2010年1月30日土曜日
夫婦を考える
私の一言で傷つき躓く。傷つける為に躓かせるためにその一言を口に出したのではなく、口にして伝えるべきだと思って口に出す。結果的に傷つけるだろうと解っていても敢えて伝える。彼女には彼女の理想的夫婦の在り様をイメージとして見ている。お互いが傷を指摘しあえば家庭の居心地は悪くなり、よって深みはなるべく抉り取らないように心がけようとする。死ぬまでの連れ合いと割り切ればそれでいい。この世的に見れば今までで十分出来過ぎた妻だろうと私も思う。しかし御父様が語られる意味での夫婦の形になりたいと思っているのかどうか心配になる。うちの場合がそうなのか、彼女の方が思考が外的だ。生活と生きる事にこだわり、まれに信仰すら外的な事柄を期待する打算的な面を覗かせる。それを無視したり笑って誤魔化せる私にはなりたくない。相手を傷つけて楽しいはずは無い。口に出せば向こうの感情以上に針のむしろを転がることになる。私には私の理想的夫婦の在り様を見ようとしている。私の理想というより天の理想への問いかけでありそこに近づきたい。祝福結婚という意味は永遠の愛の関係を築くことだろう。地上の夫婦を越えて霊界に於いても次なる地上生に於いても、兎に角永遠の愛の関係だ。少なくとも霊界に於いては肉体を始め地上的外的なものに結びつく全ての思考も感情も消え去る。純粋に心魂に刻まれ残りえたものしか霊界には持って行けない。その場では地上での上っ面の笑顔や賛美は何の意味も無く、感情の在り様そのままをぶつけながら全てを反発させるとしても、それぞれの神様に繋がる心魂の奥の芯の芯が何者なのかを捉えて、それをお互いが知りその位置と位置で一つになってこそ夫婦一体、永遠なる夫婦となれると思う。最初は内面にある表面的なものへの理解や愛から入っていく。しかし愛を深めるとはたまねぎを剥いていくようにより内面に向けての理解と愛を浸透させ、最後には心魂の中核にあるものへのお互いの理解と愛こそが夫婦一体に向かうはずだ。外的なものを超えた、主体の心魂と対象の心魂が混然一体となった、足し算存在ではなく新たな心魂存在であり新たな神様の対象存在として、より高次に羽ばたく霊的進化の翼を、夫婦が一体となる過程で創造している。
今日の想い 137
外的な人間に取って年は取る。年を取るごとに老いていく。若さへの憧れが虚しいものだと知りながら、それでも若くありたいと思う。老いて行くのは人間だけではない。生きとし生けるもの全ては老いて行く。植物も老い、動物も老い、地球だって老いて行く。そして死んで行く。生命を養うことは宇宙に取って多大な消費だ。この肉体を産まれさせ発育させ維持させる為には、莫大なエネルギーが必要とされる。食糧や水や酸素、あらゆる消費を毎日繰り返しながら生命を維持している。生命が棲むこの外的世界自体に途方も無いエネルギーが投入されている。エコの観点に立つなら人間存在そのものが環境破壊なのだ。人生という生命過程にあらゆる環境消費を許され、その意味は下級生命の死の犠牲であり、人間と言う存在は下級生命の死の犠牲の上に生き永らえている。累々と積み重なる死の犠牲を踏み台にしながらついには人間も死んでいく。為に生きる、犠牲的歩みこそが本然の在り様なら、低次の存在はより高次の存在の為に犠牲になることこそ本望だろう。植物は人間の為の酸素を供給し食糧となる。植物に取ってはより高次の存在である人間の為に存在できることこそが喜びなのだ。断食すれば口に入るものに対する感謝の思いが湧いてくる。断食明けの一口一口入っていく食物がどれほど愛おしいことか。日頃忘れているけれど、口に入る食物にしろ呼吸する空気にしろ自分という存在を存在たらしめる犠牲への感謝を忘れてはならない。そしてその犠牲は私がより公の為に高次の為に犠牲となることで報われる。食事をする毎に、呼吸一つ一つに、感謝と合わせてより高い次元への犠牲を払う決意と覚悟を供えることで、有機的循環の輪の中に入ることが許される。年を取り老いることへの寂しく悲しい感情は人間の傲慢さから来るものであり、為に生き、犠牲を供えた今日一日であり昨日であり、また過去ひと月であり一年であったのかをいつも問いながら、消費し受けてきた事柄に対して過去に投入した内容があまりにも足りないことに対する謙虚さこそ供えるべきであろう。
2010年1月28日木曜日
今日の想い 136
どれ程追い込まれても、追い詰められても、御父様と呼べる私で居られるということが先ず救いだろう。光溢れるこの地上に住みながら、この心の何と暗いことか。どれ程光を浴びても、身体を突き抜けて魂まで届けられる光として受け取ることはできない。内的光源としての御父母様が居られるけれど、私の中で燦燦と降り注ぐほどに御存在を受け取ってはいない。絶対信仰の基準とひとつにはなっていないということだ。御父母様が勝利されて、天宙は創造歴史上かつてない様変わりを見せようとしている。既にその変革は水面下で行われているけれど、あまりにも急激な変化は心魂に於ける準備が為されていない人類に取っては大混乱になる。その人類の準備を担った成約の群れでありながら、自分の状況に見ると同じ様に我々の中にさえもその準備はなされていないだろう。み言を訓読しようにも、み旨を歩もうにも、御父母様に向かう本当の求心力を得られずに居る。前にも述べたように地上に於いて外的呼吸を為しながら霊を呼吸している。神霊の冴を自覚すれば、呼吸する霊がよどみ穢れているのを感じるだろう。憎しみを持つ相手を前にして息遣いが荒くなる感覚だ。私達はこの世的自己中心的な心魂の呼吸を苦しく思えなければ堕落的で在り続け、み言で清められ活かされた、真の愛の関与する神霊を呼吸する存在とならなければならない。遠からず天宙の在り様は一変する。何らかの形で真の父母に繋がり真の愛を呼吸できる存在でなければ心魂存在として残れないはずだ。御父母様を自我の拠り所とする新しい宇宙を内的世界に築かなければならない。真の愛の道理で築かれる新しい天と地が自分が住むべき心魂様相なのだ。今と言う心魂的混沌期にあっても御父母様と呼べる自分であればこそ、必ず光り輝く新しい内的世界が開けてくる。
2010年1月25日月曜日
今日の想い 135
カーステレオで流行り歌を流し、聞き慣れたバラードのメロディーに心を預け、雨が上がった深夜の街を走り抜ける。もう少し時間が経てば信号も一斉に黄色の点滅に入るが、それまでの街を南北に抜ける通りは、見渡せる向こうまで緑が続いている。悲しい緑が雨に濡れた舗道に映り、切ない気分が更に切なくなる。小雨がフロントガラスにかかり、それが街の景色を虚ろにしているのだろうかと思ってワイパーを作動させるけれど、舗道に映る緑も切なくワイパーの泣くような作動音も単調な動きも切ない。そのままに任せていれば泣き出してしまうと気が付き、背筋を伸ばして運転に集中する。気を許せば、孤独な自分が幾らでも頭をもたげてきて、決意も覚悟も否定的感情で覆い溶かしてしまう。残酷な子供に面白半分に塩をかけ続けられるナメクジに似て、深く呼吸するのさえ面倒くさくなる。学校が始まるので子供達を寮に送った帰りの車の中、色んな想いが心の表面に浮いてくる。子に対する親として情けなく、妻に対する夫としても情けない。どうすることもできない田舎の親に対しても情けないし責任を持っている店に対しても情けない。そんな感情に浸っている私は御父母様に対して本当に申し訳ない。でも覆い被さる責任を引受ける器量も無ければ投げ出すこともできない。責任を背負うことの孤独がこれ程の氷の世界なのかと、今更ながら思い知らされて震えるばかりで身動きが取れないでいる。カーステレオを通して耳に届く不倫の愛の調べに心を委ねるのも、少しでも触れられれば甘い誘いに気を許しかねないほどに孤独でどうにもならない表れだろう。この気持ちを床に就くまで引き摺ったとしても、明日の朝には笑顔で御父母様に挨拶できるよう、泣いても笑っても引受けねばならない責任なら、笑って引受けることにしよう。一筋涙が流れても、それくらいは許していただくことにしよう。
2010年1月23日土曜日
喉と呼吸
2009年度のNHK紅白を見ると、テーマが歌の力、無限大とある。確かに歌の力には大きな力がある。寂しく静かな田舎にいると、ラジオから流れてくる歌は唯一寂しさを紛らわせ、山間にある家屋に辛うじて届く電波の周波数に微調整で合わせながら、夜中寝入るまでラジオに噛り付いていたものだ。微かな風の音しかしない静かな悲しい冬の夜も、好きな歌でも口ずさめばそれだけで周りの空気は一変する。下手な歌でも自分の喉を通して響かせた歌は、その場を私流に清め落ち着ける雰囲気をもたらす。紅白を聞いていて意味の解らない歌詞も中にはあるが、紅白に出場する色んな歌声を受け取りながら、それぞれの歌手がもたらす様々な世界に共鳴している。喉頭部、のどと言う器官は人間の器官の中でも霊的表現ができる器官だ。喉が霊感に充ちた音を響かせることができなかったら、人間の魂の内面を歌の力によって表現することはできなかったはずだ。霊的表現力や主管力を強める一つの方法はこの喉の使い方にある。喉を通して響かせたものが作用を及ぼす。復帰された当時、黒板の前でよく講義練習を行った。講論の文章を目で追うのとどちらが身になるかというと、明らかに前者だ。声を出す、喉を響かせるという行為がその響かせた言葉の本質に落とし込む。そこに霊的力と作用が働く。喉の使い方と同じように、いやそれ以上に大切なことは呼吸だろう。呼吸しなければ死んでしまうので当たり前といえば当たり前だが、呼吸過程に正しい働きかけをすることが霊的高みへの発展を可能にする。呼吸は霊を吸い霊を吐く。呼吸過程に祈祷のような魂の気分を供え、結びつけることが大切だ。前に御子女様が深い呼吸を為しながら吸う時は感謝の心を供え、吐く時は、、、何と話しておられたでしょう。要するに宗教的気持ちを呼吸に供えることで高みに向かう霊的感性を得ることが出来る。霊的高みから届く、その霊に根ざした愛こそが本当の愛だ。その神霊的であり宗教的な愛こそが我々がつむぎだし地上に落とし込むべきものだ。
地動説、天動説
この宇宙が宇宙霧からできた、宇宙の塵をかき混ぜてできたという説明に何の違和感も感じないところに、現代人は唯物主義と言う魔術にかけられてしまっていることがわかる。数万年の人類歴史の中でその宇宙観がたった数百年続いただけなのに、神々によって創られた宇宙を当たり前のように受け取る太古の人間達の宇宙観を、知性の低い幼稚な文明故のお笑いだと言い捨てる傲慢さも備えている。そんな唯物的説明で宇宙が説明できるなら、そしてその説明で人間が納得するなら、人間の精神性の問題をどう捉えるのか。精神性を完全に否定する立場に立つなら、唯物的説明で納得できるかも知れないがそれは有り得ない。精神性を有しない人間など有り得ないからだ。数百年に渡って唯物的世界観、原子素粒子的世界観が広がっていった為、その世界観に毒された人間は精神が愚鈍化されている。神を無視した自然考察が、本来人間に備わっていた感性を意味の無いものとしてきた。その結果が、他人の迷惑や痛みなどどうでもいい。恥と言う言葉は消え去り奇異な表現や行動にでる。自分に危害が及ばなければ目の前で人が殺されようとしても手を出すことは無いだろう。他の気持ちを察する感性が欠如し自然や万物に対する感性も情けないほど貧弱だ。私達は全ての物事の背後に内的霊的なものの流れているのを感じ取ることができる感性を呼び戻さなければならない。昨日という一日を司る霊と今日という一日を司る霊の違いを把握し、時の流れに関与する霊的正体を見据え、身体に備わったこの二つの目から飛び込んでくる外界の真の意味を知り、広がる自然の中に溶け込むことができ力を得ることができ、宇宙の中に今尚続く内的霊的創造、愛の創造を驚嘆の思いで見届け、自分自身もその創造過程の一端を担って組み込まれている事実を知り、自分が小宇宙として神の分霊を受けた心霊存在としてこの世を歩む時、人生様相は一変する。今までの自分は死んだ存在であり、目覚めた今こそ生きた存在だと実感する。コペルニクスの地動説を信じて疑わないのはそうだとしても、我々がその説を受け取るにはひとつの大きな視点が抜けている。太陽の上に立てばこその地動説であり各惑星の楕円軌道だと言うことだ。自分に取って、地球に立っていながら太陽の上に立つことの意味を探さない限り、地動説は只の知識として受け取る以上のものを見出すことは無い。内的霊的見地、精神的見地に立てば、天動説的感覚を必要とする。今日を終えれば明日が必ず来ると言うような、地球が軌道上を回っているから冬の次は春が来て四季が繰り返されるような、そんな無機質的システマチックな概念で地球を捉え宇宙を捉える限り、本質である霊的なものは隠されたままだ。
2010年1月20日水曜日
今日の想い 134
料理が好きでレストランで働きたい、サービスが好きでレストランで働きたい、こんな人材が飛び込みで入ってきたことは今までには無い。勿論求職者はそれなりのことを最初は口にするけれど、普通目の輝きが伴ってはいない。口だけが面倒くさそうに動き、その口が半開きのままこちらの返答を待っていたりするだけだ。それなりの格のある店であればそう言うこともあるのかも知れないが、地方の食べ物屋となるとそんなもんだろう。それよりは、何でもいいから兎に角仕事が欲しいと気持ちをぶつけてくる求職者の方が十分使える。人を雇う立場にいるといろんなことが見えてくる。フレッシュの時点ではやるべき事を教え、マネージャーや他の従業員への接し方、守るべき事等を伝えるが、ミニマムに留めておかないと人間言われた全てが頭に入って行動できるなど在り得ない。現場で仕事を覚えながら徐々にということになる。大抵は本人が周りの従業員を見ながら、仕事のこなし具合や程度を自分なりに算段し、他の従業員の店への貢献度がどの程度が算段し、高からず低からず自分の着地の位置を決める。一度位置を決めれば後は自分のバランス感覚に委ねて、特別向上するでもなく無闇に投げ出すでもなく、可もなく不可もなく仕事に向き合う。それだって決して楽なことではないし大変なことではある。しかし、従業員がその位置からブレークスルーすることはない。活動圏内に目指す高みを見出せずに居る。目指す高みは何処か別のところにあると思っている。それは現状への不満や気持ちの逃げ道にしかならない。私が従業員に対してそう思っていることがそのまま、信仰生活に於ける私にも当てはまる。み言に対する姿勢やみ旨への熱意、そして御父母様に向かう慕う心情も、適度なバランスを取ってそれなりに時間を繋いでいくなら、今の位置からブレークスルーすることは決して無い。この内面に高みへの衝動を失ってはならない。熱く熱く燃え盛るものを内面に感じていればこそ、御父母様と呼べる存在で居られる。
今日の想い 133
誰もが自分を変えたいと思っている。食口であれば特にそうだろう。しかし、と同時に自分は変わらないとも思っている。今まで何度変わろうと努力してきたことか。そして結局無理だと何度サジを投げてきたことか。決意をし、紙に書き出し、唱和し、そしてその内唱和すること自体が目標になり、決意は次第に薄れていく。自分への無力感のみが累々と内面に積み重ねられる。しかし自分を掘り下げてみると、本当に自分は変わりたいと思っているのか。表面的にはさも当たり前のようにそう思っているだけで、心魂の奥の頑なな自分の正体は変わりたい気分の蓑を被ってそれらしく装いながらも、本音として変わりたくないし、変わった自分が自分でなくなるのが恐いのだ。今までの自分が死ぬのが恐いのだ。今の自分に安住していたいのだ。心魂の奥の頑なな自分は本当の自分ではない。み言を理解していると認識する者はこの事実に気付くことが信仰路程の初期に於いて要求されるだろう。堕落の血統を引き摺っている心魂の主人は偽りの自分なのだと、実感として気付き始めて、そして自分を変えることの意味も変わる意志も見えてくる。自分の中に二人の主人がいることを明確に把握してからが本来の信仰路程の出発なのだ。自分が生まれてこの方、いや血統を代々遡って支配してきた今までの自分を見知らぬ別様の存在に思え、御父様にまみえ聖酒を頂き祝福を受けて植付けられた新しい自分を取り戻された本来の自分だと感じ、先の自分は次第に細り、新しい自分は益々その存在感を増してくる。ある面に於ける宗教的素養の薄かった私は、与えられた責任分担をこれがみ旨にどう関与するのか頭を振りながら否定的に歩み、随分遠回りしながら今まで来たけれど、み言や摂理に対する論理的理解を超えて直に御父様の御心情に相対できる先輩や同僚の食口も少なからず居て、私は彼らに頭は上がらない。
2010年1月16日土曜日
今日の想い 132
不思議なもので病に臥すと、しっかり忘れていた遠い過去の記憶が昨日の事の様に鮮明に蘇る。それも思い出したくない記憶が深層の深みから浮かび上がってくる。おそらく内的霊的にバランス感覚が働き、過去の負債のひとつひとつを取り上げながら、この病を受けることによって帳消ししようとしている。そこには個人的な負債もあるだろうし代々積み重ねられてきた遺伝的連帯的なものもあるはずだ。罹ったこの風邪も受けるべくして受けたと言えるだろうし、この年になった今だからこそその感覚は持っている。妻の場合腎臓の慢性病を抱えてしまい、三年待って移植は受けたものの更に三年を越える今、機能は大きく低下している。浮腫んでぱんぱんに腫れ上がった象の足を持ち上げ、一生懸命さすっている妻を見ると切ない。夫婦が一体と言うなら管で繋がれて、足りない機能を私の機能が補い、処理しきれない毒素を私に流し込めれば、肉体的にも一体と言えるのにと真面目に思ったりする。妻の病に関しては幾度も幾度も問いかけ、その意味するところを知ろうとした。しかし知らないほうがいいゾーンもあるのだと言うことは尋ねながら解ったことだ。意味が理解できないとしても、ただ自分に対する神の摂理なのだと甘受すべきものとして受け取る姿勢のほうが、解って受け取ることより大切だろう。清平四十修に出てから既に15年が経つ。考えて見ると咳が止まらない状況は清平風邪と言えなくも無い。昨年末に解放して頂いた条件もやっているし、旧暦に重心が移るなら新年はまだ明けていない。清算しきれなかったものを清算させて頂いているのかも知れない。内臓が飛び出そうな咳に悩まされながら、脳裏に浮かぶのは遠い過去の記憶から四十修の記憶に変わってきた。
梅干入りお茶
熱は幾分引いたようだが激しい咳き込みが収まらず、何もしていないのにどっと疲れる。それでも二日前は熱さと悪寒が交互に襲って来て生きた心地はしなかった。それを思うと有り難い。食欲は無いが無性にお茶が呑みたくなる。明日はこの世を去るとしても、この一杯のお茶がどれ程有り難いだろうか。お茶を飲むと祖父をいつも思い出す。囲炉裏の大きさに設えた食卓に、玄関を背にして私が座り、右隣に祖父、一応上座である左隣に父、炊事場に近い私の向かいに母が座ってそれぞれの膳箱を取り出し母がよそっていた。祖父が作ったのだろう四角いベニヤ板にペイントまで塗られた膳箱に、茶碗、汁椀、小皿、箸箱が入っている。洗うことは週に一度位なので、食事を終えた後は必ず禅寺の様にお茶で器を漱いでしまわないと、次の食事の時惨めな思いをすることになる。胃の弱い祖父は白米の変わりにいつも片栗粉やはったい粉をお茶で溶いて主食にしていた。子供の目にはゼリー感のある祖父の主食の方が魅力的で、母が制するのを祖父が抑えて、たまに分けてくれたりもした。見つからないように砂糖をしっかりいれてかき混ぜると御菓子気分で美味しかった。祖父も食べ終わると茶碗に番茶を並々と注いで、そして必ず梅干をひとつふたつその中に転がして最後を締めていた。病みに臥すと梅干入りのお茶が無性に欲しくなる。食欲が全く無い状態でも、吐き気が収まらない時でも、梅干入りのお茶が呑みたくなる。おそらく御父母様がキムチ無しでは食事をした気持ちにならないように、梅干の無い人生は考えられない。普通、隔世遺伝と言われて、一代が三代に現れ、二代は四代に現れる。だから私の肉体的遺伝は祖父によるものだ。こちらでは高価な日本食ではあるが、どんなに高くてもお茶と梅干だけは譲れない。そう言う訳で今日一日を終えて締めの梅干入りお茶を戴いている。どれほど煩わしい一日であっても、明日がどれ程困難に満ちていても、このひと時は身体の至福の時だ。苦労の耐えなかった祖父も、その時の安らぎだけを糧に、己が人生を全うしたのだ。このお茶を啜りながら祖父の想いが生き返る。
概念
概念が私を創り、概念に沿って生きている。私を創っている概念は神的なものとサタン的なものが混合されて、混合とは聞こえはいいが実は妥協されて、妥協された概念で私は存在し、妥協された概念に沿って生きている。従って私という存在も妥協の産物であり、五感で受け取るものを始め思考や感情内容も、妥協的に受け取り妥協的に思考し妥協的に感情を発する。この妥協的産物である私を妥協的産物である私が妥協的だと判断することは出来ない。私という産物を越えた概念の声として私を妥協的だと認識している。私は堕落した存在だと教えられたからそうなのではなく、堕落した存在だと実感している今一人の自分を既に持っているから堕落した存在だと言い切ることができ、神様の本質から差し出された概念の泉としての御父様を絶対視し、慕い侍っている。この今一人の自分の存在は妥協的産物の私に比べて実に存在感が薄く、圧倒的な支配力を妥協的私は持っている為、堕落的生活、堕落的感覚、堕落的思考や堕落的感情も良しとし、それで何の不自然さも感じなかったりする。堕落人間としては、悩む姿の中にこそ今一人の自分が芽を出す時だ。悩みを必死で抜け出そうと試みるが、抜け出した平安が今一人の自分の願いなのではなく、悩む過程で本質を取り戻し今一人の自分の存在感をより大きなものとすることが大切なのだ。悩みは尽きない。煩わしいことの多さに辟易する。しかし悩めばこそ神様が働いていると言え、煩わしいことの多さに神とサタンの決戦の場が私なのだと思えなければならない。人間は苦労すればこその人間なのだ。苦労する為にこの世に生まれることを選んだとも言える。この苦労が、この遣り切れない痛みが、霊界では逆説的に何倍にもなって喜びに変わる。
2010年1月15日金曜日
えびの高原で
宮崎の都城に少しいたことがある。広島で高校生の時復帰された私は、献身した後暫く勤労青年の宿舎、青年部に籍を置いていたが、広島から宮崎に教会長で就任した先輩の元へ行くことになった。最初は宮崎の市内で販売活動をしていたが、実績を出すのは無理だろうと思われたのか都城の開拓教会へ送られる。そこには腰の悪い教会長と自分の事を自分の名前で呼ぶ少し変わった姉妹がいた。聖日礼拝には二、三人が訪れる程度で、後は万物復帰に明け暮れる毎日だった。ある時、教会長とふたりで熊本まで繰り出したことがある。えびの高原を超え、人吉を通って五木村まで行った。どういう訳か田舎が好きなようで五木村などは山間の谷沿いの急斜面に家屋が点在しており、留守が多い一軒一軒を回るのは大変だったのを覚えている。この遠征に何時にも増して教会長が興奮しているので相当決意しているなと思ったが実は別の要因だった。先ず向かった先はえびの高原だった。えびの高原のどの辺りかはよく解らないが硫黄臭い禿山に小さな露天風呂があった。粗末な脱衣所があるだけの混浴露天風呂だった。風呂には地元の人だと思うが恥を気にしない老女が二、三人入っていた。教会長は、温泉に来たのだからお前も入れと言い残し素早く衣服を脱ぎ捨て入っていった。観光地なだけあって周りには若い男女も通りかかる。躊躇したが言われるままに衣服を脱いで畳むと素早く熱い湯の中に身を埋めた。熱さも半端ではなかったが大事なところを手で覆っただけの若い身体を曝したくはない。教会長はお婆さん達と世間話に花を咲かせている。私は時折通りかかる若い女性の視線が気になって温泉を楽しむどころでは無かった。入れ替わり立ち代りやってくる観光客の途切れるのを待ってやっとのこと温泉地獄から抜け出すことができた。もう少し遅ければ湯当たりで倒れたかも知れない。当時温泉に浸かる金もなく、教会長にすれば只で温泉に入れると踏んで、万物復帰を名目に足を伸ばしたのだろう。勿論その後、更に車を走らせて復帰の為の田舎巡りをしたのだが、出発した時の教会長の意気込みは既に消えていた。
夢にうなされる
見覚えのある当時の暗い宿舎の中に、自分がいる。どういう訳か集まる兄弟姉妹達の顔がよく見えない。顔だけ消されているようでもある。それからどう話が展開したのか、修練会に参加することになって何処かとある雪深い寒村に辿り着く。その場で明日から万物復帰をするように私を含めた三人に伝えられ、道端の倉庫か何かの建物の影で待っている。一人に私が声をかける。今まで殆どの歩みを万物復帰に費やしてきて、もういいでしょう。そんな感じの言葉をかけると、私の先輩格に当たるその人は顔色を少し変えただけで何の返答も無い。彼が同調してくれることを私は期待していた。私の中ではもう絶対無理だと、金輪際万物復帰は無理だと結論を出していた。こんな寒村で逃げ出してもどうしようもないので、明日の朝、任地に下ろされたときに決行しようと決めていた。所持金を確認しながら鈍行で繋げば何とかなると踏んだ。向こうのほうから車がやってくる。二両繋がりの華々しい車だ。中はそれなりに快適な様子で、知らない間に移動車もこんなに様変わりしたのかと思った。懐かしい兄弟が数人降りてくる。又一緒に頑張ろうと声をかけてくれる。明日には逃げようとしているのに申し訳ないなと思った。言われるままに歩む純粋な性格の兄弟達と私の違いは何なんだろうか。とは言っても私も祝福を受けている。逃げ出したとしても祝福を受けた身に変わりは無い。そんな取り留めの無いことを考えていると娘のピアノの音が聞こえてきて目が覚めた。寝る前に風邪薬を飲んだせいかびっしょり汗をかいている。熱でうなされながら寝付くとも無く寝ると、決まってこんな夢を見る。決まって万物復帰にこれから出かける夢だ。そして逃げ出そうとする夢だ。上体を起こして下着を着替えた。今が現実なのか夢が現実なのか、そう思わざるを得ないほど夢は現実味を帯びている。当時の私の歩みの最大の汚点は御父様を慰めようと言う想いが一欠けらもなかったことだ。周りの体裁を気にし人並みの実績さえ出せばそれでよしと決めていた。ゴールを低いところに置けば自分自身も低くなる。逃げ出したい思いのみが最後に残り、どん底を魂は揺らいでいた。
2010年1月12日火曜日
今日の想い 131
度が過ぎていたのはその通りだとしても、その行動に自己中心から出た意志は一欠けらもない。それが天の願いであり自分に要求されるみ旨だと信じればこその行動だ。中心者から一つの数字が渡されそれに合わせてそれぞれの目標を差し出す。その達成に向けて尻を叩かれるとしても、挫ける弱い自分を認識していればこそ中心者の押しも必要条件だと理解している。だからどれ程厳しい中心者であっても感謝しこそすれ、恨みに思うことなどありえない。数字として立てられた目標を絶対視しながら、全体目標達成の為に睡眠時間さえ削って駆けずり回る。自由を剥奪された群れに見られたとしても、堕落して罪ある存在であるなら、自由はルーシェルがもたらしたものとして遠ざけられて当然だ。自分の心魂の中心に、どれだけ小さな種粒ほどであったとしても、ルーシェルの自由に対する本然の自由を植付けられたという事実をそれぞれが実感として受け取り、それを大切に大切に育てながら摂理の激流に身を投じ続けた。しかし三年で天国はできると言われて飛び込んだものの、遠の昔に三十年は超えている。その間多くの兄弟が去って行った。僅かに残った兄弟達ですら昔と変わらぬ信仰の炎を燃やし続けているとは言えない。この地上で生きていく以上、生活に埋もれざるを得ない。生活の中には堕落的な思いも妥協も侵入してくる。しかしこの間、ルーシェル存在にたいして奪われ続けてきた訳では決して無い。御父様の幾度もの死を超える御精誠も、全体的雰囲気の中で捧げることができた精誠実績も、荒地に落ちて実らないかのように思えたにも係わらず、見事に天は注ぎ続けてきたものに対して、それがどれ程些細な、取るに足りない精誠条件であったとしても一つの無駄も出さずに積み上げられて御国の土台とされた。御父様が勝利されたことで全ての我々の精誠は報われる。今だからこそ献身を決意した当時に原点復帰しながら、み言の一つ一つに感動しみ旨への強い衝動を抑えられなかった当時の想いをしっかりと呼び覚まして、寝起きを共にした兄弟達と肩を組み合いながら、一緒に堕落世界の境界線を超えて光満る御国へ前進して行こう。夜明け前の闇が一番濃く、新たな光が訪れる前にはいつも必ず谷間のどん底がやってくる。
2010年1月10日日曜日
プリズム光
離陸した機体はその大きな身体を傾けながら、白く煙る上空に吸い上げられてゆく。直ぐにも青空が広がる雲上に出るのかと思ったが、冬の雲は想像以上に厚いらしい。ある程度の高度まで角度を大きく取って上昇したあと、機体はゆっくり水平に戻そうとしている。その時点でもまだ視界は開けない。それでも高度を少しずつ上げながら、楕円の窓から太陽の光が差し込んできたのは飛び立ってから小一時間経った頃だった。既に機内食のプレートが配られ、箸を進めていた。地上から見上げればあれほど暗く灰色に被っている雲も、陽光溢れる成層圏では、光る白い雲海に様変わりする。機内に冬の柔らかい陽光が直接差し込むと、目の前のグラスに反射させ見事なプリズム光となって私に届けられる。青い光が届いたかと思うと緑に光り、黄だったり赤だったり、位置を僅かにずらしただけで届けられる光が違ってくる。受け取る光は色の違いによって異なる雰囲気を与えてくれる。それぞれの色の光にそれぞれの性格が備わっている。機内食のプレートを下げる為に声をかけたアテンダントに気付かないほど、私はその光に見入っていた。その光の存在達と戯れていた。最近気付いたのだが、実は同じプリズム光を生活圏内でも受け取ることができる。屋内、しかも私が経営している店舗の中でだ。昨年の秋、ダイニングを少し手直しした。寿司バーの化粧棚をつけたりカーペットを替えたりした。オープンキッチンなのだがあまりにも客席と近すぎて、見えなくてもいいところまで見えてしまうのでスモークガラスで幾分隠した。この取り付けたガラスがプリズムとなって、寿司バー内の立ち位置から見るとダイニングの照明光が分散して届く。人工照明であっても機内で出会った同じ光達に店で会うことができた時、地上のここまで尋ねて来てくれたのかと嬉しくなった。取り付けたのは今回の一時帰国の前だったから、その光存在に気付いていても良さそうなものだが、気付くことはなかった。と言うより、その時はまだ地上に降り立ってはいなかったと判断する方が正しい。その光に会うためには微妙な立ち位置と高さの調整が必要であり、ダイニングの照明の強弱も影響する。私は光の友達と呼んでいて、落ち込んでいる時に決まってこの光が届く。
2010年1月8日金曜日
今日の想い 130
イエス様が洗礼ヨハネから洗礼を受けてイエス様の公生涯が始まる。それまでは人間イエスであったかも知れないが、僅か三年のその公生涯の期間はキリストイエスとして歩まれた。僅か三年のこの歩みが歴史的宇宙的出来事として宇宙と人類への福音をもたらした。人類歴史に於いて、全ての肉体を持った人間は堕落したアダムを血統にもつ、罪という欠陥を植付けられた魂存在だ。しかしキリストイエスは同じ堕落人間的様相の肉体をまとっておられるとしても、堕落したアダムとは関係のない、天に見事に隠されていたアダムの原型を、見事にイエス様という肉体に公生涯の始まる洗礼を受けられたその時、植付けられた。御霊がはとの様にイエス様の上に下ったという表現がそれを表している。御父様の自叙伝を読み進めていけば、人間文鮮明の多難な人生に誰もが共鳴しながら、統一食口でなくとも地上的この世的な道理で生きるサタン主管圏内の全ての人々であっても頭を下げざるを得ない。それがサタンも屈服せざるを得ない立場に立たれたことによる地上的実りだ。御父様がこの自叙伝を誰もが手にすることを願われるのは、当然自分を誇りたいからではなく、人間文鮮明を曝け出されたこの自叙伝を呼び水にしながら65億の人類に祝福を与え天国に連れて行きたいという想いからなのだ。その御心情を痛いほどに汲み取れる私達でなければ御父母様の名を語るのさえ恥かしいだろう。食口であれば書かれている内容の多くを摂理として共有しながら御父様と共に歩んできた。一つ一つの摂理に対して精誠を尽くしてきたと言える立場であれば御父様の御心情が直に伝わり一行一行を涙なしで読み進めることはできない。しかしながら私達が悟らなければならないことは別にある。人間文鮮明を超えた、再臨のメシア文鮮明を、神様と一体となられた御父母様を、65億人類の魂に注ぎ込む為には御父母様の代身としての我々はどうなるべきなのかどうすべきなのか。祝福の天宙的価値を我々自身も実感しながら証しを立てることができ、我も我もと祝福を望む者が列を成すようにする為には次元を超えるほどの霊的変革を成し遂げなければならないはずだ。権能を与えると言われたその言葉に、我々の使命的未来がある。霊界は益々激しく地上に流れ下る。善霊も悪霊もこぞって入る事ができる地上存在を探し回る。キリストに仕える霊を統一食口は受け取る存在にならなければならない。
2010年1月7日木曜日
真の愛とは
真の御父母様が地上にもたらしたものは真の愛だ。我々が捉えている愛という概念では測れない真の愛だ。それを受けようにも捉えることができなければ、真の愛は私の身体をすり抜けて素通りしてしまう。生活の中に、自然の中に、宇宙の中に、色んな愛の形が存在している。男女間の事柄も愛には違いない。しかしそこにサタン的地上的愛が流れているにも拘らず真の愛の要素を見る事ができると言えるだろうか。御父母様を真の御父母様と認識する我々であれば、真の御父母様から流れてくる全てに真の愛がその背後に流れていて、御父母様の基準の高さに辟易し溜息をつきたくなる自分を超えながら、しがみ付いて行く中でこそ真の愛が見え隠れしてくる。自分の器としてこれ以上の心情的重荷を背負うことは無理だと、限界領域に於いて悶え苦しむその場でこそ真の愛に対する感性を自分の魂に備えることができる。心情の伝授式に於いて真の愛に対する感性の器官を与えられる。人間はこの肉体をまとい肉体の中に生きているという事実が既に堕落の結果として存在していると言うことだ。やがては灰となり塵となるこの肉体を住処として生きていると言う事自体が地上的堕落的であり、この世的に愛と呼べるものも多分に地上的堕落的だ。その愛には唯一、絶対、永遠性はない。唯一、絶対、永遠の神様に会えるとすれば、唯一、絶対、永遠の真の愛を感知でき受け取ることができるということが、必要条件なのだ。地上的堕落的愛に浮き沈みしている魂は、サタン的なものに相対できるとしても神様にまみえることはありえない。
拾われた者としての姿勢
私達は御父様の本質を何一つ理解してはいない。いや、私が理解していないだけだろうか。そうあることを祈る。祝福家庭の多くが、兄弟の多くが、絶対信仰絶対服従絶対愛の基準と一つになり、御父様を内的霊的に支えきれるまでになっていて欲しい。青春を捧げて献身したように勝手に思っているけれど、持てる何物も無かったから献身したのであり、献身することで真に為に生きようと決意したと言うよりは、外的なことであれ内的なことであれ何かが手に入ると言う思いがあったから献身したのだ。少なくとも私はそうだ。救いという宗教的概念があやふやなまま、何か美味しいもの、気持ちに快いものを受け取ることらしいと勝手に思い込んで出発したとしても、蕩減路程の何処かで修正され成約聖徒に相応しい内的器を用意できたなら、御父様に向かう心情は別様になっていただろう。救いの本当の意味はクリスチャンの方が何倍も解っている。イエス様についてもそうであり再臨主についても勿論そうだ。復帰された牧師へ向けられる御父様の目の輝きは明らかに違っている。私達は彼らを御父様の元に連れて来てこそ、救いの意味も再臨主の本来の価値もわからない我々が御父母様を慕い侍ることの意味がある。取って着けた様な信仰で俄か聖徒を装っても、そう言う我々が二千年待ち続けた彼らに取って変わり超えることは到底出来ない話だ。その自覚があり、せめて謙虚さだけは負けないと我武者羅に歩んでこそ御父様の心を僅かでも動かすことができた筈が、今の多くの食口には謙虚さも感謝も薄らいでいる。御父様の嘆きは天を突く。空しい空っぽの賛辞だけを空間に舞わせたところで御父様の我々に対する嘆きは癒されない。何も無い我々は血と汗と涙を流すことだけが御父様を慰める方法なのだ。血と汗と涙を流すことで二千年待ち続けた彼らを説得できる。み言み言と向かわせ目を通すにも、み言の中にある本質を捉えるほどの内的霊的素養が無い者には、豚に真珠と言う言葉の意味を知るところから始めなければならない。そうではなくて我々に取ってのみ言の力とは、血と汗と涙を流したい想いをみ言の中に見つけ続けることだ。御父様の為なら何でもできる自分になることの方が、今となっては高次元のみ言に頭を傾げることよりも重要なのだ。
ゴルゴダ摂理
最近、天正宮の訓読会のみ言には厳しい内容が多い。今まで伝道が私達の自分の親に対してすら為されていないことや、クリスチャンやキリスト教会への伝道も私達の力不足でできていないことを上げられて、教会を御父様が切らざるを得ないような話をされたり、とても穏やかな状況とは言えない。教会内の一連の事が御父様にそう言わせているとも言えるが、全ては繋がっておりリンクしている為に、私達一人一人の超えなければならない課題、勝利しなければならない摂理が果たされていないためにそういった全体の問題が起こってくる。今年は兄弟一人一人に取っても教会全体に取っても、特に厳しい年になるだろう。それで萎縮してしまってもどうにもならないが、それだけの決意と覚悟は供えなければならないだろう。ある意味、本当の信仰者、真の息子娘が全体の混乱の中から選び出されるとも言えるかも知れない。イエス様が地上にもたらした愛の要素は、当時イエス様や弟子達の迫害の中心的な立場にあったパウロによって広められた。復活されたイエス様にダマスコの地で出合ったパウロの改心、そして復活されたイエス様が人類にもたらしたものをキリスト思想の根幹としてパウロは広めていった。イエス様の愛を植付ける為に人間悟性を耕し、一人一人への神霊の化学反応とも言えるイエス様への目覚めを果たす為にキリスト思想パウロ神学は用意された。ここで神学問答を広げたい訳ではなく、生きたイエス様と弟子達の迫害の中心人物の一人が、今日のキリスト教基盤の中心的役割を果たしたと言う事実を述べたいのだ。十二弟子や彼らに繋がる者達の群れは、再臨時代に於いては御父様に侍る先輩家庭を中心とした教会食口の群れと言う事が出来る。しかしながらイエス様が十字架に架かることで、十二弟子や繋がる者達はイエス様に向かう想いを吹き飛ばされ散らされて一度は跡形も無くなってしまった。肉的サタン的しがらみを越えるほどのものをイエス様との関係に見出されなかったと言う結論が、一度は出されてしまった。御父様と私達の関係が、イエス様と彼らの関係より遥かに強いと断言できるだろうか。私達が、日常の生活であったり糧を得る為の仕事であったり、住み慣れた環境であったりと言ったものに知らないうちに執着してしまって、それが枷となって御父様の願いに対して着かず離れずの曖昧な関係性を許してしまってはいないだろうか。御父母様は勝利されて十字架に架かることは無いにしろ、私達は御父母様との揺ぎ無い関係をサタンに証明してはいない。自分という宇宙で神が立つのかサタンが胸を撫で下ろして喜ぶのか、私のゴルゴダ事件として2013年のその時は刻一刻と近付いている。
2010年1月6日水曜日
意識という触覚
霊的な感性があると言う時、それは意識という魂の触覚を対象に伸ばしながら、対象の思考魂、感情魂、意志魂の状態を自らの魂に映して把握する能力を指す。私達の眼に映ずるもの、耳に届くもの、触れて受け取るもの、実は全て霊的なものであり、単に見たり聞いたりする意味は霊的事物の表面のみを把握していると言うことだ。表面のみを把握して表皮の内にあるものを見ようとしない、或いは表皮の内側は空っぽであるとの認識を唯物的認識と言うことができる。空っぽであるとは原子、素粒子と言う最少単位の物としか捉えられないと言うことだ。最小単位の内的なもの、性相的なものこそ本質であり、それを見届けることが重要であるにも関わらず、そこを問うことを御法度にしたのが唯物主義と言える。霊的なものは生きている世界からは遠くにあるものという認識を、み言を受け入れた兄弟でさえ持っており、生活の中に霊的な事柄は深く関わっているにも拘わらず、この世的即ちサタン的認識に毒されてそれを見ようとはしない。外的表面的生活を主軸にしている限り、生きている間は霊的な事柄はみ言の中だけであり、み言が生活化されないように霊的本質的歩みを見届けられずに生きている。私は霊界を信じますと言うけれど、信じるも信じないも一日二十四時間霊に関わりながら生きている。その認識がある者に取って、信じるという言葉は不可解に思える。呼吸だって霊を吸い、霊を吐いているのであるし、勿論食物だって霊を肉としていると言うこともできるし、身体と言う次元の違う霊として創造されていると言うこともできる。清平の摂理以降、肉体の中に押し込められ肉の中に深く沈滞し切っていた意識が解放されて来ており、それは益々強くなっている。意識が物質次元から解き放たれ、霊的次元に触覚が届くようになっている。霊的光はその強度を増し加え、解放された意識は霊的光、真の愛の届くところであれば幾らでも意識の触覚を伸ばしていける。意識がもっと解放されれば御父様の数理の意味も理解できるようになる。
2010年1月5日火曜日
2010年の決意表明
信じるには信じるパワーが必要だ。行動を起こすにも感情を主管するにもパワーが必要であるように、信仰対象を前にして、その対象が私に歩み寄るのではなく私が前進し歩み寄って行く為に信じるパワーが必要なのだ。強く信じれば対象と一つになれる。目標という対象が、理想という対象が達成される。自分の目標や理想像に対しておぼろげな輪郭や曖昧な達成欲しかなければ決して目標も理想像も自分には近寄ってこない。今の現状というぬるま湯に妥協すれば飛び出す機会を失った茹で蛙になる。今の自分という環境圏はまさしくぬるま湯であり、ぬるま湯に執着しぬるま湯から飛び出す努力を放棄して怠惰なままであるなら、自分と言う環境圏がやがて煮え湯になることさえ見通せない。煮え湯になってしまってあの時行動していればと悔いても流石に遅いのだ。信仰が行動を決定する。強く信じることが行動力への衝動となる。とにかく強く強く想うことだ。強く強く想い続けることだ。手を高く高く差し出すことで、拾ってくれる神がいる。手を差し出さない限り、どれ程待っても引き上げてくれる神はいない。眠り続けてきた冬眠期を早々に切り上げて意識の目覚めを果たし、神の本性である自我を供えた魂存在として、今生の次元に肉体を持って生きる人間として、み旨に貢献していく。み旨に貢献すると言うことは、私という理想像を明確にしながらより高きを目指し、それに呼応させ授受させる形で横的平面的地上的目標を広く大きく描きながら展開を為していく。それには信じることを強く強くしながら絶対信仰と一つになった基準が要求される。景気の悪さに身をすくめ、誰もが怖気づいて手を出すことを放棄している今の今こそ、統一の群れは進軍する時だ。このアメリカがぺしゃろうが天と地がひっくり返ろうが、それでみ旨を断念するべきではないだろう。逆にぺしゃることで後押しされ、ひっくり返ることで後押しされるのだと、そう言い切ってこそ御父母様の運勢圏に入れるのだと断言できる自分になれる。2010年は行動の年だ。
2010年1月3日日曜日
今日の想い 129
レストラン教会で真の神の日の啓拝を捧げる為に向かった折は、雲間から顔を見せる初日の陽光が東向きの正面玄関に届いていた。昨年末は、過去の12月では経験したことのない大雪にワシントン地域は見舞われその後もまた雪に覆われたりで、2010年を穏やかに迎えるという感じではなかった。二人で店に着くと眩しそうに東の空を眺めながら、妻が感嘆の声を洩らす。私も妻の覚えた喜びに素直に共鳴したかったけれど、昨年暮れから抱えている問題が私の内なる心に暗雲をかけている。何時になったらこの暗雲が吹き飛ばされて透き通るような青い空を見上げることができるだろう。霧が深くて明日さえも見えない日々を年が明けても送っている。それなりに責任ある者が年初めにこんな状態ではどうしようもないと、なるべく元気を装うとするが限界がある。決して一日二日で片付く問題では無いにしても、感情の整理や持つべき心情の在り様を先ず探すべきだ。それが為せずに時が解決してくれると思うべきではないだろう。明けて今日二日、凍て付くという言葉そのままに寒風が吹きすさぶ。寒風に身を縮めて身を護ろうとする自分がいる反面、心の内をこの強風に曝して暗雲を吹き飛ばしたいと思う自分がいる。冬には珍しく雷も低く唸っている。自然の摂理から受け取るものが、私の魂の在り様と何らかの関係を持っているはずだ。大雪が降り、強風が吹きすさび、雷が轟くその真っ只中に身を埋めながら、雪を降らす霊的存在、風を起こす霊的存在、雷を響かす霊的存在が私の魂に働きかけている。その力を受け取ることができれば、魂を開いてその力を担えれば、私の魂は強くなる。地球の力を、宇宙の力を得て強くなる。頑なな魂の在り様から自然や宇宙から内的力を得ることのできる柔軟な魂に蘇生させる必要がある。個体的石のような魂を融解させ、委ねて受け取るという液体的気体的働きと力を培う必要は益々迫られるだろう。何が起こるか解らない、思いも因らない事柄が降って沸くことが茶飯事になれば、頑なな内的在り様は命取りになる。
2010年1月2日土曜日
御父母様を見上げながら
人間としての理想像、私の理想像を御父母様の中に見ている。その感覚を得たことが悠久の時を彷徨ってきた魂の救いだ。協助と言おうが輪廻と言おうが、私の魂の中に今生限りでは培われない、明らかに現世を超えた過去生で培われたものを担っている。その現実をどれ程否定しようとしてもし切れない。自分の中の何が理由でこれ程までに目の前の事柄に対してうろたえ、感情を揺さぶられるのだろうかと考え込んでしまうが、他の人であれば何のことはない取るに足りない事柄であっても、私に取っては生き死にに関わる事柄以上の負荷をそれに対して覚えている。魂の何処かに錆びついたかぎ針でも引っ掛けられ固定されたまま動けないのか、翼を傷めた小鳥のように、広い空を飛び回る自由を取り上げられている。身動きできない、羽交い絞めされた魂は、何がそうしているのかその正体を視ることは許されず、何度も何度も生と死を繰り返しながら疲れ果て、今生に於いて焦燥し切っている。おぼろげにでも理想像の在り様を垣間見ることができ、そこに辿り着く僅かの希望でもあればここまで疲れ果てることは無かったろう。しかしながら、訪ね歩き彷徨い歩いた末に、御父母様を戴いている。人間としての理想像、私の理想像を、戴いた御父母様の中に見ている。御父母様への視線を、ただ一つの瞬きさえ惜しむ程に注視し続けて、理想像の輪郭をより明確にし、その御姿と二重写しとなるほどに慕い続け侍り続ける。その理想像との距離があまりに遠くとも、その光の光源を追い求めることを断念して、何か他の容易い理想像が見いだせる訳ではない。唯一御父母様への想いで内面を満たす時にのみ、希望と言う言葉が私に鳴り響く。例えどのような仕打ちを受けようとも、例え無視されようとも、御父母様へ向かう私であってこそ安息圏に留まることができる。
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