の人生哲学だ。天宙(家庭)主義を叫びながら為に生きる哲学を我々は生きる。

2009年9月25日金曜日

ルーシェルという霊的存在

ルーシェルが活動すべき領域は地上世界という感覚界ではなく、精霊が活動している感覚を超えた領域に留まるべきで、そこに於いてのみ発展させ培うべきものを、地上世界にまで引き入れてしまった。地上世界の感覚的意識では、ルーシェルの活動は人間の自己中心性、堕落性として引き入れたものしか認識することはできないが、地上界から霊界への領域、超感覚的領域に足を踏み入れれば、その地上世界への影響を及ぼす活動を捉える事が出来るはずだ。原理に記されているように、堕落の経路はルーシェルがエバを誘惑し、知恵がついたエバはアダムに向かう。ルーシェル存在は自我という独立性をその中心的性相として持っていた。ルーシェルが留まるべき霊的領域に於いて、自我としての独立性は魂を持った存在には必要で、その要素を持ちえてこそ一つの独立した魂として、死を迎えた肉体が土に返るような状況に魂が消え去ることはない。しかし問題はその性質をエバと交わる事でエバに渡し、エバがアダムと交わる事でアダムも受け継ぎ、本来地上には持ち込むべきではないその性質を携えたまま受肉してしまった。地上に於ける人間と言う魂の在り様は、一つ一つの肉体に宿りそれ自体が自我の独立性を備えている。その上に更なる独立性、強い自我感情を増し加えるなら、独立性を超えて自己中心的な在り様にならざるを得ない。既に独立性を備えられた人間としては地上生活に於いては逆へのベクトル、他の存在への帰依、他の存在への感情移入が魂の変化能力として必要なのだ。自己中心の愛という、愛する主体に根拠のある愛はルーシェルの影響下にあり、逆に為に生きる愛という、愛する対象に根拠を有する愛にはルーシェル的要素の入り込む余地はない。地上界に於いて自己中心的魂を強度にすれば、霊界に於いては自我の独立性は逆に弱まり魂は貧弱なものとなる。このように地上界と霊界とは、あたかも鏡がその境界に存在するように、逆説的在り様となって実在している。(あくまで私の主観であり、み言とは別物であることを付け加えておきます。)

概念の考察

何かひとつのものを示されて、これが愛そのものだと言われても納得することは無いだろうが、霊の認識に対しては感覚で捉える事が出来る固定的何かを求めている。愛がそこに存在すると言う時、一連の動きの中や過程の流れの中で、愛の存在性を把握しているし、感覚では捉えられないしかし在ると認める存在を指している。しかし、霊的な認識は愛の認識在り様とは違った、何か感覚的唯物的認識方法を当てはめようとしている。悟性という思考力を発達させた現代人としての堕落人間は、概念を感覚的、固定的なものとしてしか形成できなかった。固定的概念、唯物的概念で無機質な世界を築いても、そこに霊的実質は入り込めない。或る動きの中、或る過程の中に姿を表す霊を捉えようとするなら、堕落人間のそう言った概念を打ち砕く必要がある。内的霊的な事柄にしろ、外的な事物にしろ、移り行く法則から免れた存在など有り得ない。それを敢えて固定的概念で捉えようとするのは本当の認識とは言えない。自分という存在を見ても、昨日の自分と今日の自分は違う。一瞬、一瞬に於いて留まるところを知らない。それは心魂の在り様だけに留まらず、肉体の在り様に於いても、七年も経てば内蔵、脳細胞を含め全ての細胞は取り替えられている。百年千年変わらぬ岩山を前にしても、その存在を移り行く法則から免れた、固定的死の存在として受け取ることは間違っている。微動だにしない不変的な様相を差し出す為に、強固な霊的意志存在が不断なるエネルギーを投入し続けているが為に、その不変的表出を目の前にしているという本質的観察が必要なのだ。あらゆる存在様相を、そうあらしめる為に活動している霊存在を見ようとしなければ本質を認識しようとしているとは言えない。愛として受け取るとき、相手の表情や行動の中にそれが認められ受け取るように、無機質の死んだ概念を捨てて熱を帯びて活動する生きた概念を形成する時、事物の本質が見えてくるし本質の動きを通して自分に向かう愛を差し出しているのがわかる。

2009年9月23日水曜日

我が家のひとつの風景

この前、娘に向けて頭ごなしに怒りをぶつけてしまった。言動が横柄になり、言葉の中に親を否定する感情が乗せられていた。親として受け取れない言葉を吐き出すたび、私は崖から突き落とされ、自分の心のある部分を引き千切られる。その一つ一つに反応し言葉を返していたら更なる悪果を生み出すだろうと、ひたすら受け止めて我慢していたけれど、聞こえよがしに呟いた一言で堰はあっけなく切れてしまった。親に向けた不満感情でいっぱいの状態では、声を荒げる親に顔を向けようともしないし、視線は空を泳いでいる。それでも今を逃すべきではないと魂の限りを尽くし怒気を荒げて訴えた。小さい頃から子供らしくない落ち着きがあり、あまり手をかけなくともやるべき事は卒なくこなしていた。親としてそんなつもりは無かったけれど放任状態に置いてしまったのかも知れない。最近少ない親子の会話の中にも冷めた物言いがいつの間にか増えていた。更に言葉の中に開き直りとも取れない投げやりの態度が覗く。何とか対処しないと、と思った矢先の出来事だった。人間が出来ていない自分は堰が切られるともう留まるところを知らない。向かう娘に落ち着けと言われて余計に油を注がれる。しかし矢継ぎ早に被せられる感情的言葉に流石に怖気づいたのか、体を固くし口を閉めたまま涙を流し始めた。これ以上責め立てて取り返しのつかない域に入るのを憂慮はしたが、かといって抜いてしまった刀をどうしたらいいのか解らなかった。後悔の念が走った。奥の部屋で黙って様子を伺っていたのだろう。親父の横をすり抜け娘のところまで歩み寄ると、長男は妹の肩に手を沿え一言、分かっているよねとあやすように告げた。その言葉を待っていたかの様に、今度は娘が堰を切ったように泣き始める。正直なところ自分は安堵の胸を下ろした。そして息子の行動に心から感謝した。親父の威厳も保ちながら妹への配慮も忘れなかった。日曜の夜、学校の寮に送る間際の出来事で、中途で止められた準備を急いで支度するように子供に告げて、やっと自分の縛りも解くことができた。送る身支度をしながらも子供の動きを視界に入れると、息子が一回り大きく見えたし、そして肩を落して準備している娘が愛おしく思えた。

愛の風呂敷

御父様は家庭を、宝の壷である愛の風呂敷、と表現されている。家庭と言う括りを紐解けば、四位基台からそれぞれの位置の三対象愛、十二様相の愛が煌いている。親子に於いて、夫婦に於いて、兄弟どうし、与えて受ける情愛を回転させればさせるほどに、愛の密度は濃くなり、愛の深みは神秘的で、愛の高みはこの世的次元を超える。この世の中に、妖邪な酔いはいろいろあるけれど、家庭の愛に酔うことこそが本質的な酔いとして、神様もその愛に漬け込まれる程に喜ばれるだろう。愛が愛としての光を放ち、愛が愛としての旋律を奏で、高揚感の中で創造が始まる。生まれ出でたにも拘わらず、落ち着き場所を見出せなければ、放浪生涯の行き着く先、漆黒の闇に埋もれて消え去っていくしかない。家庭こそがこの世に生を受けて留まる故郷であり、立つ足場であり、生きる教理は家庭の中に全て打ち込まれている。家庭という愛の風呂敷の中で、家族の魂を大きく一つにしながら、思いっきり笑い思いっきり泣き、そして時には思いっきり怒る。家庭という愛の風呂敷の中で、穏やかな春に包まれたり夏の生命を弾かせたりする。愛の蔵に収穫したりより大きな魂の成長を身籠っていく。御父様の愛の風呂敷というこの表現が家庭にはピッタリだ。子供の頃、風呂敷包みの弁当を昼食時に開く時の、徐々におかずの匂いが広がる、あの何とも言えない期待感を思い出す。見た目に貧相なのが恥かしくて、隠すようにして箸を運んだけれど、それが申し訳なくて弁当に詰められた母の気持ちは余計に伝わって来た。御父様も風呂敷包みへの期待感が過去の体験にあるはずだ。家庭という愛の風呂敷包み、それは大きな大きな風呂敷で、紐解けばその時その時の愛の様相が、いろんな笑顔として、或いはダイヤや真珠の涙となって溢れるように飛び出してくる。

第二の株価フリーフォールで奈落を見る

アメリカの金融機関がどれ程の損失を抱えているかは、保有証券時価の評価停止を受けることで隠されたままになっている。それなりに評価できるものであれば、政府からの莫大な資金繰り支援を受ける必要はないだろう。三月以降、株価は上がり続けているが、これはあくまで各国政府の緊急策が出揃い政府資金の流入による期待効果で株価上昇に転じただけのことであって、株価に見る数字の推移を景気動向の表れと見る者はおらず、ある適度の上げ幅を捉えて確定売りをしてくる事は目に見えている。更にその売買資本は金融機関に貸し付けた支援金であって、返す当てのない国の金で博打をしている訳だ。にも拘わらず景気の底打ちを表明し、上向きになりつつあると言うような安心感をFRB議長を始め関係者が口にしているけれど、実体経済を直接見聞きし肌に感じる場に居ればそれは有り得ない。金融機関は支援金でジャブジャブにされながら、無茶苦茶な粉飾決算で利益が出たことにされて、経営陣はバブル当時のボーナスを又も懐に入れている。そこには商売人としての道徳や良心の欠片も見出せない。こうした腐りきった貪欲の輩をのさばらせるなら、もはやアメリカの摂理的意味は見出すことは出来ないだろう。消費すればするほど金が出てくる、打ち出の小槌の妄想をアメリカはここ数年見続けてきた。金融引き締め、緩和策は消費者物価動向を見ながら決められてきたが、資産価格が天井知らずの状態にあっても緑の爺さん(グリーンスパン)はあいも変わらず物価動向だけを瓶底めがねで見続けて、何もしなかった。妄想状態に国民が浮かれているにも拘わらず、何もしなかった。誰も価値の後付けをしてくれないプリントマネーを、いや好きなように打ち込まれたデジタルマネーを、好きなほど実体経済に放り込み、マネーが血液としての役目を果たせず、透き通るほどに薄められたフェイク血液を大量に投入されれば、心臓としての金融機関は肥大症で爆発寸前だ。恐竜アメリカの命運は外貨準備高二兆ドルを保有する中国に掛かっている。その三分の一を占める米国債を処分するなり或いは、これ以上の米債の増加保有をしなければ、七千億ドルの貿易赤字を続ける米ドルは無価値となる。FRBは十月以降、これ以上の国債に対する買取を停止すると言うが、続ければ価値下落を米債保有国に対して裏付ける事となり停止措置は止むを得ない。FRBが買い取ってもマッチポンプで意味は全く無いのだが、子供だましの見せ掛けさえも辞めてしまってこれからどうするのだろう。恐竜アメリカが倒壊する日も近くなった。

2009年9月18日金曜日

己が罪、抱えきれずに、赦し請う

霊界からのメッセージで一番印象に残っていることは、天国では自分の罪状を首にぶら下げて誰にもわかるように暮らしている、と言う下りがあったと思う。要するに心の中に隠しておける地上世界と違って、誰もが心の内を曝け出して暮らし、隠し様が無いと言う事だろう。隠す事で世渡りをするこの世と違い、全てを白日のもとにあからさまにされながら、曝け出す事で霊界渡りをしていくと言う事なのだろう。隠し通したい醜い行為や内面を他人に知れたときの、あの何とも言えない消えてなくなりたい程の羞恥を一度や二度は経験しているけれど、来る日も来る日も醜いものをえぐり出される事で忌まわしい思いを味わうとしたら、そこは自分に取って天国とは言えないんじゃないかと初めは思えた。家計や会社に於いて一年の収支決算をするように、一生を終えて内的霊的収支決算をしながら、負債は負債として身の置き場の無い思いは変わらないとしても、善行が負債を越すことで何とか居場所は確保できよう。しかし神様の目の届く所や、御父母様の足元に進み出るほどの為に生きた実績と、近付いて罪の詳細をも照らし出す光に耐え得る範囲の負債でなければ、光が辛うじて届く天国の端のほうで小さくなって暮らす以外ないだろう。会社を経営する者なら理解できると思うが、毎日の損得勘定を計算しその数字に一喜一憂しながら会社としての目標や使命を全うすることは出来ない。時には大きな損を覚悟してでも投資すべき時がある。人生を経営するに於いても、一日一膳が悪いとは言わないが、小善に甘んじながら生きることで大きな罪は犯しませんでしたと言う基準を願われているとは思えない。大善を為す者、大きく為に生きた者は、それなりの大きな罪を背負っている場合が多い。大きな罪と言うが、罪の大小など主観的なものであるから、大きな罪意識を覚えている者と言い直したほうがいいかも知れない。自分の罪状を首にかけて暮らす天国生活がどんなものか、地上に於いて算段することはできないにしても、罪を暴かれることで居た堪れぬ痛みを覚える、しかしこの味わう感情が罪を許されている条件であり証しなのだと、その感情を清清しくさえ思える気持ち、委ねる気持ちこそ、罪負債に対する内的霊的な在り様だと思う。首にかけるどころか、罪状を声を張り上げ言い触らしながら許しを請わせて欲しいと進み出るべきなのだ。より白日の下に明らかにされることでしか自分は休まることを知らないと覚悟したなら、罪を数え上げてかぶりを振りながら御父母様に侍るのではなく、願いに応えることを決意し、頭を縦に振って引き受けてこそ御父母様に侍る事が出来る。

2009年9月15日火曜日

今日の想い 103

日常生活に埋没していると、何千何万という湧いては消える様々な思いが魂を去来しそれに翻弄され、肉体を持ちこの地上生活を送る為に、自分に向けてどれ程の犠牲が供えられているかその認識はない。生命活動を維持する為のそれぞれの器官系の働きにも、絶え間ない犠牲と奉仕が注がれ続けている。しかし生き続ける事が人間の存在意義ではなく、人間理想を成就することが願いである。その為に、父母となり師となり主人となって体に働き続ける存在がある。堕ちるところまで堕ちてしまった堕落した身に、昼夜を問わず人間理想を説き続け、励まし、奮い立たせる為に奉仕している存在がある。それが人間誰をも備えられた良心であることは兄弟の周知のところだが、その良心作用を働かせている存在を尋ねれば、神様に出会うことができる。、、、はずである。しかし多くの兄弟は神様を捉える事が出来ずにいる。尋ねるほどの切迫さが無いからだ。神様を捉えずしては一歩も前に進めないと言えるほどの切羽詰った状況に無いからだ。今日一日を生きて明日も同じ一日が続く。その繰り返しに埋没しながら惰性領域にうずくまり、そこから抜け出したいとは思わない。ある意味、神様は知らないけれど己が理想であれ欲望であれ突進する意志で乱暴に行動しながら、手に入れたいものを手にした満足感を味わい、或いは逆に貶められて死ぬほど悔しい思いを味わうように、生きてることの実感を魂に焼き付けている人間の方が、内的に目覚めたら神様に出会うのも早いかもしれない。我々の祈りにどれ程の心情が込められ、どれ程の切実さが伺えるだろうか。み言を目で追いながら、そこに魂を揺さぶるものを求めているだろうか。行動の中にどれだけの思い入れを投入しただろうか。神様、御父母様と口では求めるけれど、求めているものは何か違う別の存在かも知れない。或いは何も求めて居ないのかも知れない。そう思うと、本質に対して目覚める為に混沌の中に突き落とされることが我々に必要で、死を覚悟する位置でこそ成約聖徒の名を冠することが出来るのだろう。

2009年9月14日月曜日

創造過程に於ける絶対服従

愛する者の為には命を含めて自分が持ち合わせる全てを投入したい衝動が、内的熱の在り様として湧くように、神様の止むに止まれぬ絶対的愛の対象を創造したい衝動が、霊の熱様相となったのが創造の起点となった。神は光あれと言われた。熱様相が一方では気体様相に濃密下され、一方では光様相に希薄化される。光様相として進化した霊もあれば、進化から取り残された闇様相に留まった霊もある。しかしながら創造の御業は光のみで為されるものではなく、光と闇とが織り成されて創造の次への段階に入っていく。濃密化に於いては気体様相から液体様相、液体様相から固体様相へと創造の為の根源要素が創られていくと同時に、希薄化に於いては光様相から音様相、音様相から生命様相へと霊の進化が為されていく。霊の全ての進化過程において、光様相のように進化した霊と、闇様相のように進化に取り残された霊存在がある。より高次にある霊存在に対して位階の低い霊存在が従順に屈服したが故に授受作用を為す事ができ創造の御業が為されていった事実がある。御父様が神様も絶対服従をもって創造されたと語られる真意はここにあると私は思う。復帰摂理がカインがアベルに屈服するように要求する前に、創造過程に於いて闇の霊が光の霊に従順屈服した事実があるはずだ。取り残された霊が進化を終えた霊に従順屈服した事実があるはずだ。アダムとエバに対する天使長ルーシェルの立場もそう捉える事が出来る。光の霊と闇の霊が織り成されて音様相、更に生命様相への進化が為され、正分合作用に於ける進化した新たな合一体から闇の霊は享受と栄光を受ける。アダムとエバに対する天使長の位置もそのようであり、アダムが完成し神が相対することができる家庭が為され、その家庭を通して天使長は享受を受け栄光を受け新たな愛を受け取るはずだった。霊でありそれは神様でもあるところの存在の絶対信仰、絶対愛、絶対服従が投入され尽くし、創造理想完成の最後の最後で、絶対愛を裏目に利用されながら人間理想は崩された。

2009年9月13日日曜日

今日の想い 102

人間は、自分が取り込んだ概念でつくられた内面世界に住んでいる。それこそが現実であり、見回す周りの世界を変える事が出来ない現実としながらその中に生きていると思うのは幻想なのだ。事情圏、環境圏が自分の全てを決めるのではなく、事情圏、環境圏は作り出すものであり創造を加えるべきものとして眼前に広がっている。自分を中心とした過去の内的創造の結果を見せられながら、新たな創造を加えていく。神様が宇宙を創造され、御父母様が再創造されたように、私は何を創造するのかを問わなければならない。神様の創造は完璧であったけれど、神様御自身をも愛に主管される位置に立つよう創造された為、即ち、我が子としての人間に愛によって主管されたい衝動故に、必然的に原理の力よりも愛の力を強くせざるを得ないし、堕落が起こり得る可能性をも含んでしまった。事実、堕落は起こり、神様御自身があらゆる辛酸を嘗め尽くされながら愛の絶対性をこの世の神に示され続けた。無知なる人間に対して神様の愛を示され続けたのであり、この世の神、サタンと呼ばれるルーシェルにも神様の愛は示され続けた。愛によって失われたものを愛によって創造する再創造は、イエス様という第二のアダムから御父様という第三のアダムに引き継がれながら、アダムとエバが失ったものを真の父母が勝利されて取り戻された。御父母様の生涯は天宙再創造の歩みである。御父母様に繋がらなければ再創造された新しい天と地に参入することはできない。誓った絶対的性を御父母様の意志基盤とし、御父様の思考創造のツールであるみ言概念を相続し、創造の力となる御父様の心情を相続し、その上で再創造に加担する自分としての創造活動がなされていく。内面世界がこの世的言葉の概念で築かれている内は、この世から抜け出せない。言葉一つ一つの概念を突き破り、それは現実を超える事であり現実という大気圏を超える事を意味する。思考の創造、魂の創造という新たな愛の創造が人間存在としての生命活動であるなら、今の人間は生き永らえる事で自分に与えられている肉体の破壊を含めて、この地球を破壊している壊し屋に過ぎない。新たな創造を果たせないなら、人間は人糞製造機でしかなく、エコだエコだと言うが、人間の減少こそ尤も効果のある地球救助であり、少子化どころか姥捨て山法を制定すべきだろう。み言でつくられた概念、み言で築かれた思考こそ大宇宙の創造に加担でき、新しい天と地に住まうことができる。

基準を下げる

午後三時を回っていたけれど、テーブルは三つほど埋まっている。東向きの窓全部を見通せる中ほどのシートを案内された。メニューを渡されて軽く目を通しはしたが、最初からサーバーのお勧めを注文することに決めている。窓から自然の風景が見通せるレストランを前から探していたけれど、こんな時に出会えるとは思わなかった。高速を北上して30分は走っただろうか。道路脇の視界を遮るものが消え、山並みが広がるのを待って適当な出口を降りた。ファーストフードの看板に沿ってハンドルを回していたら真新しいショッピングセンターにあるイタリアンレストランに目が留まり、入ってみることにした。今まで一人でレストランに入った事は無い。朝から何も口にしておらず腹は減っていたが、別にレストランでなくても何処でも良かった。落ち着ける場所を探していた。とにかく抜け出したかった。生活の場から抜け出して気持ちの整理をして見たかった。そう言う以上、整理できない気持ちがある。悩んでみても、どうすることも出来ないことは何度も自分に言い聞かせたけれど、それでも悩む自分がいる。親が理想の実体になっていないのに子供に理想を押し付ける。この親あってこの子ありと、周りを見ればいとも容易く受け入れているが、こと自分の事となると理性は主管性を持たない。子供は、親である私の信じ願うものを押し付けられていると言う思いで心を満たしている。子供に取っての世界は親の世界とはずれている。僅かの共通項にしがみ付きながら家庭のタガをはめては来たが、一年、また一年と年を経る度に親としての言い分であるタガは緩んできた。朝の一言の頼み事に対して、帰ってきた返答に体の力が抜けてしまった。怒る気持ちでも出てきてくれれば救われたのだろうが、何の返す言葉も頭から消え失せた。子に対する気持ちの中に親としての執着がある。それは解っている。親として子供を心配すればするほど、親の執着は大きなものとなる。親の執着を自分への愛だと受け止める魂を、私の子は準備できていない。小さい時からのその準備こそが躾であり教育だと私は解っていたが、妻は解ってはいなかったと思う。何度かそれらしい事で言い合いもし、詰め寄ったこともあるけれど、理解はおろか夫婦の傷口は大きく深くなる。そのことを敢えて避け、為るがままに任せて今の状況にある。注文した料理で腹を満たし、風景を見ながらひと時を過ごす。浅い霧で僅かに霞んではいるが、見通しのいい風景を大きな窓枠に収められたまま内面に映し出す。自分の周りの現実を自分の内的在り様の映し出されたものであると言う事を、どうでもいい感情という装飾を洗い落としてそのままに受け取ることが必要なのだろう。そうして出来る事を一つ一つ積み上げていく。今、自分が為せる事は他にない。霞んだ風景は、自分の内面様相そのままを映し出している。悩みに対する答えの輪郭がはっきりしないまま、腰を上げ、生活に戻らないといけない。帰り際に声をかけられた。笑顔で挨拶されたら笑顔で返す以外ない。信じて接する事で、親への信頼も生まれるだろうか。

2009年9月8日火曜日

今の混沌期を想う

政治経済を初めとする社会状況を見ても今が混乱期に入ったことは間違いないが、これから更に混乱の度も増すものと思われる。しかし摂理完遂の期日が近いのに、混乱期にあると言いながら周辺を見る限りはぬるま湯状態で、そんな今の状態でずるずると引き摺りながら天宙的期日を迎えるとはとても思えない。我々に関しても同じことが言え、2009年は困難な年であると言われてはいるが、天地創造の混沌状態から秩序が現れ初めて形となっていったように、2013年を迎える為の大きな混沌期を09、10年は通過する必要が摂理的にあると思う。今回の問題も避けて通ることは絶対に出来ないだろう。無難に収めようとする動きがあることも事実だが、摂理が要求するものが外的表面的な事柄に関するもので、我々の内面に負債として絶対信仰に反するものが在ろうが無かろうが、外的なものだけ整えればそれで事足りると思える、それをみ言を生命視する態度と言えるだろうか。我々の内面にある燻るものさえも敢えて公に白状、表明してでも正当的に対処し、内的霊的な領域で御父母様を支柱とする圏内に、負債を残す日陰の部分を残すべきではない。外的な目に見える場で御父母様の面子を立てる以上に、内的霊的な領域でこそ御父母様を証しすべきだと思う。そう言う意味で兄弟姉妹が一枚岩になっているとはとても思えない。責任ある者が兄弟に対して、み旨を御旗に不平不満を言わせず絶対服従を要求するとしても、み旨がみ旨として本当に立てられているのか、み旨が方便になっていないか、一つのやり方に固執してそれに服従させるのと、御父母様への絶対服従を同列で捉えていないか、責任ある者の判断は非常に大きく、全体信仰の是非が問われる。しかし摂理の別の視点から見るなら、周辺の誰もその歪な状況に対して敢えて触れようとはせず、相変わらず重荷を集中的に背負わせ続けるのを仕方の無いことだと、結果的に容認してしまったと言える。そう言った内部に於ける混沌期を通過しながら、必ず光が差し込まれるのを絶対的に信じ、一人一人が分別し、罪状を首にぶら下げて悔い改め、如何なる犠牲も厭わない意志を差し出す。そうしてこそ改めて御父母様に顔を向けることができる。

韓国語を習得しよう

創世記から始まる旧約聖書原典はヘブライ語で記録されたものだ。それが紀元当時ギリシャ語に翻訳され、ギリシャ語聖書が様々な言語に翻訳された訳だが、新約はともかく旧約に関して言えば、翻訳で受け取る意味は原典の意味するところと大きく違う。はじめに神は天と地とを創造された。と、始まる創世記一章一節から、言葉を拾い受け取るイメージを追っていっても、創世記本来の呼び起こされる内容は想起できない。言葉が言霊の体であり、異なる言語にそれぞれの民族的本性が宿っている。ヘブライの民族的本性が語った旧約を、異なる言語で異なる民族的本性に語らせても、その意味するところは開示されない。ヘブライ語の精神を受け取った者が、その仕方でヘブライ語の原典を読み解く時、神様の創造過程が魂に蘇る。神様の創造起源からの内容を表記されたものを、創造過程のある段階から感覚的なものが創造されながら、感覚的な言葉表記で表されるはずが無い。その意味で、創世記は超感覚的なものを呼び起こさない限り、感覚的イメージ、科学的イメージとして想起されるものは全て空想に過ぎない。御父様が韓国語を学ぶようにと言われてから久しいが、韓国語で受け取り、韓国語で読み解いたみ言こそ、み言本来の意味するところを韓国語の民族的本性が語ってくれる。み言に宿る真の父母の本性を、別の言語で訳された形骸化されたものとして受け取っても、ある段階を超えて真の父母の圏内に入っていくことは出来ない。日本語が日本民族の本性の体であり、天照からの神々がその本性を日本語の中に現している。良くも悪くも、日本語に精通することは八百万の神々の本性をより受け取ることを意味しており、神道的霊が開示される。日本食口はみ言に沿った生活をしているようで、別の神道系霊界が働いて、成約にそぐわなかったり御父母様の香りや雰囲気とは違った生活在り様、意識在り様になる場合が多い。本当の意味に於いて御父母様を慕い、侍ろうと思えば、韓国語の習得は必須事項であることは間違いない。

2009年9月7日月曜日

真の愛に思う

真の御父母様と呼びかける時、見上げる畏敬の感情を伴うべきなのはその通りだけれど、父であり母であると言えるその感情は、肉の父親と母親の間で生まれ育てられながら受け取った感情である。親が子に向ける愛情故に、子は親への情を育む。親が子を想う感情を連綿と受け継いで、自分も親が私を愛したように自分も子供を愛する。父母の愛は子に向かう場合に於いて無償の愛であり為に生きる愛に違いない。どんな悪人であっても自分の子に向かう場合、それは無償の愛であり為に生きる愛であり、それ故に真の愛である。悪人であるから当人を起点として発せられる愛は全て偽りの愛だと言うことはできない。父母の愛の中にこそサタンが手を付けることが出来ない、連綿と受け継がれた血筋の中に唯一神様の性稟を垣間見ることができる。真の父母に対して偽りの父母とはサタンを指すのであり、肉の父母を偽りの父母と呼ぶことはできないだろう。肉の父母から受けた愛情の中にも神様の愛と言えるものは満たされている。親の愛をしっかりと注がれながら育ったものは、親に対してお父さんお母さんと呼ぶ感情そのままに、真の父母に向けてみればいい。真の父母をこの地上に見出せない過去に於いては、親の愛を含め如何なる愛も、真の愛と呼べるには至らなかったろう。真の父母が顕在され愛が愛としての役割を果たされる今だからこそ、親の愛は真の愛と呼べる。過去に於いては親の愛を神様が見る時、愛が愛としての役割を果たさない悲しみをそこに見ていたものを、真の父母が勝利された今、愛が愛としての役割を見事に果たす喜びを見ておられる。御子女様は御父様が人類に直接的に示された愛としての真の愛の何たるかを受け取られ証しされたけれど、食口のどれだけが、それほどの重みを受け取るに足る、内的霊的器を準備できているだろうか。

2009年9月6日日曜日

今日の想い 101

ありとあらゆる宗教がありその下に宗派があり、それらの背後にはそれぞれの霊的存在が関わっている。キリスト教に於いても聖書の解釈により多くの流れに枝分かれしたと言うけれど、解釈を異にさせる霊的存在が背後に関わっていると言える。霊界を見渡す時、地上に於いてお互いがお互いを受け入れないそれぞれの内的領域に生活しているように、枝分かれした全ての領域が、霊界に於いては違う世界を築いている。それぞれの霊的存在はそれぞれの特徴を具え、その宗派に寄り集う人間像を見れば霊的存在の特徴的なものを皆が具えている。霊界に於ける全ての壁や障壁を撤廃され、それまではお互いの存在すら知らなかった霊界状況が一変しつつある。霊界での動向が地上の動向に反映されることはその通りだが、真の父母と共にみ旨を歩む我々の立場は主体の立場にあり、真の父母の意に従う我々の歩みが霊界を決定付けている。御父様は天宙統一の舵取りをされながら2013年1月13日のD-DAYの期限を前に、数百年を一日に凝縮された一日一日を送っておられる。比喩としてではなく事実そのように凝縮され、それ故に僅かの善なる条件が歴史的な大きな条件となり、またその逆として僅かの悪の条件が人類を滅ぼすとも限らない。それ程に、薄氷の上を足を運ぶような最後の闘いに臨んでおられる。全祝福家庭、全食口は御父母様の内的霊的事項に関わる切実な状況を引き受ける者となりながら、決死の覚悟で一日一日を歩むものとならなければならない。自分や家庭の事、収入の事や先々の生活の心配事などで精一杯だと言う毎日であるなら、この世の何も知らない人々と何ら変わりは無い。真の父母に侍る我々は天の眷属として、内的霊的次元に於いて遥か高次の位置でみ旨に携わっている。その誇りと権威と献身を纏いながら、内的には謙虚であっても天の御旗を掲げた強さを全面に押し出しながら、ぐいぐいと押していくべきだ。負債として引っ掛かる事、条件の足りなさや実力のない卑屈さ等で留まっている時ではない。真の父母を真の父母と認めている以上、天の眷属として選ばれし自分であることは間違いない。天の眷属として、宗教を初め様々な霊的眷属の中心的存在を相手にしながら、御父母様への屈服を推し進めている。闘いの結果は見えている。最終戦の前に、神側につくのかサタンに寄与するのか言い寄る立場を我々は取っている。

2009年9月4日金曜日

今日の想い 100

ここ一、二世紀の間の科学の発達は目覚しいものがあったけれど、摂理として科学が発達する要素を終末期に用意された訳で、発達するように仕向けられたと言っていい。科学が発達するには人間の悟性の成長が必要とされる。人間精神が内的霊的なものを獲得することに使われていたものが、近代の救世主再臨準備の摂理の要求に応えるために、外的地上的なものを獲得する為に精神が使われる必要があった。悟性の発達成長に精神の多くを費やされながら、それ故に内的霊的なものへの衝動が弱まり塞がれ、科学至上主義へと偏向して行った。現代のような極度の外的化が起こることは予め予想はされていたけれど、復帰の全歴史路程がそうであるように、或るAと言う方向性とそのベクトルに反するBと言う方向性とが拮抗しながら摂理は進められる。最初はAが摂理の要求に応えるものとして或る方向を示して進む訳だけれど、Aの中にはサタンに相対する堕落の要素も含んでおりAが力を伸ばしてくると待っていたかのように堕落様相を現してくる。それに対するものとしてBが用意されサタン勢力となったAに対抗させる。歴史はそう言ったように、神とサタンが牽制し合い、戦いながら今日まで流れてきた。科学が人間の発達した悟性と共に摂理に貢献してきたことも事実であるけれど、神を否定するほどに傲慢になり内的霊的なものを完全に否定し始めると、科学と人間の悟性に反するものが用意されなければならない。科学と悟性が生んだ、物に事欠かない物質文明こそわき目も振らず目指したものであったけれど、物に満たされれば満たされるほど、満たされないものが内面にあることに気付いてくる。今、内的霊的なものへのベクトルが全人類を覆っている。人間としての喜びの永遠性を求めて、それを満たす絶対真理を探している。心の平安と喜びの永遠性を求めて絶対真理への渇望は益々強くなる。地上世界の如何なる存在も、如何なる様相も、堕落の要素を含まない在り様はなかったけれど、純潔要素のみの次元から来られたイエス様と、イエス様が残したみ旨を結論付ける再臨主として御父母様を、肉体を持った存在として地上に迎えたとてつもない奇跡を私達は生きている。自らの魂をみ言の中に、深く深く沈めていってこそ、奇跡が奇跡として自らの心魂に圧倒的な光様相として入り込むのが確認できる。自分の魂も肉体も思考存在も、真の父母から惜しげもなく注ぎ込まれる真の愛の光で貫かれる。内的霊的なものへの感度が塞がれている現代人は、それを実感することが出来ずにいる。真の父母によって神様が主管権を取り戻されたことで、霊界に直結している宇宙は、強烈な速さで真の愛に直結する要素で覆われていく。宇宙が変われば地球も変わらざるを得ない。地球が変われば人間も変わらざるを得ない。真の父母に帰依し内面をみ言で改革された者以外は、人間存在として地球進化には耐えられない。悟性を高めてきた人間として、悟性の力でみ言を取り込みながら、悟性とは違う力が受け取ったみ言から発せられながら、異なる次元に自分の内面世界が築かれていく。

2009年9月3日木曜日

今日の想い 99

評論家諸氏の説明はその信仰を持たない者の立場からすれば尤もであろうし、説得力があるのかも知れない。誰であっても言葉を語る背後には人生観、価値観、信仰観がある。自分の観が絶対に正しいと思えばこその言葉として唾と一緒に吐き出してはいるが、どうも傲慢な在り様が表情、姿勢に突出していて嫌悪感を覚える。相手の観を重んじ、万が一自分に間違いがあれば指摘して欲しいと言った謙虚さを持ち合わせてこそ、聞くに値するものがあるとこちらも反応し、耳を傾けてみようかなとも思ったりする。それが全く無い。この世では信じる対象が百花繚乱で、それぞれ使う言葉が違う。言葉の意味するところが違うと言った方がいいかも知れない。その違う言葉の中に生きている訳だから、自分の信じるところを強くすれば強くするほど周りにすれば確信犯的危険な行動に見える。心に関する事柄を、自分の観としての秤で計算してああだこうだと言っても、肉体的には同じ次元で生きてはいるが内的にはそれぞれが違う世界で生きているので内的に届くことは無い。悟性的に理解させようとしても、悟性を超えた内的事柄を理論理屈でどうこう出来るものではないし、ましてや霊的な事柄を真っ向から否定した立場で理解させようとしても、語るのも聞くのも無駄と言うことだ。科学至上主義で、それでもそれなりに神仏を拝んでいるらしいが、それは宗教や信仰とは違いお互いが上手くやって行く為の方便に過ぎず、外的物質的なものだけに帰依して味気ない毎日を送っている。敢えて味気ないと言いたい。物に帰依して、人間関係に於いても物質人間の物質脳で作られる感情として遣り取りし、生きる為に食べるのではなく食べる為に生き(物質人間とはそう言うことだろう)、そして死を迎えて全ては消え去る。あまりにも味気ない。それが人間ぞと言われてそれでも生きたいと思うだろうか。物質人間なら生きる意味は全く無いだろう。死をすぐさま選ぶ方が懸命だ。評論家諸氏が滑らかに口が回るのは悟性魂の取り留めの無い思考に酔っているに過ぎない。自分が何なのか何処から来たのかと言う問いを発するのが今の人間存在であるけれど、それを自分に問うて見たことがないらしい。死と本気で向き合うことを避けているのだ。そんな意識に押さえ込まれた立場がどれ程悲しく可哀相であるか。牛や豚が言葉を覚えて喋っているようにしか見えない。

2009年9月2日水曜日

今日の想い 98 (自分を元食口とする食口へ)

教会員として教会に属し、言われる通りにしていれば安心で、皆と同じ行動を取らないと不安で押しつぶされそうになる、だから嫌でも従わざるを得なかったという、そう言った脅迫観念にも似た期間は、教会員であれば誰もが経験しているかも知れない。み言表現として、背信すれば直ぐにも地獄に突き落とされそうに受け止められるものも確かにある。が、殆どは完全なる許しを含んだ真の愛のみ言だ。更に脅しめいた内容も愛故の親が子供に戒める程度の事だと思う。地獄の底で呻く悪鬼の頭ですら祝福して救おうとされるのに、少々のすったもんだで救いの糸を切られることなど有り得ない。心に引っ掛かる過去に犯した罪を数え上げ、自分の負債を種に活動の強制を押し付けられていると言う縛りがあったとするなら、閻魔大王的な信仰観こそ先ず変えるべきだろう。教会活動をいくらしたとしても、心と体が闘う限り天国には住めないとはっきり語られている。縛り付けられた生活環境で、言われたとおりにやった者は天国に行き、やらなかった者は地獄に行く程度の認識と、周りと同じ行動を取らないと不信仰のように思われ、周りを見回して自分の位置を測ろうとする日本特有の村意識で、我々の目に写るみ言の本質は曇らされている。周りを見ながらそれに自分が合わせる苦痛、責任者に指摘されて萎縮する自分、そう言った試練も入教当時はそれなりに意味はあるだろうが、信仰生活を五年も十年も歩んできてそう言った事柄に関わっているとするなら、信仰の為の信仰状態に未だに留まっていると言うことだろう。自分の悟性的理解であれ魂的理解であれ、この道が絶対信仰に値するものだと言う確信を備える為に、教会活動から一時距離を置いたとしても、原理を400回通読してみるとか、40日断食を決行された先輩食口のように納得のいく条件を立ててみるとか、能動的信仰を意志すべきである。受動的、他力本願的、日和見的信仰は絶対信仰とは言えないと思う。この道が特有の活動や、献身生活を意味するものではなく、今の時代圏、み旨を歩むいろんな形はあるはずだ。自分自身に言い聞かせるものとしても記している訳で、責任から逃げ回ってきた私は神様の位置からみれば明らかに負け犬の遠吠えであり、他のどの兄弟よりも真の父母からは遠い存在であることを告げておきたい。こんな自分も御父母様の心情の一片が伝わるし、出来の悪い息子としてだが愛されてもいる。だから元教会員の食口達をどれ程恋焦がれておられるだろうか。活動員としてではなく、御父母様の息子娘として、私の兄弟として帰ってきて欲しい。かつて知っている教会の場が嫌なら、何処に籍を置いたっていい。変な物言いかも知れないが過去のトラウマがあるなら半分遊んでいたって構わないと思う。教会を去らざるを得なかった心痛の想いは、教会で活動してきた者にも劣らない内的犠牲があり、その想いを御父様は必ず理解して下さる。摂理に翻弄され犠牲を供えた者は、御父母様を認めた者のみならず、直接み言を受けなかった者の中にもいて、御父様は想いをかけられるはずで、ましてや精神をすり減らして歩んだ者はなおさらだ。捨てるに捨てれなかった御写真を取り出し、無ければネットから幾らでもプリントアウト出来る。仮の祭壇に掲げて挨拶だけでもしてみてはどうだろうか。それだけの行動で御父様の御心情は伝わって来るはずだ。

2009年9月1日火曜日

マインドコントロール

洗脳とマインドコントロールの違いが始めてわかった。マスコミや巷で何を言われていようが、そんな事を気にするなら何もできないので敢えて関心を逸らしていた。洗脳と言えば余りにも胡散臭い、教会用語で言えばサタン的な感じがして教会員の心の隙に入ることが出来ず、その為にマインドコントロールと言う柔らかな、如何にも生真面目な教会員が関心をもつ言葉に変えたのだろうかと思っていた。YOUTUBEで頻りに懐メロや好きな歌手の動画は見ていたが、教会に対する内外の情報をここから得ることが出来るとは今の今まで気付かなかった。自分がマインドコントロールに掛かっていたと言う事らしい。ある程度のマスコミの演出もあるだろうが、教会のマインドコントロールに掛かっていたと、脱会した本人が言うのだからそうなのだろう。憑き物が取れたような晴れ晴れしい面持ちでインタビューに答えている自称、元教会員は、教会から距離を置くことで当面は救われたのだろう。何を持って騙されたと思うのか、そう思う以上何かを期待していたからのことだろうし、その動機が何なのかわからないが、その動機がおかしいと言わざるを得ない。かと言って信仰的背景もなく、内的霊的本質への願望もおぼろげで、自分を含めて殆どはみ旨を歩む動機が何なのかは歩みの中でこそ内的に目覚めるだろうし、理解していくものだ。それが自分の感情を満足させるものではないし、ましてや外的な何かを得られるものではないことは明らかで、外的なものを犠牲とし、或る面、内的なものをも犠牲としながら受け取るものがある。その確信とその価値を認めなければ、教会は当人に取って欺瞞の巣窟でしかないだろう。立派な先生の説明によるなら、社会の全てはマインドコントロールとなる。無神論も含めて全ての宗教は勿論、学校も会社も家庭も、自分の人生ですらマインドコントロールを受けていることになる。コントロールを受けていない自分の基準さえ解らないのに判断の仕様がない。確かにこの世から見るなら教会は胡散臭いところに違いない。正直なところ内部に居ても胡散臭いと思えるところは多々ある。恐らくその得体の知れなさに対する受け付けない感情故に、適当な理由をつけて除け者にしたいのだろう。この世的に見栄えもよく、誰もが受け入れるような存在であるならそこに宗教性はない。自殺者が三万人を超し、親子間の殺生すら珍しくも無く、綺麗な町並みと煌びやかなネオンの背後にありとあらゆる悪と醜さを見ながら、この世界に蹲って生き延びることに何の疑問も感じないと言うならそれ以上何も言えない。疑問を覚えればこその教会であり、信仰であり、それ故にこの世に受け入れられない特異性があるのはやむを得ない。三途の川を渡る時に、この世にマインドコントロールを受けていたからと開き直りできるだろうか。